検察側が有罪と主張する主な論点を報道から整理すると①事件の起きた連れ去り現場付近で被告が所有していた白い乗用車が目撃されていたこと②通過車両の自動車ナンバー自動読み取り装置に女児の遺体が発見された現場方面へ被告が走行していたこと③遺体の傷痕の一部が被告が当時持っていたスタンガンによるものと考えられること④女児の遺体に付着していた猫の毛が被告の飼い猫の毛と考えても矛盾しない――などということになる。
これに対して弁護側は①女児の死亡推定時刻は女児の胃の内容物などから、検査側の主張と矛盾する②遺体発見現場からは女児の血液がほとんど発見されなかった③自白には犯人しか知り得ない事実がなく、自白を強いられたのが理由だ――と強調し、自白には信用性も任意性もないと反論している。
(重複して恐縮だが)検察側の上記主張を再度、要約し問題点を整理すると①数多くある白い乗用車が目撃され、それが被告のものではないかと見られた/が、被告の車とは特定していない。②女児が発見された現場方向へ被告の車が読み取り装置に映し出されている/が、その場所を通過しただけに過ぎない可能性もある。
③遺体の傷が被告が持っていたスタンガンによるものと考えられる/が、スタンガンによる傷を百歩譲っても、そのスタンガンが本人所有のものという証拠はない。④遺体に付着していたネコの毛は被告が飼っていたネコの毛と考えられる/が、その猫の毛はどこで付着したのか全く明らかになっていない。――ということが考えられる。
検察側は上記のような状況証拠を事実上の「物証」としている。私は刑事事件などについて、まったくのシロウトであるが、これははっきり言って物証とは言えないと思う。全てが単なる〝状況証拠〟に過ぎないからだ。
ではなぜ、裁判員裁判であったにもかかわらず、有罪になったのだろうか。〝決め手〟になったのは、どうも取り調べのビデオらしい。それは「裁判員たちは物証の「弱さ」を指摘する一方、『(犯行を自供した)録音・録画がなければ判断は違っていた』と話した。」(4月9日、毎日新聞)に代表されよう。
テレビでもその一部が放映されたが、被告が殺害を認める供述の部分があった。1分足らずの短い時間で、理解に苦しんだがそれを見ながら、自白とはこういうものかと思ったものだ。ずいぶん昔のことだが、私は白鳥事件の元被告・村上国治さんと交友があった。その村上さんが「実はボクもウソの自白をしようと思ったことがある」と語ったことがある。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
G7外相が、広島の平和公園を訪問。原爆の実相をしっかり見て、核廃絶に活かしてほしい。