ヘボやんの独り言
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2014/03/31 [Mon] 10:41:46 » E d i t
 3月24日、および本日31日付の朝日新聞の「証言 そのとき」というコーナーに、JAL名誉会長の稲盛和夫氏のインタビュー記事が載っている。この記事、現在たたかわれているJAL争議への不当介入と断じざるを得ない。いや、これはもう新聞社による〝不当労働行為〟である。

 何故か。いまJAL争議は東京高裁でたたかわれている。東京地裁はその責任をかなぐり捨てて、原告争議団の訴えを退けた。やむなく争議団は控訴し今年5月15日に客室乗務員の判決、6月5日にパイロットの判決が予定されているからだ。

 判決日から逆算すると、高裁の裁判官がそろそろ判決書きに着手する時期であり、実にタイミングの〝良い〟報道である。(後述するが)記事の中身も、判決を意識したとしか言いようのないもので、これはまさにパブリシティー(※注1)そのものであり、放送界では禁止されているがサブリミナル(※注2)効果を意図したものとしか思えない。

 24日の記事を中心に中身を紹介しよう。見出しは「まずは従業員の幸せ」と大きく立てて、ソデ見出しは「JAL変えた経営理念」としている。この見出しだけで私はまず、のけ反ってしまった。

 稲盛氏は、165人のベテランパイロットと客室乗務員の解雇を強行した。それも、裁判所で当人が「解雇は必要なかった」と証言し、実際には希望退職者は予定の数に達していたにもかかわらず、である。解雇は「従業員の幸せ」のためであったのか。これは明らかに虚偽である。

 インタビューでは「経営の目的は、全従業員の物心両面の幸せの一点に絞ります。株主のためとかは一切ない。これまで、政府の役人、政治家の圧力を受けてきたかもしれませんが、圧力がかかれば、私が矢面に立ちます」と、得々と語っている。ホンマカイナと知る人は疑問を持つだろう。矢面に立ったのは、首切りとカネもうけだったのではなかったか。

 京セラ設立当時の自慢話も出てくる。労働組合との交渉に対して「当時の京都は共産党が強く、知事も共産党の蜷川虎三さんでした。企業経営者というのは、労働者をこき使って、労働者から搾取すると見てたんでしょうね。3日3晩、説得を続けました。……とうとう最後の1人も納得してくれました。」――なるほど、労働者を分断する不当労働行為を行い、各個撃破で成功したのだ。

 この記事にはJAL争議のことは一言も触れていない。それを持ち出すとこのインタビューすべてが崩壊するからだ。誤解を恐れずに言おう。ご本人が「従業員の幸せ」を考えていることは否定しないが、実際にやってきたことは正反対だったのではないか。そのことを見抜けていない朝日新聞の洞察力のなさに、憤りすら覚える。

 朝日新聞社のこの報道の責任は大きい。対応策は同量のスペースを保障して、JAL争議団に提供し、この報道はさらに続くように見受けられるが、即刻、差し止めることである。

 ※注1・パブリシティー/政府や団体・企業などが、その事業や製品に関する情報を報道機関に提供し、マスメディアで報道されるように働きかける広報活動。(デジタル大辞泉)

 ※注2・サブリミナル/ある知覚刺激が非常に短時間であるなどの理由で意識としては認識できないが、潜在意識に対して一定の影響を及ぼすことができるとの説があり、その「効果」をサブリミナル効果という。サブリミナル(subliminal)とは、心理学の用語で「識閾(しきいき)下の、潜在意識の」という意味の形容詞である。(知恵蔵)

★脈絡のないきょうの一行
「8円で 大騒ぎなのに 8億円」--この川柳に座布団10枚。

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2014/03/28 [Fri] 08:50:32 » E d i t
 きのうのブログについて、「あの発言に対して、萩生田氏はどういう責任を取ればよいのかの言及がない」というお叱りを受けた。確かにそうである。この問題についてもう少し突っ込んで整理してみたい。

 全ての個人的発言は(ヘイトスピーチのような暴力的なものを除いて)、言論・表現の自由の立場からして守られなければならないのは、すでに述べたとおりである。しかし「公人」としての発言なのか、あるいは「私人」としてのそれなのかの区別はされなければならない。萩生田氏は自民党総裁補佐官というれっきとした公人であり、彼の発言は公人のそれとして受け止められるのは当然である。

 氏は従軍慰安婦問題に関する河野談話検証作業の結果、「新しい事実が出てくれば新しい談話を発表すればいい」と述べている。この発言は河野談話の見直しを示唆していることは子どもにも分かることだ。ところが政府は「見直しはない」と言い続けており、氏の発言はこれに反することになる。

 少々理屈っぽくなり恐縮だが、「検証作業」というのは何かをするための作業であることが前提となるのはフツーのこと。もし見直しなど「何もしない」のであれば、検証作業は必要ないはずだ。ところが政府は検証作業を中止するとは言っておらず、その意味において、萩生田氏の発言は的を射ているのである。

 ところが萩生田氏の発言に政府が慌てた。韓国を意識してのことだろうが、従軍慰安婦問題を国際問題に浮上させたくない政府の意図が垣間見える。そこで釈明の〝材料〟として持ち出されたのが『個人的な見解』だった訳だ。これは嗤える。

 本題から外れたが、萩生田氏の責任の処し方に戻ろう。補佐官を辞任すべきだと私は考える。公人として政府方針とは違う発言をした訳だから、その責任は(個人的な見解という釈明を百歩譲っても)免れない。公人というのはそのくらい厳しいものであるべきだからだ。

 いやむしろ私は氏の発言は的を射ている以上、撤回などせず言い通すべきだと思う。そのためには補佐官を辞任することが必要となる。言論・表現の自由を守り、自らの考えを通すためにも、萩生田光一さん、総裁補佐官をぜひ辞任していただきたい。ガンバレ!

 今回も含めてNHK会長や法制局長など〝不規則発言〟が目立つ。その根源の詳細は紙数がないので別に譲るが、結論的にいえば安倍首相の〝仲良し人事〟の反映である。憲法を変えて、戦争する国に戻りたい安倍晋三という一宰相の思想が、内閣を中心とした人的布陣をつくり、「暴走政治」を推し進めているといえる。やはり危ない。

★脈絡のないきょうの一行
袴田巌さん、47年7か月ぶりに当たり前の世界に帰還。権力犯罪に改めて怒りが起きる。

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2014/03/27 [Thu] 14:57:33 » E d i t
 従軍慰安婦問題に関する河野談話「検証」作業について、「新しい事実が出てくれば新しい談話を発表すればいい」と自民党の萩生田光一総裁特別補佐が発言した問題で、韓国がいち早く反発し、菅義偉官房長官は慌てて「(萩生田補佐官の)個人的な見解だ」とこれを打ち消した。

 NHKの会長を含め、最近やたらに政府要人などが「個人的な見解」や「個人的な意見」を連発している。政府(官房長官)はこれらの発言を個人の問題に転嫁した上で擁護している。これはなんだか変である。角度を変えて考えてみたい。

 まず前提として抑えておかなければならないのは、言論・表現の自由の観点からすれば内容にさまざまな問題があったにせよ、発言は許されるということである。ところが自由とはいえ「何でもあり」はあり得ず、ヘイトスピーチに代表されるような人種差別や暴力的発言は批判されて当然である。

 そこで、今回の萩生田発言。これを官房長官の「個人的見解」という言い方に疑問符がつく。なぜかというと個人の発言はすべてが「個人的な見解」であるからだ。それをあえて「個人的見解」と強調することにきな臭さを禁じ得ない。当たり前のことを強調することによって、コトにフタしようとする意図が透けて見えるからだ。

 重要なのは萩生田発言の中身なのだ。「あそこの料理は旨かった」などという中身であれば何ら問題にならない。ところがその内容は、従軍慰安婦について歴史認識をどうするかという国際問題となる重要問題だったのだ。しかも自民党総裁補佐官という公人の発言なのである。

 大事なことはその発言が「公人として適切なものであったのか」どうか、が斟酌されることだ。一般市民が発言したものであれば、それは表現の自由の範疇であり「個人的見解」として済ませることに何の不具合もない。しかし、萩生田氏は公人なのである。公人と私人の発言は重みが全く違うのである。

 今回の萩生田発言は、言論・表現の自由の視点からみれば認められるべきである。しかし、彼が公人であるがゆえに、その発言に責任を持たなくてはならない性質のものだ。ところが官房長官の「個人的見解」釈明で終わりそうな気配がある。これは看過できない。

 現に萩生田氏は、あの発言を撤回していないし本人の釈明もない。社会の常識からいえば、「新しい事実が出てくれば新しい談話を発表すればいい」というあの発言は、いまだに生きているのである。つまり、検証作業なるものの結果によって河野談話の見直しがあることになる。

 安倍首相が得意とする〝解釈改憲的発言〟を私たちは見逃してはならない。

★脈絡のないきょうの一行
袴田事件の再審決定。袴田巌さんの失われた時間をとりもどす術はない。まだまだある冤罪事件。監視強めたい。

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2014/03/24 [Mon] 14:08:51 » E d i t
 あれは何だったのだろうか。6億円という大金を使ってまでやらなければならない選挙だったのだろうか。大義も道理もない選挙だったのではなかろうか。

 23日に投開票された大阪市長選挙は予想どおりの結果であった。投票率は史上最低の23.59%、白票は45,098票、無効票を合わせると67,506票(総投票数の13.53%)という結果で終わった(毎日新聞)。もちろんあの人は当選した。

 産経新聞ウェブから。「中小企業が密集する東成区。町工場が立ち並ぶ一角で金属加工業を営む男性(60)は、あえて無効票を投じた。『初めて投票用紙に「×」と書いた。棄権するよりは、批判の意味が伝わったかな』」――に代表されるように「不信任確定選挙」だったといえる。

 もう少し、数字をみてみよう。大阪市選挙管理委員会のホームページによると、3月2日現在の選挙人名簿登録者数は、2,141,003人(在外選挙人登録者は除く)となっている。あの人の得票数は377,472票だったから、絶対得票率は17.63%となる。選挙当日の有権者数はもう少し少なくなる可能性があるが、それを考慮しても市民の18%弱からしか支持されていないのである。これはもう不信任を突きつけられたのと同意だ。

 白票と無効票の多さが気になるが、私が大阪市民であったら白票を投じただろう。何故なら選挙権を得て以降、国政・地方ともにすべての選挙に行っており、その記録にキズをつけたくないから。入れたいと思う人がいなくても選挙には行く、これは大事な選択肢だと思うからだ。

 きょうの毎日新聞社説は、選挙結果を得て「『大阪都』を実現するには、協定書を完成したとしても、府・市議会の承認を得たうえで、大阪市民を対象にした住民投票で賛否を決める必要がある。橋下氏は住民投票まで手続きを進めたい考えだが、自ら代表を務める大阪維新の会は両議会とも少数与党だ。橋下氏の主張を議会が認める保証はなく壁は高い。」と、道のりは長いことを示唆している。

 同時に同社説は「橋下氏は既得権益層を敵に見立てて攻撃することで支持を得てきたが、この政治手法も限界にきたのではないか。来春は府・市議選が予定されている。選挙をにらんで議会との対立が続けば、市民不在の空虚な政争と受け取られてしまうだろう。」と、あの人の「手法」を分析し限界説を唱えている。識見である。

 いずれにせよ、以前、小ブログでも書いたように「大阪都構想は」無理筋であることが明らかになった。そうそうに撤回し、市民目線のまともな市政に立ち返るべきである。

★脈絡のないきょうの一行
大関・鶴竜(28歳)、横綱当確。いい相撲だったね。

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11033 あれから3年⑦ 
2014/03/20 [Thu] 14:48:22 » E d i t
 主な被災地の写真を見ていただいた。復興の道のりはまだ険しいことがお分かりいただけたと思う。にもかかわらず復興予算の流用などもってのほかで、改めて怒りが起きてくる。3年を経て現地を調査したが、いくつか気がかりなこともあった。その一つは石巻市の大川小学校の被災だ。

 この問題については多くの報道がある。犠牲者は児童74人、教職員10人の合計84人にのぼっている。スクールバスの運転手も死亡しているが数には入っていない。同じ石巻市内で津波を受けた小学校があったが、校内にいた子供たちは避難して助かっている。ところが大川小学校はとてつもない被害となったのである。

 地震発生から津波到着まで50分あり、その間に何があったのか。その理由を知りたいと、2014年3月10日、犠牲となった児童23人の遺族が宮城県と石巻市に対し総額23億円の損害賠償訴訟を仙台地裁に起こしている。子を持つ親の気持ちは分かる。

 学校の裏側には小高い山がある。しかしそこは急斜面になっており逃げ込むことは難しい、という判断もあったようだ。生存者の証言によると、最終的には「三角地帯」と呼ばれる少し高くなっている新北上大橋のたもとに逃げようとしたものの、その途中で津波が襲ってきたという。その「三角地帯」も津波に飲み込まれている。

 裁判で経過がどの程度明らかになるのか不透明だが、見守っていきたい。崩壊した学校の骨組みはそのまま残され、校庭には津波の犠牲となった周辺住民の名前も入った慰霊碑が建っている。

(写真21/前記「三角地帯」から大川小学校14.03.07)こちら側から巨大津波は学校を襲ったという。
1大川小1

(写真22/大川小学校の敷地に建てられた慰霊碑14.03.07)亡くなった子どもたちと教職員、周辺住民の犠牲者の名前が刻んである。
1大川小3

 仙台市若林区で気になる光景が目に入った。墓地の墓石が乱雑に倒れているのだ。車をUターンさせて近づいてみた。どうしたことだろうか、墓石が倒れたままとなっている。ほとんどは回収されているが、お骨がそのままになっていると思われる墓もある。

 3年経ってもこの状態は、処理する業者がいないのか、家族が亡くなってしまっているか、であろう。気がかりであった。

(写真23/仙台市若林区の墓地14.03.07)墓碑銘の入った墓石が一ヶ所に集められていた。それも痛々しかった。
2放置されたお墓

 その墓地と同じ若林区の荒浜地区に入った。ここの小学校は震災直後、屋上で助けを求める人たちがテレビに映し出され〝有名〟になったところでもある。ここの浜辺は夏になると仙台市民の海水浴場になるという。その海辺に慰霊碑が建てられていた。

(写真24/若林区荒浜の慰霊碑14.03.07)優しい顔立ちをした観音菩薩像に癒された。
3荒浜1

 その慰霊碑には、この地域で犠牲になった人たちの名前が刻まれている。つぶさに読んでみると、同じ姓で4人の名前が並んでいた。57歳、33歳、4歳、2歳――である。これは明らかに親子3代だ。その近くには親子と思われる3人の名前も。涙を誘った。

(写真25/慰霊碑に刻まれた名前)
3荒浜2

 東日本大震災から3年。今回は福島県の原発被災は触れなかったが、それも含めて復旧・復興は終わっていない。この項の冒頭に述べたが災害は貧しい者をより貧しくしていく。それを救うのが政治であるが、この国の政策は逆行としかいいようがない。

 火山列島ニッポンゆえに、自然災害と上手につき合うしかなく、いつ自分に降りかかってくるか分からない問題だ。だから、防災や被災者支援の問題はヒトゴトではなく自分自身の問題である。改めてそのことをキモに銘じたい。被災3年目を迎えて強く思った。

★脈絡のないきょうの一行
ロシアのクリミア併合、かなり無理筋ではないのかい? プーチンさん。

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11032 あれから3年⑥ 
2014/03/19 [Wed] 14:05:59 » E d i t
 名取市の閖上(ゆりあげ)地区は被害の大きかった場所の一つだ。ここには日和山という高台がある。海は目の前である。そこの被害状況を地元の新聞・河北新報3月14日の紙面がベタであるが報道している。記者はもっと多くの遺体を目にしていると思われるが、抑え目に書いている。以下。

                         ◇=◇=◇
消えた家 捜索懸命(河北新報11年3月14日16面)

 壊滅した名取市の閖上港から約200㍍離れた日和山に13日、立った。階段十数段ほどで登れるのに、今は辺りでもっとも高い場所の一つだ。震災前、港に100隻あったという漁船は、今はたった1隻しかない。

 西に目を向ける。貞山堀に架かる海運橋は落ちていた。海岸から約1㌔の範囲で確認できる住宅は数十軒もない。救援隊はがくぜんとし「まるで空爆に遭ったようだ」と声を上げた。

 海岸から3㌔近くまで押し寄せた大津波は、港まで引いた。更地のようになった陸地で、生存者の捜索やがれきの撤去作業が本格化した。

 建物1階や車の中で次々と遺体が見つかるが、運び出す場所はなく、ブルーシートで覆われていく。流されまいと何かに必死につかまっていたのか、拳を半分ほど握った状態で力尽きた遺体が目に焼き付いた。

 13日午前、港近くの市営住宅で高齢者夫婦が助け出された。「遺体ばかり見つかる。生存者を見つけると何百倍も嬉しい」。救援隊の一人がつぶやいた。(勅使河原奨治、関川洋平)
                         ◇=◇=◇

 この日和山からの写真を紹介しよう。この地域は、7.2㍍の防波堤をつくり、土地は5㍍かさ上げする計画だという。かさ上げはいいが、あのときの千葉県浦安市の被害のように、液状化が起きることを想定しているのだろうか。心配だ。(なお、11年3月28日付のものは仙台市の友人・佐藤康雄氏が撮影したものである)

(写真15/名取市・閖上の日和山11.03.28)山の上まで家屋が流されてきている。引き波のとき置いていかれたのであろう。
03閖上日和山1

(写真16/名取市・閖上の日和山11.10.07)流された家屋は取り除かれていた。
03閖上日和山2

(写真17/名取市・閖上の日和山14.03.07)新しい祠が建っていた。ここに来る人は必ず手を合わせる。
03閖上日和山3

(写真18/名取市・閖上の日和山11.03.28)日和山から海方面。前出新聞記事の階段である。救助活動と思われる自衛隊員がいる。
東日本巨大地震 閖上日和山096

(写真19/名取市・閖上の日和山14.03.07)がれきが撤去されただけで、変わっていない。
日和山から海方面 (1)

(写真20/閖上地域に貼り出してあった看板14.03.07)
日和山から海方面 (2)

 次回につづく

★脈絡のないきょうの一行
安倍首相、足元の公務員賃金の引き上げについて一言もないね。隗より始めるべきなのに。

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11031 あれから3年⑤ 
2014/03/18 [Tue] 14:16:34 » E d i t
 前夜、東京を出発し東北道・仙台南ICから仙台南部道路、三陸自動車道を経て石巻に入った。被災から1ヵ月のまちは人もまばら。商店街の歩道には、がれきが積み重ねられたままとなっていた。流された車は原型をとどめないほどぐちゃぐちゃ。津波の恐ろしさが伝わる。ガレージに入っていたと思われる車は、水に押されてタテになっている。

 河口付近に出てみると、満潮だったのだろうか道路の際まで水が来ている。さすがこれには恐怖感が走った。街並みの被害状況をカメラに収めて、長居は無用とばかりに先を急ぐことにする。東松島に向かう途中、日本製紙の工場の前を通った。紙の倉庫は崩れ落ち、周辺はヘドロの臭いが立ち込めていた。

 石巻市を皮切りに東松島市、松島町、塩釜市、多賀城市、仙台市、名取市、岩沼市、亘理町まで約100㌔を走った。海岸線は通行止めになっており、一部は内陸部を走らざるをえなかったが、被害のすさまじさに参加者は息をのむだけだった。この被害からどう復旧・復興を果たすのか、気の遠くなるような光景であった。

 11年4月に初めて被災地に入って以降、同年10月、12年4月、13年3月そして今年3月の5回にわたって同じ被災地を歩いてみた(1週間後、13年10月の浪江町調査を入れると被災地を訪ねたのは7回になる)。同じ場所を歩いたのは、復興状況の「定点観測」をするためでもあった。

 以下、写真を中心にその変化を報告したい。数字は撮影年月日。

(写真9/陸に上がった大型貨物船・石巻港11.04.16)
001石巻港

(写真10/石巻市門脇町11.04.16)被災直撃にもかかわらず、家は残り住んでいる人もあった。なぜかほっとした。
01石巻1

(写真11/石巻市門脇町14.03.07)周辺は空地になりお隣は改築中であった。遅々としているが元にもどりつつあることが分かる。
01石巻2

(写真12/石巻市の日本製紙11.04.16)周辺はヘドロの臭いが立ち込めていた。紙倉庫のロール紙は破砕し使い物にならない。
02日本製紙1

(写真13/石巻市の日本製紙11.10.07)被災から6ヵ月。紙倉庫とレールは撤去されていた。住宅街もこのくらいのスピードであれば、復旧は早いのだが。
02日本製紙2

(写真14/石巻市の日本製紙14.03.07)レールはもとどおりに復旧。機関車が貨物を引っ張っていた。工場からは煙が高く舞い上がっていた。
02日本製紙3

 以下、次回につづく。

★脈絡のないきょうの一行
東京で「春一番」。お花見が待ち遠しい。

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11030 あれから3年④ 
2014/03/17 [Mon] 13:04:08 » E d i t
 11日が過ぎて、震災関係の報道がめっきり減った。仕方ないことかもしれないが、釈然としない。この問題、なんとかならないものか。前回のつづき。

 新聞労連は、われわれより1日早く新潟をスタートしたが、山間部の道路を選んだため雪に阻まれて前進できず、途中で1泊することになったという。結局、仙台に到着したのはわれわれと同じ18日になった。

 3月18日、被災からちょうど1週間目。前夜泊まった新潟県・新発田は雪が降り続いていた。こちらの車は、新発田市から国道7号線を北上し山形県に入り、鶴岡市を経て国道47号から13号を走り天童市へ。さらに国道48号線で「作並温泉」を経て、仙台市に入った。天童までの道路は雪道。車はノーマルタイヤであり、慎重に走らせる。しかしついにガマンできなくなりチェーンを装着。結果良しである。

 新発田を出たのは午前8時ころであったが、仙台の河北仙台販売会社に着いたのは午後2時近かった。おにぎりを頬張りながらの走りは、見事だったといえる。まちの中の車は驚くほど少なかった。ガソリンの供給がないことが理由だろうが、それにしても淋しい。そういえばここまで来る間、どこのガソリンスタンドも車の列ができていた。

 河北仙販労組の仲間たちは喜んでくれた。支援物資(写真6)は、新聞労連の分は河北新報労組に、私たちの分は河北仙販労組に下ろすことにしてあり、そのとおりに。被災状況を聞き、人的被害がなかったことに一安心。

(写真6・届けた支援物資)
届けた救援物資

 河北仙販労組を辞して、今度は河北新聞労組へ。ここではカンパを届けるだけ。新聞発行の状況を聞いた。「新聞記者もがんばったけど、印刷の仲間たちが徹夜で輪転機を動かしてくれた。これが新聞を発行できた原動力だ」と熱く語ってくれたことは忘れない。

 つづいて、宮城県労連へ行ってカンパだけを渡した。たまたま知り合いの元議長のOさんがいた。雪の中を走ってきたわれわれに驚いた様子だった。被害はなかったか、という質問にOさんは「娘と孫が津波にやられた」とうなだれた。かける言葉もなかった。

 仙台市内には泊まる場所がない。Oさんは「うちに泊まれ」とすすめてくれるが、甘えるわけにはいかない。時間的制約とともに、ガソリンが間に合うかどうかの不安もあった。ガス欠ではシャレにならない。被災地の様子を見たいと思ったが、市内の一部を見るにとどめた。めくれあがった道路、崩れた住宅の壁、半分倒壊したスーパーマーケットなど、地震の爪痕は生々しかった(写真7、8)。

(写真7・波打つ道路/仙台市太白区・JR長町駅近く)
波打つ道路(太白区長町駅近く)
(写真8・倒れたスーパーの壁/仙台市太白区)
壊れたスーパーマーケットの側壁(太白区長町駅近く)

 暗くなりかけた仙台を後にして、天童市のビジネスホテルへ。仙台市内は、ネオンや街灯が消え暗闇であった。翌朝、やってきた道を逆走し新潟の友人宅に立ち寄り、ガソリンを満タンにし帰路についた。

 そして1ヶ月後の4月16日、改めて被災地を調査することにした。東京から6人が参加し、石巻から東松島、塩釜、仙台、名取、仙台空港、亘理――の約100㌔を走った。被災家屋などはまだ手つかず状態で、その惨状に目を奪われた。大型貨物船が陸に乗り上げている様子は、まさに「陸に上がったカッパ」であった。仙台市内はやっとネオンがもどり活気が出ていた。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
消えたマレーシア航空機。21世紀の現代にあって、ミステリーはあり得ない。変。

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11029 あれから3年③ 
2014/03/14 [Fri] 12:48:16 » E d i t
 2日目・3月13日の宿泊は宮崎市内。市街地の特定ポイントから新燃岳を臨むことができるが、あいかわらず噴煙が上がっていた。結局、この日も仙台との連絡は取れなかった。この日になっても、テレビは「海岸線の津波注意報」を流しつづけていた。遠い九州まで津波が押し寄せる恐れがあるということだろうが、そのエネルギーはすごいと思った。

 14日午前、東京に戻ったが交通機関は部分的に動いておらず不自由であった。やっとこの日の午後、仙台と電話がつながった。相手はかつて新聞販売労働運動を一緒に展開した地元の新聞・河北新報を配達している河北新報仙台販売労働組合の仲間たちである。組合員に人的被害はなかったが、親戚関係に犠牲者が出た仲間がいるという。

 被災後の厳しい条件下で、新聞は発行されつづけ配達もがんばっているという。支援物資で必要なものは何か、という問いかけに「お湯も沸かせないからガスコンロがほしい。それとすぐに食べられるカップ麺があればうれしい」という、実にシンプルな要求であった。

 新聞労連とも連絡を取りなら、なんとかして激励に行こう、ということになった。並行して支援物資の提供とカンパの呼びかけを行った。問題はどうやって現地に行くかであった。支援物資を運ぶには車が必要であるが、都内のガソリンスタンドは「売り切れ」でどうにもならない。東北道は一部崩落し通れず、緊急車両がなんとか行ける状態であった。

 そこで考えたのが、新潟から山形を経て仙台に入る方法である。早速、新潟の友人に電話してガソリンを売っているかどうか聞いてみる。すると「通常どおり売っていますよ」というではないか。新潟には製油所があるためだ。

 問題は、新潟まで行くガソリンだったがこれは無理。もしかしたらと、甲府の友人と連絡を取ってみる。ここは20Lまでという制限付きだがあるという。それではと、甲府を経て新潟に行き、山形から仙台に入ることにした。新聞労連は、大阪から車を出して新潟で東京からの電車組と合流することになった。

 準備は着々と進んだ。被災地から要望のあったガスコンロとカップ麺を探したが、どこも売り切れ。これも「もしかしたら」と甲府の友人に尋ねたら、あるという。彼は自宅周辺のコンビニをまわって各種カップ麺を買い占めてくれた。「店員にヘンな目で見られましたよ」と笑っていた。

 3月17日、震災発生から6日目。まず中央道勝沼インターまで行き、最初のガソリンスタンドで20リッタを補給する。そして別のガソリンスタンドへ。さらに、最初に行ったところにもう一度寄って、満タンにしてスタートだ。途中、知っているワイナリーで1升ビンのワイン6本入り2ケースを買い込む。実はこれが一番喜ばれた。車の中は、コメなどの支援物資で満載となった。

 中央道から長野道、さらに北陸道で新潟県・新発田(しばた)市をめざした。途中から雪がちらつきはじめ、高速道路はチェーン規制が行われた。同行は、車の運転ができるSさん。高速道路を降りたら、さっそく事前に調べてあったガソリンスタンドで給油。ホームセンターでガスコンロを購入し、この日泊まる予定の新発田駅前のビジネスホテルに投宿した。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
愛媛で震度5強の地震発生。伊方原発は大丈夫か? 情報を隠してはいないか?
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11028 あれから3年② 
2014/03/12 [Wed] 10:52:30 » E d i t
 電車は動いておらず「動き出すまで時間をつぶそう」ということになり、仲間たちと近くの居酒屋へ。2時間ほどしても電車は動く気配はなく、やむなく千代田区労協の事務所にもどることに。事務所の中は棚の上の荷物が落下し、〝戦争状態〟となっていた。それを整理しテレビをつけて地震の被害情報に見入った。

 食べるものがほしい、ということになり隣のコンビニへ。ところが食料品のタナは空っぽ(写真3)。周辺の人たち、あるいは歩いて帰宅する人たちに買い占められたようだ。この日のコンビニはすべてこうなったという。近くの幹線道路は歩いて帰る人(帰宅難民)の列が延々と続いていた。

(写真3・空っぽの食料品棚)
写真3コンビニ

 電車情報もテレビは流してくれる。自分が変える路線が動き出したことを確認した人から引き上げる。私の場合は、都営地下鉄を乗り継げば我が家の近くの駅まで行けることが分かり、それを利用することに。事務所を出たのは午後10時半、なかなか来ない電車を待ち、ラッシュアワー以上の混雑を振り切って、自宅に着いたのはなんと午前2時であった。

 翌12日は、九州宮崎の新燃岳噴火の調査に行くことになっていた。全国災対連(災害被災者支援と災害対策改善を求める全国連絡会)が呼びかけていたもの。朝11時に宮崎空港集合となっていて、飛行機が動くかどうかわからない。まして、空港までの交通機関が動くかどうかも分からないが、とにかく行ってみるしかない。いつもは西武線を利用するのだが、これは動いておらず、カミさんに頼んで都営地下鉄・大江戸線の駅まで送ってもらい、「大門」まで行き、モノレールに乗り換えるルートをとることにした。

 これが不思議なことに、スムースに行ったではないか。飛行機もほぼ定刻どおりフライト。少し満足して宮崎空港に着いたものの、参加者は前日から宮崎に入っていた2人と私の3人だけ。残りの参加予定の15人は、空港まで行くことすらできずアウト。やむなく、参加者3人と地元の案内人5人の〝少数精鋭調査〟となった。

 案内人のほうが多いという実に〝贅沢〟な調査である。都城市の降灰被害の様子や灰の処理場などを見て回る。噴火時に巻き上げられた火山石によって、プラスチックでできた屋根が破られていた(写真4)。その威力はすごい。降ってきた灰を使って焼き物を作っているという。これはなかなかの知恵だ。

(写真4・小石で破られた屋根)
噴火被害4

 宮崎側の調査を終えて、宿泊場所である鹿児島県側・霧島温泉のホテルへ移動。夕方、眼前(といっても距離はある)の新燃岳が噴煙を上げた(写真5)。変な表現だが、力強い。ここで今後の対策を協議。「東北の大地震被害に国民の目は奪われ、新燃岳は忘れられるかもしれない。そうならない運動をどうつくるか」などの議論となったが、それは的中した。

(写真5・新燃岳の噴火)
ホテルから新燃岳5

 翌13日午前中まで打ち合わせは行われた。私はその間、時間を見計らって仙台の仲間のところへ被害状況を聞こうと電話をかけ続けた。しかし、固定電話もケイタイ電話も繋がらなかった。何事もなければいいが、と不安が募る。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
「生涯ハケン」を強要する派遣法大改悪案を閣議決定。その陰で教育委員会制度の改悪も。暴走そのものだ。
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11027 あれから3年① 
2014/03/11 [Tue] 14:47:16 » E d i t
 あれから3年――。

 10日現在で震災による死者は1万5,884人、行方不明者は2,633人(10日現在・警察庁)となっており、今でも宮城県女川町の女川湾や福島県の沿岸部で海上保安部や警察が捜索しているという。さらに、避難生活を約26万7千人が強いられ、仮設住宅には約10万4千世帯が暮らしている(復興庁)という。加えて、東電福島第一原発の事故は、周辺住民の帰還を許さず17万人余が不自由な生活を余儀なくされている。

 東日本大震災未だ終息せず――これが実態である。3年目を迎えたきょう、記録を残しておく意味を込めてあの日のことを中心に振り返ってみたい。しばらくおつきあいください。

 あの日は、11春闘勝利をめざす千代田総行動を展開していた。早朝の宣伝行動に始まり、午前の要請行動、昼休みデモ、そして午後の要請行動……。そしてそれは来た。

 千代田総行動は午後3時から、厚労省に年金問題などについて要請することになっていた。少し早めであったが、厚労省へ急いだ。ビルに入ろうとする直前、足元がふらついた。脳血管に障害でも起きたのではないかと思うほどの揺れであった。が、不気味な地響きが地震であることに気づくのに時間はいらなかった。

 久しぶりの激しい揺れに、一瞬たじろいだ。近くの電柱にしがみつきながら、「ビルが倒れてきたらどうしよう」と対策を練っていた。物が落下してくることを想定し、花壇の下あたりが安全なようだ、そんなことをぼんやり考えていた。

 とりあえずの揺れは収まったが、時々強烈なものが襲ってくる。そうこうしているうちに、厚労省のビルから人々が出てきた(写真1)。聞いてみると「日比谷公園に避難するよう、館内アナウンスがあった」という。次から次と切れ目なく出てくる人の数に、ちょっと驚き。これでは厚労省への要請もできないだろうと、われわれもとりあえず日比谷公園に避難。
(写真1・厚労省前)
厚労省前1

 同公園内は官庁からの人々だけでなく、周辺民間企業からも避難者が集まっていた(写真2)。会社に用意されているのであろう、ヘルメットをかぶった集団もいる。その数は膨らんでいく。震源地はどこか知りたいと思い、ケイタイを持っている仲間に調べてもらうが通じない。集まってきた人たちの会話で「震源地は東北沖らしい」ということがやっと分かった。
(写真2・日比谷公園の中)
日比谷公園 2

 総行動は夕方5時過ぎから有楽町のマリオン前で、JAL争議支援の宣伝行動を行うことになっていたためそちらへ移動。途中、駅の公衆電話から自宅へ様子を聞くために電話。ケイタイが使えず、公衆電話は順番待ちの列。マリオン前に着いて宣伝行動までの待ち時間にテレビに映し出された津波を見て、「これは大きな被害になる」と私は叫んでいた。結局、JAL支援の宣伝行動は中止になった。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
新万能細胞「STAP(スタップ)細胞」の是非を問う論争、ヒトゴトながら面白い。静観だ。

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2014/03/10 [Mon] 10:20:08 » E d i t
 一時期、「改革」という言葉が新聞紙面を乱舞し、電波を席巻したことがある。「構造改革」「政治改革」「教育改革」「行政改革」「司法改革」などがそれである。『改革』という言葉はなにやら新しいものを連想させるが、(今でも同じだが)国民を欺くために使われたのははっきりしている。

 たとえば、「政治改革」は本来なら汚職や腐敗をなくしクリーンな政治が目的だったが、小選挙区制導入の口実だった。「教育改革」も日の丸・君が代の押しつけだったし、教育基本法の抹殺だった。「行政改革」も単に公務員の削減と賃金引き下げで終わっている。

 あの人たちが、この種の言葉を強調するときには注意しなければならない、と、私は警鐘乱打してきたが間に合わなかった。いままた、同じようなことが行われ始めた。「特区」がそれである。

 「国家戦略特区」なるものにもとづいて、「広域特区」、「革新的事業連携特区」などを置き、それを議論するために「特区議会」を開くというニュースが流れたが、実に分かりづらい。敢えて分かりにくくしているフシも否定できないが、この「特区」という言葉を改めて考えてみよう。

 まず言葉そのものの意味から。

 ▼大辞林/とくべつくいき【特別区域】/特定の分野・業種などに対し法的規制等を特別に緩和・撤廃したり,優遇制度が適用されたりする地域・区域。特区。

 ▼デジタル大辞泉/民間事業者や地方公共団体による経済活動や事業を活性化させたり、新たな産業を創出したりするために、国が行う規制を緩和するなどの特例措置が適用される特定の地域。経済特区・構造改革特区など。特別区域。

 ▼朝日新聞の解説/小泉内閣が進めた構造改革の目玉の一つ。中央官庁や業界団体の抵抗が強い規制緩和について、特定地域に絞り先行実施し、その後全国に拡大する。自治体や企業が提案し国が認定、03年4月に第1号が誕生。これまで「日本語教育特区」(東京都世田谷区)や「国際物流特区」(北九州市)など13分野で910件を認定。旧頴田町では05年3月、小学校の「英語」と小中学校での「少人数教育」の規制を緩和する二つの教育分野の特区が認められ、同4月からスタートした。(2007/02/09 夕刊 1社会 )

 朝日新聞の解説は2007年のものであるが、それより前に使われていると思われるので敢えて引用した。これによると「特区」が実際に運用されたのは03年が最初のようだが、だとすれば10年も使われてきたということになる。意外と古いことに驚き。

 言葉の意味はざっくり言えば、「特定の地域に限った規制緩和の代名詞」ということになろう。単なる規制緩和と違うのは、特定の地域や分野にのみ適用されるところにある。しかしこれは方便で、前述の『改革』を使った経緯を考えれば、遅からず全国的・全分野に広がることは必定だ。

 恐ろしいと思うのは、官邸主導の「構造改革特区」にいたっては、トランプでいえばジョーカーみたいなもので、「何でもできる」の代名詞だ。安倍首相は自分自身が〝特区〟であると考え、総理大臣に規制はない、と錯覚しているのではなかろうか。「特区」という言葉が出てきたら、要注意である。

★脈絡のないきょうの一行
明日、東日本大震災3年。復旧・復興は政治の貧困が阻害して遅々として進まない……。

政治問題 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2014/03/06 [Thu] 13:39:50 » E d i t
 前回、前々回ブログとも連動するが、1995年8月15日の終戦記念日に、当時の村山富市総理大臣が行った演説は「村山談話」として残っている。内容はその10年前に(当時の)西ドイツのリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領が演説で、先の戦争責任に言及したそれには及ばないが、諸外国から小さくない評価を得ている。

 この村山談話を揶揄する動きが強まっている。その内容をしっかりつかんでおきたいものだ。河野談話と同様、外務省のホームページから紹介しよう。

                         ◇=◇=◇
村山内閣総理大臣談話
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
平成7年8月15日

 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。

 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。

 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。

 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。

 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。

 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
                         ◇=◇=◇

 これは、政府としての事実上の公式見解である河野談話とは違い、村山富市という一総理大臣の個人的な思いを述べたものであるが、行政の長の発言として重みがある。『信義』を政治の根幹に据えたいという部分は、憲法9条を意識しているようにも思う。安倍暴走政治が、この談話を形骸化しようとしているのではないか、と、思うのは自分だけだろうか。
 ※注・杖るは信に如くは莫し(よるはしんにしくはなし)/信義が一番大事

★脈絡のないきょうの一行
柏の通り魔殺傷事件の容疑者は目の前にいた。被害を防ぎようのない距離に愕然。

2014/03/04 [Tue] 10:27:36 » E d i t
 韓国のパク・ウネ大統領が3月1日の「3.1独立運動記念式典」(日本の植民地時代の抗日運動記念日)で、前回紹介した日本政府の河野談話検証の動きを批判した。各メディアがこれを報じているが、毎日新聞はパク・ウネ大統領が「生きている証人の声を聞こうとせず、政治的利害のためだけに認めないなら(世界で)孤立するだけだ」と発言したことを紹介し手厳しい。

 さらに同大統領は「両国が関係を発展させられたのは、平和憲法を土台に周辺国と友好関係を増進し、村山談話と河野談話を通じ、植民地支配と侵略を反省して未来を切り開こうという歴史認識があったからだ」と指摘したという。日本国憲法9条に沿ったこの認識こそが、どこかの総理大臣の間違ったそれと大違いの、正しい歴史観といえる。国の指導者としての品格の差を感じずにはいられない。

 ドイツではヒトラーの政策を批判し、同じことを繰り返させないためにヒトラーに協力した人物を現在でも犯罪者として捜査しつづけている。もちろん日本人だが、私の知り合いの一人は何をとち狂ったのか「アウシュビッツはなかった」という主張をし、出版までしたがドイツから入国を拒否されている。ドイツではあのホロコーストに協力した者はもとより、それを支持する個人・団体をも外国人であっても処罰の対象にしているのである。

 ドイツではきちんとした歴史認識がなされているのに、日本ではどうしてできないのだろうか。私は持論をもっている。

 結論から言えば、日本とドイツとの極端な違いはあの戦争の責任を取りきっているかどうかにある。日本はあいまいなまま戦後69年を迎えようとしている。そのあいまいさが従軍慰安婦問題や、中国人らの強制連行・強制労働問題を置き去り状態にしているのである。では、なぜ責任を明確に出来なかった(できない)のだろうか。

 これもはっきりしている。象徴といえども、天皇制を残したことにあると思う。戦争責任を明確にすることは、天皇を批判せざるをえないのである。逆もまた真なりで、あの戦争にかかわった天皇の責任を明確にしない限り、国としての責任を明確にできない性質を持っているのである。

 河野談話と村山談話の特徴は、昭和天皇の責任に触れることなく事実関係を容認することによって、日本としての『責任を果たした』ことを言おうとしている。この二つの談話を中国や韓国が認め、天皇の責任を追及しないのは、日本という国と天皇の歴史を知っているからであり、両国の寛容さもあると思う。

 河野談話の検証は、周辺の国々のその〝思い〟に水を差すことにつながる。従軍慰安婦問題は河野談話の枠内で改めて謝罪し、しかるべく補償を行うのが筋である。それこそがワタクシ的には非常に不本意であるが、昭和天皇の戦争責任を棚上げする方法でもあると思う。

 それともあの人たちは「検証」によって、天皇の戦争責任の再燃を狙っているのだろうか。そうだとしたら、検証しなければならないのは河野談話ではなく、安倍内閣そのものなのかもしれない。

★脈絡のないきょうの一行
千代田区議会で公契約条例の議論が始まり傍聴したが〝入り口論〟に終始。中身の議論をしてほしいものだ。

2014/03/03 [Mon] 11:31:28 » E d i t
 きょうは、ひな祭り。一日ずつ暖かくなる季節だが、まだまだ風は冷たい。「歩き始めたみよちゃん」に大きな声で春風を呼び込んでもらおう。

 最近、やたらに「河野談話」という言葉が出てくる。これを検証する動きが始まったからだが、この談話の正式名称は「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」として1993年8月に、当時、内閣官房長官であった河野洋平氏によって発表されたものである。以下、外務省のホームページから全文を拾ってみる。

                         ◇=◇=◇
慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話
平成5年8月4日

 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。

 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。

 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。

 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。

 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。

 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。
                         ◇=◇=◇

 従軍慰安婦問題について、日本政府として整理し関係者に「お詫びと反省」を込めたものである。これを検証するということは、その内容に疑いができたことを前提にしていることにほかならない。安倍内閣は歴史に〝墨塗り〟をするつもりであろうか。戦前回帰をすすめる一環としか思えないこの検証。河野談話の内容をしっかり読みほぐし、守るべきものはまもらなければならない。

★脈絡のないきょうの一行
ウクライナ、危ない情勢に。無辜の市民を傷つける武力行使は避けてほしい。


2014/03/01 [Sat] 12:45:11 » E d i t
 静かである。私の住むここ練馬区あたりは、小雨がぱらつき「一雨ごとに暖かさ」の訪れを予感させてくれる。ベランダの物置の上には、カミさんが大事に育てている鉢植えの梅の木に、最盛期を過ぎた花弁が今にも落ちそうな気配である。

 この梅の木はかなり前、娘からプレゼントされたものだが、昨年はじめて1個だけ実をつけた。その実は市販されているカリカリ小梅程度の大きさだが、梅酒の素(もと)としてしっかり役に立っている。

 きょうは、アメリカの水爆実験によってビキニ環礁で日本の漁船・第五福竜丸が被害を受けて、60年の節目の日。周辺の静けさは、そんな事件が起きていたことを露ほどにも感じさせない。時の流れは「ビキニデー」を忘却のかなたに送り込もうとしているが、そうさせてはならない。

 事件を少しおさらいしてみよう。

 1954年3月1日、アメリカは広島型原子爆弾の1000個分の爆発力を持つといわれる水素爆弾の実験をビキニ環礁で行った。その威力は周辺海底に直径2㌖、深さ73㍍のクレーターを作ったという。その威力のすさまじさを示すデータである。

 そのとき、この海域には日本のマグロ漁船をはじめ、1000隻余が操業していたという。その上にアメリカが想定していた影響を受ける海域をはるかに越え、広範囲に死の灰を降らせたのである。アメリカ当局はこの実験は、7-8メガトン程度と考えていたがその倍、15メガトンに達していたのだ。

 実験が行われた周辺の島々の人たちも被害に遭っている。ビキニ環礁から240㌖も離れたロンゲラップ環礁の島民も被曝し、避難したのである。私たちは日本人の被害だけを考えがちだが、周辺の島の住民にも影響があったことを忘れてはなるまい。

 被害に遭った漁船のなかの1隻が第五福竜丸である。無線長の久保山愛吉さんは、同年9月に亡くなった。治療にあたった医師団は死因を「放射能症」と断定した。ところがこの死因について、アメリカは現在に至るも「放射線が直接の原因ではない」との見解を取り続けているのである。

 被曝した第五福竜丸は、はるかビキニ環礁から自力で母港の静岡県・焼津港にもどった。そのとき、同船は救難信号・SOSを出さなかったという。なぜか。被爆の事実を隠蔽しようとする米軍に撃沈されるのではないかという恐れがあったからだ、という逸話が残っている。

 この事件が日本における核兵器廃絶運動の原点になったことは知られている。そしてそれは世界に広がった。核と人類は共存できない。人類の知恵は核兵器を無くすことができるはずだ。

★脈絡のないきょうの一行
あの大震災から間もなく3年。心も含めて癒えぬ傷にどう向き合うか。難しい。