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ヘボやんの独り言
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2018/03/28 [Wed] 11:09:06 » E d i t
 これを週刊新潮風に見出しを立てるとすると、主見出しは「捏造と指摘したそれが捏造だった」。脇見出しは「裏取りもせず、捏造呼ばわり その責任をどうするのか櫻井よしこ氏」。ということになろう。勝負あった、である。

 櫻井よしこ氏が法廷で発した最後の一言もまた印象に残った。「朝日(新聞)が書いたものはウソだ。私は間違っていたら反省する。朝日も反省してほしい」――という一言が。私は法廷で声を出すわけにはいかず、心の中で爆笑した。

朝日新聞はこの問題の検証で、吉田清治発言の記事をすべて撤回することを表明し、合わせて植村記者の記事に間違いはなかったことを表明している。櫻井氏の最後のこの一言は、私には犬の遠吠えにしか聞こえなかった。

 それではこの項の最初に指摘した「為にする」その下心はなんだったのか、考えてみたい。ズバリ、南京大虐殺はなかった、従軍慰安婦はなかったという歴史改ざんの押しつけだった、と言えよう。その恰好の〝餌食〟として植村さんの記事を持ち出してきたのである。

 なぜ植村さんだったのか、それは次のステップのために朝日新聞社を退職することが決まっていたからと考えられる。「言論は言論で応えるべき」と櫻井氏は主張した。が、言論の場を去った植村さんにはその〝力〟が及ぶはずがない。あるとすれば、方法は市民的言論、すなわち訴訟しか術は残っていなかったのだ。

 もう一点、強調しておきたいことがある。「思い込み」の恐ろしさについてだ。櫻井氏は歴史修正を主張する〝お友達〟の論文だけを頼って、植村さんの書いたものを「捏造」と批判した。法廷でその出典が間違いだったことを素直に認めたが、ジャーナリストとしては失格に値する。

 その誤った思い込みがネトウヨを興奮・増長させ、北星学園や朝日新聞退職後に予定していた職場、そして家族に理不尽な脅迫を行ったのである。これは見方を変えると「そそのかし」と言えないか。誤った情報にそそのかされたネトウヨもネトウヨだが、誤った情報を提供した方はもっと悪い。裏の取れていない事柄は、思い込みだけで報道してはいけないことをこの事件は教えてくれている。

 それにつけても、家族を守るために、言論の自由を守るために立ち上がった植村隆さんに改めて敬意を表したい。そして、このたたかいは断じて負けられない戦いとしてさらなる支援を強めたいものである。

※詳細は「植村裁判を支える市民の会」ホームページを参照
http://sasaerukai.blogspot.jp/

 ★脈絡のないきょうの一行
佐川証人「刑事訴追の恐れがありお答えできない」。その「訴追される恐れ」の内容を知りたいね
ー。
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2018/03/27 [Tue] 11:27:35 » E d i t
 15分の休憩のあと、次の証人・櫻井よしこ氏の尋問が始まった。

 主尋問のなかでも、吉田清治という名前が何回か出てきた。櫻井氏は植村さんが書いた記事の中の、「売春行為を強いられた」という部分について「これは吉田清治氏の発言をもとにしている。暴力的に連れて行ったということも吉田氏も書いており、女子挺身隊はそんなことはなかった」と主張。

 さらに、(私は笑ったが)従軍慰安婦に関する報道は朝日新聞が多かったことを力説。「朝日がこの問題の(新聞全体の)報道の4分の3を占めたことがある。90年は77%だった。その後は各新聞も書くようになり減っていった」と。そこには〝朝日憎し〟が漂っているだけだったと言っても過言ではない。

 反対尋問は厳しく行われた。植村さんの記事を「捏造」と批判した根拠について、逐一、問い詰めていった。その中心となったのは元従軍慰安婦の金学順(キム・ハクスン)さんらが日本政府に対して謝罪と損害賠償補求めた裁判だった。

 櫻井氏らは、金さんがその訴状で「養父から40円で売られた」と述べており、売られたということは人身売買であり、強制的に慰安婦にされたものではない、と主張したのだ。そのうえに立って、「植村さんは金さんらが慰安婦にされたと捏造した」という論理を飛躍させたのである。

 この点について反対尋問は、訴状に「40円で売られた」という記述がないことを櫻井氏に確認させたうえで、週刊誌やテレビでそのことを主張している事実について書証をもとに指摘、ついに「出典が間違っていた」と櫻井氏は言わざるを得なかった。間違っていた問題については、訂正することを法廷で約束した。監視が必要である。

 この裁判が始まった直後、植村さんは私に「櫻井さんは金さんの訴状を読んでいない可能性がありますよ」と語ったことがある。この証人尋問はまさにそのことを証明したことになる。ということは、賢明なみなさんにはもうお分かりだろう。「捏造だ」と主張したその人が、実は捏造していたことになるのである。(次回につづく)

 ★脈絡のないきょうの一行
始まった佐川喚問。日本の民主主義のカナエの軽重が問われる。いま、歴史が軋んでいる。
2018/03/26 [Mon] 11:12:53 » E d i t
 「為(ため)にする」という言葉がある。それは①ある別の目的をもって、また、自分の利益にしようとする下心があって、事を行う。 「 - ・するところあっての議論」(大辞林第三版)②ある目的に役立てようとする下心をもって事を行う。「我輩固(もと)より―◦する所ありて私立を主張するに非ず」〈福沢・学問のすゝめ〉(デジタル大辞泉)③ある目的を達しようとする下心があって事をおこなうのにいう(広辞苑)――ということになる。

 元朝日新聞記者・植村隆さんの書いた原稿への〝捏造記事〟攻撃は、まさにこの「為にする」ものであったことが明らかになった。

 3月23日、昼休み休憩をはさんで午前10時30分から午後4時50分まで、札幌地裁において植村さんが提起した「私は捏造記者ではない」という名誉棄損裁判は山場を迎え、原告・植村さんと、被告・櫻井よしこ氏双方の証人尋問が行われた。前日札幌入りした私は、傍聴席でその様子を見てきた。以下、その報告である。

 まず原告の植村さんから証言席へ。植村さんは「高知県で母子家庭の子として育ったとき、朝鮮人がいじめられる様子に耐えられなかった。人は平等であるべきだと思ったし、差別問題は新聞記者としての原点になった」「慰安婦問題はその延長で、人権問題として位置づけ取材を重ねてきた」と、慰安婦問題と自分のかかわりについて説明した。

 事件のきっかけとなったのは植村さんが執筆した1991年8月の朝日新聞の記事。はるか昔の記事を引き合いにして、2014年1月からから2月にかけて、「週刊文春」「WiLL」が西岡力氏、櫻井よしこ氏のコメントや論文を掲載し「植村氏の記事は意図的にねじまげたねつ造である」と批判したもの。櫻井氏はニュースキャスターだったこともあり、テレビでも同様の発言を繰り返していた。

 これによって札幌に住んでいた植村さん一家は、右翼などから嫌がらせを受けるようになった。「1週間に250通もの手紙やはがきが届いた」という。合わせて娘さんの顔写真がネットに流され、家族が危険な状況に陥った。

 植村さんへの反対尋問は、「連行」と「強制連行」はどう違うのか、「挺身隊と慰安婦は違うものではないか」など、すでに決着がついている問題に終始した感があった。本件とは直接関係ない従軍慰安婦問題で虚偽の著作を出した吉田清治氏について執拗に質問してきた。

 なぜだろうと疑問に思ったが、はたと気づいた。吉田氏の著作物と植村さんの記事を同列視することによって「捏造」であることを印象づけようとしたのだ。あの、どこかの首相が大好きな〝印象操作〟である。しかし、植村さんの反論によりそれらは粉砕された。(次回につづく)

 ★脈絡のないきょうの一行
八ヶ岳で7人が滑落、3人が死亡。悲しい事件。この種の事故は避けられないのだろうか……。

2018/03/15 [Thu] 15:18:43 » E d i t
 2日目。

 もしかしたら船が動いているかもしれないという期待を込めて、再度、網走港へ。結果は前日と同じように空振りだった。それでは、もう一つの流氷観光の拠点になっている「紋別港」はどうだろうかということで、問い合わせてみた。こちらは網走とは逆で、流氷は遠く沖まで移動しており、時間的にそこまでたどり着くことはできないという。こちらもアウトであった。

 こういう事態になった場合どうするかは、前夜相談してあった。なんと、北見に行こうというのである。平昌五輪でカーリングの選手が食べていた、あの「赤いサイロ」を買い求めようというのだ。女満別空港にも、網走港にも売り切れで存在しなかったためだ。販売元の北見に行けばあるだろうと、勝手に考えた次第である。

 その前に、濤沸湖(とうふつこ)を訪ねることにした。ここは別名「白鳥湖」ともいわれるほどたくさんの白鳥が飛来してくる場所だ。ところが残念ながら白鳥は数えるほどしかいなかった。バス3台を連ねた、中国語の客が大勢いた。

【濤沸湖にて】
沸湖で

【濤沸湖の白鳥】
白鳥

 濤沸湖をあとにして、北見に向かう。とりあえずナビを北見駅にセットして走る。1時間半ほどで北見駅に到着。早速、女性陣は駅に走ったがそこにもあの「赤いサイロ」はなかった。これで諦めるメンバーではない、本店の場所を聞き出してそこへ直行した。が、ここにもなかった。店の説明によると、全国から注文が殺到し、それに追われて地元で売る分がないという。テレビの効果は抜群である。

 北見駅前で昼食をとり、この日は敗北感を味わいながら、すごすごと退却。網走にもどる途中、雪が舞い始めた。東京では趣があるが、北海道のそれは鬱陶しかった。

【JR北見駅】
北見駅

 3日目。

 北海道とはお別れの日である。午前中、時間があったため「流氷館」を訪ねることにした。流氷館は天都山の山頂にある。前日降った雪は止んで、やや薄曇りだが眼下に網走港が広がっていた。

【流氷館屋上の展望台から網走港方面】
天都山から網走港方面

【流氷館入口】
流氷館

 流氷館内には、流氷そのものが保存してある。濡れたタオルを貸してもらって、その場で回すとカチカチに凍ってしまう。寒さ具合を知るにはちょうどいい。クリオネが展示してあった。まさに天使である。写真を撮ったが水槽の中にいて、失敗した(ゴメンなさい)。

 流氷館をあとにして、女満別空港へ直行。帰りはこの項の冒頭に述べたとおり、3時間25分遅れとなり、〝忍耐力〟を試された。

 ★脈絡のないきょうの一行
「うちの妻が言っているから間違いない」……。この人、恐妻家か? それとも単なるアホか。

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2018/03/14 [Wed] 16:56:27 » E d i t
 ここ網走に初めて来たのは1969年の4月、49年前だ。遥か遠い昔になった。当時私は不当解雇撤回闘争を展開中だった。仕事をしていないという〝特徴〟を生かして、白鳥事件の村上国治さんの釈放を求める「全国大行進」が行われ、全行程に参加したが、その最終地点が網走だった。3月から4月にかけて、北海道はまだ寒い季節だった。

 福岡市・大濠公園を皮切りに、主要都市を歩いた。今でいう「キャラバン」だ。行進の模様をはがきにしたためて毎日、獄中の村上国治さんに送った。そのときの様子は、村上さんが仮釈放後に出版した「網走獄中記」に見ることができる。札幌で大規模報告集会を開き、網走まで村上さんを激励に行くことになった。

 札幌から網走までの電車は長かった。4月上旬の北海道は雪化粧したままだった。その寒空でたたかう村上国治さんのことを思うと、胸が締め付けられる思いだった。網走駅から外へ出ると、そこは凍結の世界だった。

 刑務所の門をくぐり、2分ほど歩いた場所に設置してある面会所に入った。村上さんはニコニコと笑顔で迎えてくれ「長い間お疲れ様でした」とねぎらってくれた。もちろん、村上さんと会ったのはこれが初めてだった。人懐っこいその目に、「この人に殺人はできない」そう確信した。

 この年の6月に札幌高裁は再審請求を棄却した。その報告を兼ねて2度目の面会をしたが、そのあと11月に村上さんは仮釈放され再会の場面は東京となった。以来、村上さんとの交友は続いたが、94年11月に自宅の火事に遭いそれに巻き込まれて帰らぬ人となった。71歳だった。

 村上国治さんの再審は実現できなかったものの、「再審においても疑わしきは被告人の利益に」という最高裁のいわゆる〝白鳥決定〟が確定した。これにより死刑台から生還した人が生まれたのはご承知のとおりである。

 そんな思いのある網走刑務所は、以前見たときと同じように荒涼としていた。

【網走刑務所の門。昔、金網の先に面会所があった】
網走刑務所

 泊まったホテルは天都山の中腹にあった。部屋の窓から網走湖が眼下に見える。ちょうど日没の時間となり、その変化を楽しんだ。湖は全面凍結しており、ワカサギ釣りのテントが張り巡らされていた。カニがついた夕食に舌鼓を打ち、早めの就寝とした。(次回につづく)

【ホテルから網走湖の日没風景】
網走湖の日没

 ★脈絡のないきょうの一行
森友疑惑に「かかわっていたら議員も辞める」というあの言葉、改めて確認したいものだ。
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2018/03/14 [Wed] 11:52:16 » E d i t
 流氷ツアー報告の途中だが、〝割り込み〟をしたい。国税庁批判だ。昨日は上が上なら下も下、という思いを見せつけられた。「下」の神田税務署を訪ねたときのことだ。

 昨3月13日は1970年からつづく「重税反対統一行動日」だった。今年は、520カ所・10万人が参加したという。千代田春闘共闘は例年、民商のみなさんと一緒に集団申告に同行している。今年もやった。行き先は神田税務署。税務申告と同時に、森友疑惑に関する文書改ざん問題について抗議、善処を促すことにしてあった。その行動に千代田春闘共闘を代表して私が参加した。

 実は私、いま左足の膝を傷めており、5分と立っていられない。申し入れに際して、その旨伝え、「座ってやりたいので会議室を準備して欲しい」と要望した。いつもは、玄関先で立ち話しで申し入れ書を渡し、文章を読み上げて渡すのだが、今回はこちら側の体調が悪いことと、森友文書改ざん問題があり、そこのところを詳しく聞きたかったのだ。

 ところが対応者は「空いている部屋はない。この場で(申し入れ書を)受け取りたい」の一点張り。「この税務署には会議室の一つもないのか」という質問に、「仮庁舎でありそういう場所はない」と答えた。

 この対応、だれが信じるだろうか。税務署に会議室の一つもないなど、あり得ないではないか。「下」でも平然とウソをつく体質は、文書改ざんをした「上」と同じだ。押し問答のすえ、「あそこで」と指さしたのは玄関ホールに据えられた長椅子。来客が待ち合わせをする場所だ。

 これが納税者としての〝お得意さん〟を遇する対応だろうか。信じられなかった。

 民間では考えられない。たとえば、みずほ銀行。ここは明治乳業の筆頭株主である。その立場から明治乳業の賃金差別事件について解決に尽力してほしい、と何回も要請してきた。銀行としては直接関係ない争議だが、その度に部屋を確保して対応する。これがフツーなのである。

 ところが、税務署はどうだ。上から目線でまるで「お前たちの話しを聞いてやるのだから」という態度丸見えである。長椅子で対応することに恥ずかしさはないのだろうか。私の膝の痛みは時間が経てば治る。これが、身障者が来訪してきたらどうするのか。あの人たちは同じ対応をするのだろうか。きっとそうだろうナと思った。

 驚いたのはこれだけではなかった。申し入れ書を読み上げたあと「森友文書改ざん問題で、納税者から声はないか」と聞いてみた。この質問に「申告を受けるのは違う場所なので聞いていない」と答えたのだ。何をかいわんや、である。いま、一番大事な問題について何も聞いていない、というのだ。その危機感のなさに呆れ果てて議論する気にもなれず、申し入れを打ち切った。

 文書改ざんを平気でやる上が上なら、納税者と直接対峙する「下」の対応もさもあらん、というところだ。税務行政の本来あるべき姿など、遠い、遠いところにあるようだ。改ざん疑惑、徹底して解明すべきだ。

 ★脈絡のないきょうの一行
森友文書改ざん問題、ここまでくれば安倍内閣総辞職でしょう。悪あがきはおやめなさい。

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2018/03/13 [Tue] 12:14:00 » E d i t
 先月22日から3日間、流氷を見ようということで網走を訪ねた。女性3人と私の仲良し4人旅となった。流氷観光は結論からいうと、勝率60%というところだっただろうか。以下、観光旅行だが報告したい。

 旅行はスタートから遅延となった。初日に流氷を見る予定にしていたため、気を揉んだがセーフであった。帰りはご覧のように大幅遅延。航空会社はお詫びとして一人2000円の「お食事券」を支給してくれた。それを活用し、ビールやジンギスカンとなって腹に納まったことはいうまでもない。

【行きは30分遅れ】
遅延2 (2)

【帰りは3時間25分遅れ】
遅延2 (1)

 女満別空港でレンタカーをゲット。雪道運転は久しぶりだったが、10分もすれば慣れた。一路、網走港へ。行くまでの間、同行者のケイタイで流氷船の運航状況を聞いてもらった。「流氷が接岸し、船が沖に出ることができず、網走港内をぐるぐると周るだけ」という回答を得た。明日はどうなるか、という質問には「分からない」。とにかく、網走港まで行ってみようということになり港を目指した。

 流氷船・おーろら号の乗り場は、道の駅と同居している。その道の駅に車を止めて、改めて様子を聞く。やはり、同じ。どういう状態になるのか、実際に見てみようということになり港沿いを車で走り様子を見る。

【停泊中のおーろら号、乗客はいっぱい】
出発前のおーろら号

【走る船を背景に記念写真】
走るオーロラ号 (1)

 上記写真よりさらに右側に進んだ所で船の様子をうかがったが、説明通り、港内を周るだけだった。シャレではないが「ぐるぐる周るだけと言っていたから、2周するのかな」と笑いながらみていたら、3周目に入った。周る様子を見ているだけでは面白くないとその場を撤退、この日の乗船をあきらめてホテルへの道についた。

【流氷の海に浮かぶ水鳥。元気に潜っていた】
網走港で。寒くないのかなー

【港内の流氷を割いて悠然とすすむ船】
港内を悠然と

 ホテルに向かう途中、「網走刑務所」という看板を見つけた。時間的余裕あるということで、ここに立ち寄ってみることにした。(次回につづく)

 ★脈絡のないきょうの一行
文書改ざん究明のため、辞任しないと麻生財務大臣。刑事被告と検察官が同一人物に見えるのは私だけかなー。

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2018/03/12 [Mon] 08:07:02 » E d i t
 東日本大震災が起きた翌日、2011年3月12日お昼前、私は宮崎空港に立った。この日から3日間、新燃岳噴火による被災状況を調査するためだ。この調査には15人が参加することになっていた。ところが準備のため前日に行っていた2人以外、到着できたのは私だけ。調査団は3人だけとなった。

 案内人が6人、参加者が3人という〝豪華〟な旅となった。都城市の降灰の状態、その灰を廃棄し山となった灰の堆積場、被害の大きかった牧場、噴石によって天井に穴のあいた倉庫などを案内してもらった。人的被害はなかったが、こちらもまた甚大であった。

 新燃岳は2010年3月ころから活動し始め、翌年2011年(平成23年)1月19日に小規模噴火の後、同26日に大きな噴火に変わった。1月27日頃から溶岩の出現も確認され、約300年ぶりのマグマ噴火となったものである。

 ここ2、3日この新燃岳の噴火が起き、火口から溶岩が流れだしたことが確認され、テレビ画面にも映し出されている。11年のときは新燃岳大噴火から約2か月後に、東日本大震災が起きた。予兆ではあるまいが、新燃岳の噴火が大震災の前触れでないことを祈りたい。

 東日本大震災は「あれさえなければ、復興はできたのに」ということが言われた。そう、「あれ」とは東電福島第一原発の事故である。原発の放射線で汚染された地域の復興は遅々として進んでいない。あの事故は、原発の持っているリスクの大きさを世界の人々に教えた。しかし、安倍内閣は原発推進をやめようとしない。あの、小泉元首相でさえ、原発はなくすべきだと言っているにもかかわらず、である。

 私も、原発はなくすべきだという一人である。その被害状態を知るために、福島第一原発近くを走る国道6号線沿いの線量を調べてきた。2014年の9月に第1回目を行い、昨年4月まで毎年行い4回を数えている。今年も行くつもりだが、改めて17年4月のものを報告したい(下図は17年4月30日の小ブログで紹介したものの再録)。

【4回目の線量調査】
170428線量調査
 私は「その国の政治の良し悪しは、弱者にどれだけ手厚い政治が行われるかによる」といい続けている。一つは、子供。もう一つはお年寄り。そして3つ目は、災害被災者。私自身、災害被災者への支援活動は25年を超えた。たくさんの現場も見てきた。そのたびに〝貧困家庭ほど被害が大きい〟ことを知らされた。

 その考えは今もって変わらない。国有地を森友学園に8億円もの値引きをするのであれば、被災者支援に回せ。オスプレイを買うお金があるのなら、被災者支援に回せ――そういう思いは、ごまめの歯ぎしりなのだろうか。

 ★脈絡のないきょうの一行
「森友文書改ざん 複数の職員関与」の報。問題はそれを誰が指示したかだ。
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11566 忘れない③止 
2018/03/11 [Sun] 21:36:29 » E d i t
 JAL争議支援の宣伝行動は午後5時から予定していた。とりあえず、集合場所に行こうということになり、マリオン前へ移動。ここから晴海通りの上に架かるJRのガードが間近かに見える。そこには下り方面の新幹線が止まったままになっていた。時間はすでに4時を回っていた。それに乗り合わせた人がどうなったか知る由もないが、不安だったことは推して余りある。

【有楽町の晴海通りのガードで止まった新幹線】
05.jpg

 この時間帯になると、ケイタイもつながりネットを見ることも出来るようになった。それを見せてもらうと津波が押し寄せてきたと伝えている。それを確認しあわてて、近くのビル壁面に設置されたテレビを見に行った。空から撮影した映像が流れていたが、津波がすさまじい勢いで押し寄せてくる様子が映し出されていた。

 その瞬間、私は「大量の犠牲者が出るぞ」と叫んでいた。その予想は悲しいことに的中した。宣伝行動は5時からの予定だったが、これも予想どおり「中止になりました」と争議団の仲間が伝えにきてくれた。

 交通は全面的に止まっているらしい、ということで「動き出すまでの間」ということで時間つぶしを兼ねて近くの居酒屋に入った。ビールを飲みながらこの日の行動の総括をやり電車が動きだすのを待つことにしたのだ。しかし、動いた、という情報はない。

 結局、夜9時過ぎまで居酒屋で過ごし、神保町にある事務所まで歩こうということになった。3時間は飲んだことになる。それなりに酔ったことは言うまでもない。有楽町から神保町まで、地下道を歩いた。大手町駅周辺には帰宅できない人たちが座り込んでおり、声をかけたら「電車が動くのを待っている」と答えた。

 そう、帰宅難民だ。壁際は寄り掛かった人でいっぱいになり、スペースがない状態になっていた。幸いにエレベーターが動いていた事務所にもどり、近くのコンビニをのぞいてみた。おにぎりなどの食料品の棚はからっぽになっていた。頷ける光景だった。

【からっぽになったコンビニの食料品棚】
カラの食料棚

 事務所の窓から外を見ると、普段の昼間でも考えられない数の人たちが、歩いていた。車は渋滞し、それこそ1ミリも動いていなかった。テレビを見ながら電車が動く時間を待った。しかしその気配がない。ところが都営地下鉄が動き出したという情報が流れた。

 練馬に住んでいる私はそれアテにすることにして、仲間たちに別れを告げて神保町から飯田橋まで歩き、大江戸線ホームで待った。電車は来ない。なかなか来ない。ホームは人で溢れている。やっと到着したそれに乗って都庁前で乗り換え。が、またしても苦難が。ホーム一杯に人がいて、電車が来ても乗れないのである。

 そこで一計を案じた。姑息だが「一駅戻ろう」がそれだ。行き先は終点。したがって一駅、「新宿」まで戻り乗り換えた。結果は成功だった。終点・光が丘に到着して迎えに来てくれるよう自宅に電話したのは、午前2時を回っていた。神保町を出て、3時間である。そして翌朝、私は新燃岳の被災地調査のため、羽田から宮崎に向かう飛行機の客となっていた。

 ★脈絡のないきょうの一行
佐川前国税庁長官、籠池森友学園前理事長と同じ道を辿りそう。逮捕はいつかな? よもや死ぬことはなかろうが。
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11565 忘れない② 
2018/03/11 [Sun] 18:25:07 » E d i t
 さて、どうするか。一緒に歩いていた仲間たちと相談し、この日の要請行動を断念することにし、「われわれも避難しよう」ということで、日比谷公園を目指した。その間も揺れが続いていた。地震が起きて15分とは経っておらず、震源地がどこか心配になった。

 ケイタイ電話(私は持っていない)を持っている人に、誰かに聞くことはできないかと、相談してみるが、電話がつながらないという。日比谷公園に向かう途中、誰からともなく「震源地は宮城沖らしい」という声が流れてきた。

 この時間帯には明乳争議に関する要請で、みずほ銀行に行った仲間たちはすでに話し合いに入っていた。そのとき、揺れのひどさに双方は「改めてやり直しましょう」ということで切り上げたという。要請は地下会議室で行っていたが、このままビルが倒壊したらどうなるんだ、と不安になったという。そのあと外に出るとき揺れが襲い、入り口のガラス窓が弓なり状態に曲ったという。これは恐怖である。

 日比谷公園は人であふれていた。防災用のヘルメットをかぶっている人もいた。それも色とりどりで「ヘルメットは黄色や白だけでなく、いろいろな色があるんだ」とヘンに感心したものである。

【日比谷公園、噴水付近】
03.jpg

【日比谷公園、地下鉄日比谷線入り口あたり】
04.jpg

 つづいてこのあとどうするか――。とりあえず、家族との連絡を取ろうということになったが、ケイタイが繋がらない。一番近い地下鉄「日比谷駅」に入れば公衆電話があるだろう、ということになりそちらへ移動。確かにあった。が、そこは列ができていた。

 仕方がないので、われわれもそこに並ぶ。すると、私の2人前の女性が困った。硬貨はあるがそこの電話機はカード専用のものだったのだ。こういうときは、ケイタイを持っていない私は有利だ。いつもテレカを持ちそれで自宅と連絡を取り合っているからだ。困ったときはお互い様だ。その女性にカードを貸してあげた。喜んでもらえた。

 その場にいた仲間たちは何とか家族と連絡がとれて、この日の最後の行動予定であった有楽町のマリオン前に向かった。ここでJAL争議の支援を訴える宣伝行動を行うことになっていたからだ。(次回につづく)

 ★脈絡のないきょうの一行
森友疑惑、ここまでくれば昭惠夫人の国会喚問しかない。日本の民主主義のカナエの軽重が問われる。

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11564 忘れない① 
2018/03/11 [Sun] 17:58:02 » E d i t
 あれから7年。関連死を含めると2万2000人を超える犠牲者を出した東日本大震災。改めて、亡くなられた人々のご冥福をお祈りします。

 あの日、自分はどうしていたか、何を考えていたか、都内の状況はどうだったか、もう一度振り返ってみたい。

 2011年3月11日は、春闘勝利をめざす「3.11千代田総行動」を展開していた。早朝から7つの駅でビラ配布、終わったあとは争議解決をめざす要請行動。昼休みは区内・錦華公園から九段下まで昼デモ、午後も年金問題などの要請行動を予定していた。

 昼デモは100人を超える参加があり、盛り上がった。いつもの錦華公園から九段下までのコースである。神保町の書店街にシュプレヒコールを響かせた。

【昼休みデモ】
01.jpg

【昼休みデモ・神保町交差点】
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 昼食をはさんで午後の要請行動に移り、私は麹町税務署に民商の人たちと集団申告を行い、消費税増税反対を訴えた。もう一つの組は、賃金差別とたたかう明治乳業争議団支援で、明乳の筆頭株主であるみずほ銀行に、株主として争議解決を図ってほしいという申し入れをすることになっていた。

 麹町税務署を出て、私は年金問題で要請する次の厚労省に向かう途中、午後2時47分過ぎ、あの地震がやってきた。厚労省に入る直前だった。歩いていると足元がグラグラしてきて、一瞬、脳梗塞でも起こしたかと錯覚した。その瞬間、近くの電柱にしがみついた。一緒に歩いていた人も同じことを考えたという。

 そして間を置かず、地面が大きく揺れた。「地震だ」とそのときやっと理解した。厚労省が入っているビルを見上げると揺れる様子がはっきり分かった。「これが倒れてきたらどうなるんだ」という恐怖感がよぎった。そのときはあそこに逃げ込むしかない、と、ブロックで囲まれたビルの植え込みの下を考えていた。危機管理能力としては、低い点数である。

【地震直後の厚労省前】
DSCN7053.jpg

 館内放送も聞こえてくる。「外へ避難してください。避難場所は日比谷公園となっています」という声も流れてくる。ビルからは次々に出てきて、日比谷公園方面に歩いていく。その間も、何回か地面が揺れた。(次回につづく)

 ★脈絡のないきょうの一行
森友疑惑、佐川国税庁長官の「トカゲのしっぽ切り」で終わらせるな。

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