ヘボやんの独り言
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2016/05/30 [Mon] 15:34:27 » E d i t
 道路際に下記写真の家屋を見つけた。「ありがとう がんばるぞ熊本西原村」と壁に書いてある。その家自体、屋根瓦が散乱していたが「地震に負けない」という思いだろう。雲仙普賢岳の火砕流災害の時、「普賢さんに負けたらいかん」という大きな横断幕が掲げられ、メディアにも取り上げられて話題になったことがあるが、被災者の心意気を感じる。

 このような書きつけを見るとこちら側が励まされる思いであった。

【〝がんばるぞ熊本西原村〟】
西原村ガンバル

 西原村をあとにして、南阿蘇村に入った。写真はう回路を使って、高台から撮影したものだ。少し見えにくいかもしれないが、のどかな田園風景である。この村が大地震によって大きな衝撃を受けたのだ。

 少し見づらいが、写真左手の山の地肌が茶色になっている。これは最近崩落したものと思われる。地震による山の崩落で大きな被害が出た。この状況は08年6月の「岩手・宮城内陸地震」の被害状況とオーバーラップする。宮城県栗原市の荒砥沢ダムあたりで大規模崩落が起きて、まるでグランドキャニオン状態になっていた。これもまた、直下地震の怖さであった。

【田園風景の南阿蘇村。知らなければ地震があったとは思えない】
南阿蘇村3

【荒砥沢ダム近くの崩落現場(09年10月撮影)】
DSC_0698.jpg

 南阿蘇村から阿蘇山を正面にして、東側・高森町を経て車は阿蘇神社に向かった。余震はつづいており、山間部を走るとき、「急ぎたい」という思いがそうするのだろう、ついついアクセルを踏んでしまう。

 阿蘇神社の状況は、まず写真を見ていただこう。楼門の写真は、倒れる前のものを神社の正面に掲示したありそれを使ったもの。最後は本殿である。

【倒れる前の楼門】
阿蘇神社・崩れる前の楼門

【倒れた楼門の屋根(裏側あたりから)】
阿蘇神社21

【崩落した拝殿】
阿蘇神社04

 これは立派な楼門(2階建てになった門)だ。歴史と格式を感じさせる。神社の参道の土産物屋のおばさんは「1回目は大丈夫だったが、2回目の地震で倒れた」という。2回目の本震が直撃したのだ。確かに見るからに屋根は重そうだ。

 2枚目は楼門の裏側あたりから撮影したもの。立ち入り禁止になっており、近づけなかったが様子は分かる。倒れたときは真夜中だったため、人的被害がなかったのがさいわいだ。

 3枚目は、崩落した拝殿である。中央部の崩れたところがそれである。ここも楼門と同じように2回目に崩れたという。たまたま熊本県議会の議員さんたちが視察に来ていた。中央は宮司さんだろうか説明しているようだ。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
野党、内閣不信任案を提出。虚々実々の国会運営。うんざりするね。

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2016/05/30 [Mon] 11:01:14 » E d i t
 ブログのアップが少し停滞しました。ご容赦を。

 益城町を通過して西原村に入った。今回の地震の原因ともなった布田川活断層のあるところだ。なんとかして亀裂の入ったその現場まで行きたかったのだが、道路は寸断されており、諦めるしかなかった。しかし、〝活断層の上にある村〟とでも言おうか、破壊力はすごいと思った。

【西原村①/破壊力はすごい】
西原村23

 上の写真は左側が神社の入り口で、神社を取り囲む石垣が崩れ落ちていた。熊本城の様子とよく似ている。重機を使わなければこの石は持ち上げきれないだろう。すさまじい破壊力である。この石垣は写真の右奥に30メートル以上はつづいているが、これが全て崩落していた。これは復旧に相当な時間がかかるだろう。

【西原村②/倒れかけた家屋】
西原村

 これは見るからに危ない状況である。もちろん、人は住んでいない。もう一度震度6クラスが襲えば、倒れるだろう、そんな気がした。被災地を歩くときは準備したヘルメットを着用しているが、それでも現場からは足早になる。

 下の写真は、上記のほぼ向かい側の家の入り口を撮影したものだ。赤い「危険」と書いた紙が貼られている。この紙が貼られた家は、基本的には入れないことになっている。しかし、そこに住んでいた人は、簡単にはいかない。生活必需品を取り出すために、出入りは必要だからだ。

 この紙は通称「赤紙」と呼ばれる。これを貼られた家で、全壊でなければ国からの補償金は極端な減額となる。住み続けることができないにもかかわらず、だ。どこかで線引きをしなければならないのだろうが、釈然としない。

【「赤紙」が貼られた家】
西原村10

 95年の阪神淡路大震災のとき1か月後に被災地に入ったが、「危険」貼り紙の家屋にローソクで暮らしている人を見かけた。これは危ない。しかし、住む場所が確保できない限り、そうせざるを得ない被災者にとってやむを得ない選択だったのだろう。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
中止なら分かるが経済策の失敗を〝国際経済〟のせいにして、消費税増税2年半延期? フザケルナ。

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2016/05/20 [Fri] 13:57:39 » E d i t
 中越沖地震は、2007年7月16日に新潟県中越地方で発生。M6.8、柏崎市、刈羽村、長岡市では震度6強を観測した。私は現地(柏崎、刈羽)を、地震発生4日後の7月20、21の両日に訪ねた。その写真が下である。さらにその下の今回の益城町と比較していただきたい。

【中越沖地震・倒壊した柏崎市内の家屋/2007年7月20日撮影】
28倒壊柏崎070720

【益城町の現場④】
益城町3

 崩れ方が実によく似ている。何か強力な力で踏みつぶされたようである。直下からくる揺れは、家屋の支柱に強烈なダメージを与えて倒壊に至ったのだろう。震源地の深さは、中越沖は23㎞、熊本は11㎞と観測されているが双方とも浅い方だ。震源地の深さと破壊力の関係がどうなっているか、詳しくは知らないが浅い方が力は強いと思われる。

 下のような家屋を見つけた。作りは新しい。しかし1階部分が押し潰された形になっている。見ていただきたいのは左奥の家だ。この家も新しそうだが、外観は無傷状態だった。隣り合わせで新しい家にもかかわらず、片方は押し潰されている。

 不思議な光景である。この違いが被災者どうしの意思疎通に支障をきたすことがある。東日本のときもそうだったが、津波が自宅の目の前まできたものの、家は流されずに済んだ家族が「お宅は良かったですね」と言われたとき、申し訳ない気持ちになった、という話しを聞いたことがある。

【益城町の現場⑤】
益城町19

 益城町の山間部にも行ってみた。これまで見て来たような家屋の倒壊はなかったが、屋根瓦が落ちてブルーシートがかけられてあった。ブルーシートは災害発生時に実に役に立つ。雨風をしのぎ、寒さを防ぎ、屋根に張れば雨漏り防御になる。今回も直後にブルーシートを求める列ができたという。

【益城町の現場⑥/山間部の集落】
益城町集落3

 車は、益城町を通り過ごし西原村に入った。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
今春卒業の大学生の就職率(4月1日時点)は前年春より0.6ポイント上昇(時事通信)。喜ばしいことだが、生活は大丈夫か。
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2016/05/20 [Fri] 06:50:46 » E d i t
 熊本地震の報告の最中だが、この事件は看過できない。割り込みを許していただきたい。アメリカ当局や米軍がいかに「綱紀粛正」を強調しても、絵に描いた餅に過ぎないことは歴史が証明している。同じような事件がなぜ続発するのか。沖縄に駐留している米兵やその軍属の意識は、沖縄を植民地としか見ていないからだ。

 その意識が、沖縄県民を侮蔑し女性を単なる性の対象としか見ない〝習慣〟を作っていると思う。その延長線が、95年の少女暴行事件であり今回の女性殺害事件だと言える。こういう悲劇を繰り返させない保証は一つしかない。

 米軍の沖縄からの全面撤退である。

 したり顔の人は言う。「それで日本の安全は守れるのか」と。私は真正面から言いたい。「百歩譲って、今回のような殺人事件が起きても米軍駐留を許すのか」と。人柱や人身御供は、はるか世紀前のことである。人権や生命は、絶対に何ものにも代えられないものなのだ。だから、いのちを粗末にする者は断固として排除する必要がある。

 もう一度言う。アメリカは沖縄から出ていけ。そのために日本政府は努力せよ。来週は日本でサミット開催。好機である。

                           ◇=◇=◇
米軍関係者の事件、後絶たず=地位協定改善も実現せず―県民の反発必至・沖縄
時事通信 5月19日(木)21時43分配信


 沖縄県うるま市で行方不明となっていた島袋里奈さん(20)とみられる遺体が見つかり、米軍属の男が死体遺棄容疑で逮捕された。

 米兵や米軍関係者による事件は後を絶たず、米軍基地の過重な負担にあえぐ県民が反発を一段と強めるのは避けられない状況だ。

 1995年9月に起きた米兵による少女暴行事件では、米軍当局が容疑者の米兵の身柄の引き渡しを拒否。沖縄県民の反発は大きく、県民総決起大会では8万5000人が集まり地位協定の見直しを要求した。

 少女暴行事件後、米軍人・軍属の身柄引き渡しに関し、日米地位協定の運用上、殺人や強姦(ごうかん)事件については、起訴前の段階での日本側への引き渡しが可能になった。ただ、米側の裁量に委ねられており、地位協定の抜本的な改善は実現していない。

 その後も、女性に対する暴行事件は繰り返されている。事件のたびに在日米軍は夜間外出禁止令を出したり、兵士への教育を強化したりしているが、綱紀粛正は米軍関係者に浸透していないのが現状だ。

 今年3月には那覇市で、女性を暴行したとして、準強姦(ごうかん)容疑で米兵が逮捕されたばかりだった。沖縄県の翁長雄志知事は19日、「県民に大きな衝撃を与え、新たな不安を招くものであり、断じて許せない」などとコメントした。

 県幹部は「(6月5日投開票の)県議選か参院選の前に県民大会を開くことになるだろう」と話し、県民の怒りがこれまで以上に広がると指摘した。
                           ◇=◇=◇

★脈絡のないきょうの一行
舛添都知事、政治資金9万円で和菓子購入。ネタに事欠かないこの人、単なる吝嗇(りんしょく)家だね。

2016/05/19 [Thu] 13:01:04 » E d i t
 熊本城を後にして、従姉妹の娘・Eちゃんと、高速道インター近くのホームセンターで待ち合わせて合流。まず益城町をめざす。熊本市内を走っているときの沿道は、住宅のカベが落ちていたり、瓦が散乱していたりであった。ところが益城町に入ったとたん、〝風景〟は一変した。倒れた家屋、1階部分が潰された家屋が出現したのである。

 「息をのむ」というのはこういうことだろう。道路は車が通れるようにがれきなどが処理されたと思われ、2車線が走れる。しかし、左右の光景は熊本市内と打って変わっていた。

【益城町の現場① 2階部分はアパートのようだ】
益城町1

【益城町の現場②】
益城町2

【益城町の現場③ 崩れた家屋の持ち主だろうか?】
益城町22

 写真①は、今にも倒れそうな建物である。支えの鉄骨が斜めになっている。2階部分はアパートだろう、これでは住めないのは明らか。住んでいた人がいかなる恐怖に襲われたか、推して余りある。

 ②の写真は、全壊した人家だ。写真では分かりにくいが、実際は悲しくなるほどである。人的被害がなかったのか、心配にはなった。

 ③の写真は、倒壊した家屋の持ち主だと思われる。何かの探し物をしているのだろうか。初日に県労連に行った時も話題になったが、被災を〝利用〟して崩れた家屋に泥棒に入るヤカラがいるという。これは、東日本大震災のときの例を出すまでもなく、想定内である。やめろ!! ということはたやすいが、それを失くす方策は見つかっていない。警備を強めるしかないことに、隔靴掻痒感ではある。

 被災状況を見ながらオーバ―ラップしたのは、中越沖地震の惨状だ。柏崎市には地震発生から4日目に現地入りした。家屋の壊れ方がよく似ていた。東日本は津波災害がひどく、周辺すべてが破壊されていたが、中越沖地震は〝局地的〟で、家屋が崩れていた。今回の地震と中越地震の類似点は「直下型」であることだった。(以下、次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
舛添都知事、こんどは政党交付金の〝ネコババ〟報道。末期症状だね。

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2016/05/18 [Wed] 10:48:51 » E d i t
 昨日の国会で、地震被災者の仮設住宅づくりを急ぐべきだ、という議論がなされたが、熊本の仲間たちとも同じような意見交換となった。

 「東日本のときは、物資が不足して大変だったようですが、熊本はそれなりに届いています。問題は住むところでしょうか」、「仮設住宅づくりを急ぐ必要があると思いますが、地元の業者にやらせることが大事。ゼネコン主導では被災建設業者の復興にはならない」。

 「仕事を失くした人たちの救援をどうするのかが重要問題。仕事に就かなければ生活が成り立たない。この解決も急ぐ必要がある」、「被災現場に行ってみたら分かるが、崩れてしまった家とそうでない家が混在している。直下地震によるものと思われるが、その差は大きい」

 など、の意見交換となった。そうこうするうちに前中央労働委員の淀房子さんがやって来た。彼女と私は一緒に中労委委員に立候補した間柄で、いわば〝戦友〟である。もともと彼女は熊本の国立病院の看護師で、全医労の副委員長として中労委に立候補したもので、中労委を降りた後は熊本に帰っていた。

 4年ぶりくらいの出会いであろうか、元気そうで何よりである。自宅の被害は幸いになかったという。彼女を熊本城近くの自宅に送り届けて、私は宿泊地・大牟田へ。熊本行きにあたって泊まるところを探しが一番近いところにビジネスホテルが空いていたのは福岡県だが大牟田だった。熊本まで高速道で70キロは射程距離だろうとここを選んだ。

 2日目。長崎県大村市の従姉妹の娘が熊本に住んでおり、この子に被災地を案内してもらうため、インターチェンジ近くのホームセンターで待ち合わせることにしてあったが、時間前に熊本城を訪ねてみた。まず3枚の写真を見ていただきたい。

【崩れた熊本城壁】
熊本城壁崩落

【崩れた城壁に押しつぶされた熊本大神宮の拝殿】
熊本城・熊本大神宮4

【大神宮に隣接する熊本稲荷神社】
熊本城07(熊本城稲荷神社)

 城の中に入りたかったのだが、進入禁止になっており断念。道路から見える部分しか撮影できなかった。櫓(やぐら)が横倒しになっている。城壁を後ろにした大神宮は、崩れたそれに押し流されるように潰れていた。ものすごいエネルギーである。

 その大神宮に隣接する熊本稲荷神社は、無傷であった。早朝だったせいもあるだろうが、何事もなかったかのようなたたずまいを見せていた。このあと、同じような光景を益城町なで見ることになる。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
舛添都知事の政治資金流用釈明、すっきりしない。こりゃもう、参議院選挙と一緒に都知事選挙だね。

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2016/05/17 [Tue] 15:23:47 » E d i t
 天皇夫妻の熊本地震被災地訪問が決まったという報道が流れた。喜ばしいことであるが、ご夫妻の健康状態は大丈夫なのだろうか。それが心配だ。

 私は、5月4、5の両日に現地を訪ねた。直下地震の威力をまざまざと見せつけられた思いだった。しばらくこの報告をしたい。

 東京・有明で開かれた3日の「憲法集会」に参加して、デモはパスして自宅にもどり準備を整え夕方5時、マイカーに支援物資を積み込んで「一人運転の旅」である。九州まで、車で3度行っている。そのときの運転手は2人だったが、独り、は初めてである。熊本まで1200キロ、ちょっとした〝ラリー〟だ。

 新東名道に入ったあたりから暗くなったが、この道は広くて走りやすい。新東名から湾岸道、新名神を走る。天気予報どおり名古屋あたりから雨が降り出した。途中、ワイパ―をフル回転させる場面もあったが、神戸あたりで雨とはさようなら。

 山陽道は事故で一部通行止めになっている、という情報がカーラジオから流れてくる。カーナビは山陽道に行くよう指示するが、それを無視して中国道を走ることに。山陽道と中国道の分岐から極端に車の数が減る。中国道は山間部を走っており、こちらへ行く車は少ないのだろう。

 途中のサービスエリアで仮眠休憩を繰り返し、空が白み始めたのは山口県に入ったあたりから。本州と九州に架かる関門橋の中心部でカーナビが『福岡県に入りました』と教えてくれる。ずいぶん遠くへ来たもんだ、と実感する。

 九州に入れば、もう熊本に着いたような気分になる。この日の目的地は、熊本県労連だ。先方との待ち合わせ時間は午後4時にした。時間的には十分である。のんびり走ることにする。

 午後3時過ぎに「益城熊本空港インターチェンジ」を出て、熊本市街地をめざす。待ち合わせまで余裕があるので、市内を走ってみた。道路から見る街並みは、思ったより壊れていない。が、店が開いている様子はなかった。祝日のせいかな、などと考えたりする。

 熊本駅をめざしたが、途中で通行止めの案内板があり前進できない。やむなく、予定より30分ほど早すぎたが、熊本県労連に入った。

 待っていてくれた県労連の事務局長は大歓迎してくれた。支援物資を車から降ろし、カンパを手渡し。たまたま、福岡県労連の事務局長が来ており、被害状況などについて聞かせてもらうことから始まった。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
覚せい剤取締法違反容疑の清原和博元プロ野球選手の裁判が始まった。起訴内容を認めたという。子どもたちの夢を壊した罪は重い。

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2016/05/02 [Mon] 15:56:22 » E d i t
 メーデーは、アメリカ・シカゴで1886年に始まったことを起源としている。実に130年の歴史をもつが、そのときの要求は1日8時間労働制だった。「第1の8時間は仕事のために、第2の8時間は休息のために、そして残りの8時間は、おれたちの好きなことのために」を目標に行われたのである。この要求は実現し、今では当然のこととなっている。

 日本のメーデーは、1920年5月2日に上野公園で開かれている。これが第1回目と位置づけられているが、その前段1905年に茶話会という形で開かれ、ロシア革命の影響を受けて1917年に社会主義者らがメーデー記念の集いを開いたという記録が残っているという。

 以降、メーデーの歴史は積み重ねられてきたが、1936年の「二二六事件」をきっかけに、メーデー禁止令が出され、この年は検挙者を出すなどしても開かれたものの、1945年(終戦)まで開かれることはなかった。戦争はメーデーと労働運動を禁止したのである。前回ブログでも述べたが、平和あっての労働運動なのである。

 日本の第1回メーデーの要求・スローガンは「8時間制労働の実施」「失業の防止」「最低賃金法の制定」などだった。最賃の制度要求は今でも掲げられていることを考えると、この国の経営者と政府がいかに労働者いじめをやってきたか理解できる。

 ところがそれだけにとどまらない。最近の日本の労働法制をめぐる動きは、メーデーが行われるきっかけとなった「1日8時間労働」のスローガンを蘇らせる必要があるのではないかと思わざるをえない。

 長時間労働が跳梁し、サービス残業が跋扈しまくっているからだ。そのうえ、こともあろうかホワイトカラー・エグゼンプションの導入で、労働者を残業代なしで死ぬまで働かせ続ける法律をつくろうとしている。派遣労働で低賃金に押さえつけ、さらに死ぬまで働かせ続けようとする動きは看過できない。

 平和や民主主義だけでなく、労働者のいのちやくらしを脅かす安倍政権――。メーデーの歴史を振り返りながら、改めてアベ政治の暴走ぶりをみるとき、これはもう退場願うしかない。いまこそ日本の労働者団結せよ、である。

★脈絡のないきょうの一行
アメリカの大統領候補者選び、どうなるのかなー(単なるつぶやき)。

2016/05/02 [Mon] 15:37:29 » E d i t
 天高く ああ五月晴れ 五月晴れ――昨日は第87回メーデーだった。連合は先月29日に開催し4万人が集まり、全労連と中立系は昨日、3万人の参加でむせ返った。私は今年でメーデー参加連続52回目となった。メーデーの歴史の実に6割近く参加したことになる。馬齢だけを重ねている観は免れないが、これはれっきとした記録である。

 ただし(すでに周りの仲間たちに語っているが)このうちの1回は八王子メーデーの参加である。それ以外はすべて「中央メーデー」に参加している。なぜ八王子だったか。1969年のことだ。この頃、私は解雇撤回闘争をたたかっていた。〝職がない〟ことが〝幸い〟して、白鳥事件の被告・村上国治さんの再審と釈放を求める運動の半ば専従的にやっていた。その関係で、八王子メーデーに派遣されることになり、そちらへ回った次第だ。いわば、任務として八王子に行ったのである。

 ま、そんなことはどうでもいいのだが、メーデー連続52回参加ということは、52年も労働運動をやっていることと同義語だ。うーん、これは忸怩たるものがある。ちっとも成長していないからだ。いまさらそのことを俎上に載せても仕方がないことだが、最近、労働者の意識に変化が起きていることに気づいた。

 政治問題への取り組みについてだ。よく「労働組合は政治問題に関与すべきではない」という意見を聞く。今私が所属する千代田区労協でも3年ほど前になるが、大会で同じ意見が出された。テーマは特定秘密保護法だった。

 事務局長として答弁に立った私は、いつもの通りはなした。「平和や民主主義が損なわれると、労働組合の存在自体が危なくなる。戦中、組合活動は認められなかった。戦争になれば賃上げ闘争などできなくなる。労働運動は平和あってこそ成立するものであり、労働運動を継続するためにも平和や民主主義を守らなければならない」というものだ。

 最近、この問題に大きな変化が起きている。組合員側から政治問題の発言が出てきているからだ。典型は「野党は共闘」である。戦争法の廃止を実現するには選挙で自民党と公明党を過半数割れするしかない。そのために野党共闘を実現する必要がある、というのだ。これこそ政治問題そのものではないか。

 ということは安倍暴走内閣が、労働者の意識改革に〝寄与〟したことになる。その意味ではもしかすると「お礼」を言わなければならないのかも知れない。そうだ。今度の選挙で野党共闘を勝利させ、自民党に「お礼参り」に行こう!

★脈絡のないきょうの一行
熊本地震の余震、1100回超え。被災者のみなさんの不安、推して余りある。

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