彼と初めて出会ったのは40年ほど前である。私が毎日新聞労働組合の書記として採用されるかどうかの面接の相手であった。1974年の暮れ、当時彼は毎日労組東京支部の書記長をしていた。おおらかな雰囲気は好感の持てる相手であった。ものの10分も話したであろうか、「それでは来年早々から来てください」と即決であった。
当時、毎日新聞社は未曽有の経営危機に喘いでおり労働組合の真価が問われる事態であった。経営危機の原因として当時の執行部は▼景品付き販売過当競争▼関連企業への資金の垂れ流し▼経営者間の抗争▼不当な労務管理――などを上げ、責任追及に乗り出していた。
毎日新聞労組は、倒産させないことを方針の根幹に据え、「毎日新聞は労働組合が守り抜く」というスローガンを立てて、『再建闘争』に乗り出した。たたかいを構築するにあたり「三大基本要求」を確立した。①組合員の生活擁護②国民の知る権利に応え、真実の報道を貫く紙面政策③ずさんな経営を許さない経営監視――というものであった。
その要求実現には市民・読者を巻き込んだ広範な運動が必要である、ということから共闘活動の強化を打ち出した。毎日新聞労組の訴えは多くの労働者や学者から支持され、運動は広がった。その一つに千代田区労協があった。
当時の毎日新聞労組は、はっきり言って企業内労組で外に出て行くことはほんどなかった。幅広くたたかおうという方針を提起したときでさえ、「毎日内部の経営状況を外へ出すのはいかがなものか。恥をさらすようなものだ」という反対論さえあった。それらの意見を粘り強く説得し共闘強化の方針を確立したのである。
地域の仲間たちの支持を得るには千代田区労協加盟しかない、ということでそのための準備が始まった。産別共闘としての新聞労連は馴染みがあったものの、千代田区労協は未知の世界であった。書記長としての彼の出番である。
彼は執行委員会で、区労協加盟の必要性を力説した。区労協の取り組みには可能な限り参加した。それらの行動を通じて、2年がかりの議論を経て毎日新聞労働組合東京支部は千代田区労協に加盟したのである。加盟を決めた定期大会が終わったとき、彼は私にVサインをおくってくれた。
職場に戻った彼は仕事にも入魂した。以来、山に登ったり温泉に行ったり〝外に出る〟活動をともにした。ところが最近は認知症が進み、「要介護5」という認定を受け有料老人ホームで暮らすようになっていた。私は彼の奥さんと一緒に何回かその施設を訪ねたことがある。
そして4月9日。その3日前から呼吸が荒くなり緊急入院したところ、かなり重い肺炎であることが判明。3日間というあっという間の旅立ちだった。豊岡孝雄さん、長い間ありがとう。ゆっくり休んでください。
★脈絡のない今日の一行
すごいぞ、田中将大投手。大リーグで10奪三振。文句なし。