ヘボやんの独り言
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2017/05/09 [Tue] 11:09:30 » E d i t
 実に情けない。これが政治家を自認している人の言葉か。笑うに嗤えず、怒りさえ覚える。

                              ◇
 「自民党総裁としての考え方は読売新聞に相当詳しく書いてあるから、ぜひ熟読していただきたい」「党総裁としての考えをここで縷々述べるべきではなく、そこで知っていただきたいということ。その中で、草案との考え方についても説明している。そもそも、新聞記事などを発端に質問をされている」
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 きのうの国会で民進党の長妻昭議員の質問へのアベ答弁である。

 新聞記事などを発端にした質問だから新聞を読め。そうすれば質問する必要はないし答弁も必要ない、と言っているのである。しかも国会で読売新聞の大宣伝をやってくれた。やはりあの人は読売の広告塔だった。読売新聞が政府・自民党の広報紙的役割を果たしていることに強く納得。こういうのを相思相愛、というのか。それとも忖度した上での阿吽(あうん)の呼吸か。

 野党は「国会軽視」であるとして一斉に反発している。当然だ。こういう手法が許されるのなら、国会はいらない。新聞紙上や出版物で自らの主張や考えを述べることは、言論・表現の自由である。その意見に対して、質問をすることもまた自由である。

 が、今回の問題は実に深刻だ。よく考えてみると長妻議員の質問をアベさんは封じたことになるからだ。つまり、自分の自由は保障しながら、相手の質問の自由を切って捨てたのである。これはもっとよく考えてみると、ファッショである。

 つい先日、小ブログで「失言」と「虚言」の問題を書いた。失言も虚言もある意味「言論・表現の自由」の範疇に入る。だからと言って、何でもOKではない。政治家、とりわけ大臣の席に座った人は、国の代表なのだから発言には責任がついて回る。(平気な人もいるが)だから大臣としての資質を問われ、失言した場合、辞任を求められるのだ。虚言が問われないのは釈然としないが……。

 今回のアベ発言は、失言や虚言よりも悪質である。言論を封殺したからだ。フランスで新大統領が誕生したとき「(新大統領とともに)平和や自由、民主主義を守る」と言ったその日の、いわば舌の根も乾かない時間差の答弁だった。この言葉自体がウソだったのだ。

 この人はもう何枚のレッドカードを突き付けられただろうか。「嘘つき総理大臣」は、即刻退場しかない。

★脈絡のないきょうの一行
忖度させる典型。首相夫人との記念撮影提示は、効果てきめん。やるねー、籠池さん。

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政治問題 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2017/05/06 [Sat] 15:13:26 » E d i t
 当時、中卒者は「金の卵」ともてはやされていた。高度成長期にあって、重要な働き手だったからだ。子どもたちは〝金〟を生んだのである。ちなみに、現在すすんでいるNHKの朝ドラ(ひよっこ)は東北地方出身の子どもたちが多いが、九州、四国からの集団就職は大阪、愛知に配属されていた。

 東京に出てきたのは良かったが、仕事を探すのに苦労した。みつかったのは新聞配達だった。集金はなく朝夕の配達だけで宿舎や社会保険も完備しているという。有楽町にあるその新聞販売店に飛び込んだ。前述したように、同じような勤労学生ばかりだった。店は全ての新聞を扱っている「合売店」だった。

 配達先は企業だったため、一般家庭のように早起きは必要ない。販売店が借り上げたアパートから電車通勤で十分間に合った。企業相手の配達は、かなりの量になった。自転車に積むと、自分の背丈ほどになった。当時はまだ路面電車が走っており、雪が降った日はその線路に自転車のタイヤがはまり、新聞ごと倒してしまい〝泣き〟が入ったものである。

 その新聞販売店が、私が労働運動を始めるスタートになったのである。1964年に上京し翌65年に初めてメーデーに参加。ということは、組合活動に参加したのは17歳だったことになる。(自分で言うのも変だが)実にませた高校生だったといえる。

 私がそうなった背景はあった。父の影響である。父の具体的な活動の中身は覚えていないが、一生懸命に労働組合活動をやっていた。当時、炭鉱労働者の組合は「炭労」と呼ばれ総評の中ではいわゆる闘う労働組合だった。父の思想的背景には、九州大学教授の向坂逸郎教授がいた。

 私が炭住街で暮らしていたころ、エネルギーが石炭から石油に変わっていった。そのため炭鉱は次々と閉鎖され、そこで働いていた労働者は職を失っていった。その最大の闘いが「三井・三池闘争」だった。この闘争を指導したのが向坂逸郎氏だと言われている。当時の社会党内にあった、いわゆる協会派である。

 私の父はこれに影響を受けていたのではなかろうか。中学生のころ、「向坂先生」という言葉を幾度となく耳にしたことがある。中身は覚えていない。が、父は向坂理論を糧にして活動していたと思われる。その意味において組合活動は徹底してやっていたし、レッドパージの対象者にもなったのだろう。

 その父の影響が、私の中にあったことは事実だと思う。新聞販売店の待遇改善は当然だと思ったし、組合に入るのに抵抗はなかった。以上、やや長くなったが、私がメーデーに参加するようになったきっかけを述べてきた。その労働運動が今でもつづいていることに、誇りをもっていいだろう、そう考えている。

★脈絡のないきょうの一行
7日・フランス、9日・韓国で大統領選挙。目が離せないぞ。

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2017/05/03 [Wed] 08:56:20 » E d i t
 私のルーツは、五島列島にある。だからと言って、五島で暮らしたことはない。聞いたところによると、父の家族が詐欺に遭い田畑すべてを失くし〝労働者化〟して、島を離れて手っ取り早い炭鉱夫になったという。私が生まれたときに祖父はすでに他界していたが、父もその兄弟も長崎県、佐賀県、福岡県の炭鉱街で炭鉱夫として働いていた。

 私が生まれたのは、父が戦地・中国から帰ってきた1947年。団塊の世代だ。佐賀県伊万里市の炭住街だったがすでに二人の姉がいた。私が生まれた直後、福岡県直方市に移っている。父は労働組合の活動をやっていたらしく、レットパージを受けている。そのため、炭鉱を転々としている。もちろん、子どもである私も一緒に動いた。

 小学校2校、中学校は3校を経験している。その度に教科書が違い、苦労したことを覚えている。考えてみれば、当時は学校ごとに教科書を決めていたようだ。教師が選んでいたと思われるが、国の検定を受けたものではなく、それが本来の姿ではなかろうか。

 話が横道に外れた。私の下に妹と弟3人が生まれた。「貧乏の子沢山」の典型で、両親は7人の子どもを育てることになったのである。手元に写真家・土門拳の「筑豊のこどもたち」という写真集がある。

 1960年の作品であるが、この中に学校に弁当を持って行けない子供の写真がある。昼食時間に本を読んでいる。私はその子と同じだった。私の場合は学校の図書館に籠った。子どもに弁当を持たせてやれない母の気持ちはいかほどであったか、それを思うと今でも心が痛む。

 そういう生活のなかで、私は小学生の頃から定時制高校に通う、ことを決めていた。したがって中学卒業とともに、集団就職列車に揺られ愛知県刈谷市の鉄工所に勤めた。ふるさとを離れるとき母が見送りにきてくれた。15歳の少年の旅立ちだった。母はずっと手を振っていた。その姿を見て、小林多喜二の言葉を借りれば「泣かさって、泣かさって」仕方がなかった。

 ちょうど今、NHKの朝ドラが集団就職で上京して仕事をする子供たちの姿を描いている。あれとオーバーラップする。私は仕事が終わって、刈谷から(今では)JR東海道線で6駅離れた岡崎の工業高校の定時制に通った。もちろん電車通学は初めてだった。

 ところが、大学に行きたいと考えていた私はショッキングな話を聞かされた。大学に行くには、工業高校は不利だというのだ。悩んだ挙句、普通高校に乗り換えるため当時東京に住んでいた姉を頼って上京した。東京オリンピックが開かれた1964年であった。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
祝・憲法制定70年。平和主義はいつまでも元気であってほしい。

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2017/05/02 [Tue] 22:30:13 » E d i t
 きのう、代々木公園で「メーデー」が開催された。連合は4月29日に行っており、本来の5月1日はこのメーデーが〝本家〟である。メディアは、「全労連系」という表現をするが、これは間違い。全労連に参加していない組合も含めて、実行委員会を構成し代々木公園に結集するからだ。当然、千代田区労協もここに参加する。

 私は、今年でメーデーには連続53回目の参加となった。〝初メーデー〟は1965年。まだ高校生だった。定時制高校に通っていた私は、職場の労働環境があまりにもひどく、個人加盟の労働組合に加入していた。職場は新聞販売店だった。

 なぜこの職場を選んだか。定時制高校生にとっては絶好の環境だったからだ。朝刊の配達が終わって夕刊の配達までの間、勉強できたし昼間の大学に通学している仲間にとっては夕刊までに戻ればいいわけで、好都合だった。その新聞販売店には90人近くが従事していた。そのほとんどが、私のような高校生だったり、大学生だったり、大学受験生だった。何故か司法試験の受験生もいた。

 配達地域は千代田区内の大企業が密集する丸の内・大手町界隈、さらに霞ヶ関の官庁街もエリアだった。首相官邸、宮内庁にも配達していた。総理大臣や天皇は私たちが配達する新聞を読んでいた。今でもこの販売店は同じエリアを配達している。

 ここで待遇改善のたたかいが始まった。要求はシンプルだった。今でも残っている所もあるが、新聞販売店は朝刊の配達が終わると朝食が出た。この朝食に「おかずを出せ」というのが要求になったのだ。そのころの朝食は、ご飯と味噌汁、そして漬物だけだった。いわば、〝おかず闘争〟だ。

 そしてもう一つは、通勤手当をよこせ、だった。学生だから、ということで仕事のための交通費は支給されていなかったのだ。二つのシンプルな要求は共感を呼び、非公然だったが労働組合を十数人で結成した。この組合を軸に「従業員自治会」なるものをつくり、ここが要求交渉に当たった。結果は、なんと100%の要求実現をみたのである。

 ところが、その後販売店は1967年の春から夏にかけて、私も含めて6人を解雇したのである。恐らく組合結成の首謀者と見られたのであろう。6人の内訳は、大学生4人、予備校生1人、そして私は高校生だった。なんと、高校生争議団の〝誕生〟だったのである。初めてメーデーに参加したのが1965年。その2年後にクビを切られたのである。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
北朝鮮の核実験に、噴火の恐れ(CNN)。アメリカや、イギリス、中国の時にはその懸念はなかった? ヘン。
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