剣(つるぎ)神社の境内を抜けて、つづら折りの登山道を詰めていきます。これは、筑波山のケーブルカーの横を歩くときによく似ているな、と妙な感心をしたものです。リフトの山頂駅「西島」で一休みです。ここまで45分かかりましたので、それが余分な時間でここから先が予定のコースになります。道はもちろん、雪に覆われていました。
踏み跡もなく、慎重に稜線を歩きます。ヒュッテの屋根が見えるとほっとしました。ここから山頂まではほんの少しだからです。山頂への道は、前回はなかった木道でつくられていました。自然保護のためでしょう、いいことです。山頂は三嶺と同じように、ガスに包まれていました。風も強まり、持参した撮影用の三脚が倒れないよう工夫をこらします。
下山は、大剣(おおつるぎ)神社を通ることにしました。が、登りと同じように踏み跡はなくここでも苦戦です。やっとの思いで駐車場に到着、とりあえず剣山アタックに終止符を打ちました。この日の徒歩時間は、三嶺が5時間45分、剣山が2時間30分となり8時間を超えるものとなりました。
下山してからもたいへんです。次の和歌山県の護摩壇山(ごまだんさん)をめざします。淡路島に到達したころはすでに暗くなっており、大阪市内は真夜中。そこからさらに高野山のまち中を走り抜け、護摩壇山の駐車場に着いたのは午前2時。ここで車中仮眠です。翌14日に護摩壇山の山頂を踏んでから、大阪府で一番高い山・大和葛城山(やまとかつらぎさん)へ。下山後、京都の民宿まで進み投宿、15日に京都の皆子山(みなこやま)に登りました。
この皆子山、雨の中を歩くことになったばかりか人が入らないらしく、ヤブこきも強いられこれはけっこうつらかった。このころはまだまだ元気で、下山後は予定に基づいて滋賀県の最高峰・伊吹山をめざしたのです。ところが、有料道路の入り口まで行ってみると雪で開通しておらず、さすがにここは、すごすごと引き揚げました。
帰路は真夜中の東名高速道路を突っ走りました。4月11日からスタートし日付変更線を越えて16日までの足掛け6日間の山行となりました。車の総走行距離は、なんと2287㌔を記録していました。
*徒歩総時間/2006年4月12日/石鎚山・4時間50分
土小屋(11:10)-(途中休憩15分×2)-石鎚山頂(14:20 14:40)-(途中休憩10分)-土小屋(17:00)
*4月13日/剣山・2時間30分
見の越登山口(14:30)-リフト西島駅(15:15 15:25)-山頂(16:05 16:20)-登山口(17:25)
*参考/1997年11月22日/剣山・1時間25分
リフト山頂西島駅(9:55)-剣山頂(10:30 10:45)-大剣神社(11:00)-西島駅(11:15)
*11月23日/石鎚山・5時間30分
白石旅館(6:20)-前社ヶ森売店・朝食(7:20 7:55)-本殿・弥山(9:35 9:50)-天狗岳(10:10 10:20)-本殿(10:35 11:00)-白石旅館・昼食(13:00 13:35)-ロープウェイ山頂駅(13:55) ※注・白石旅館までは前日にロープウェイ山頂駅から20分
★脈絡のないきょうの一行
司法は自らが決めた「解雇4要件」をJAL裁判で事実上、破棄。天に唾する行為だ。喝!
7合目あたりからでしょうか、全山雪になりました。道を踏み外して、腰まで雪に〝浸かる〟こともしばしば。少々閉口しますが、がまんです。「二の鎖小屋」で一休みして、気合いを入れ直し前進です。写真でもよく見る鎖場が登場しました。前回はこれをよじ登ったのですが、雪のためそれをあきらめて一般道を歩きます。
鉄の階段を3つしのいで、山頂の神社に到着しました。周辺はガスに覆われ視界はゼロ。神社のあるところは弥山(みせん)と呼ばれていますが、ピークもう少し先の「天狗岩」です。ここは基本的には立ち入り禁止で、前回は登ったものの雪のため危険と判断、この神社を終点としました。神社には山頂を示す標柱が立っています。雪がなくても、天狗岩まで行くことはお勧めできません。
帰りも雪道歩きですから、あまりゆっくりしていられません。山頂の記念写真を撮って下山開始です。登山口の土小屋には日没寸前、ちょうど午後5時に到着しました。竜王山も含めると、この日歩いた時間は5時間となり、東京から夜通し運転してきたこともあり身体はクタクタになっていました。この日の宿泊の伊予西条駅前のビジネスホテルで、寝つくのに時間はいりませんでした。
2日目、4月13日。午前5時過ぎにホテルを出ました。この日は高知県の最高峰、三嶺(みうね)と主目的の剣山の2山に登らなければならないからです。途中のコンビニで食料を買い込み、走り始めました。まず、高知県の最高峰、三嶺(みうね)をめざします。この山はいわゆる「200名山」の一つとなっているものの、あまり目立たないのですが昨、2011年10月に遭難が発生したため一気に〝メジャー化〟しました。13人(実はもう一人単独行の人がいた)のパーティが道に迷い、夜明かししたのです。全員無事に下山して事なきを得ています。
私たちの場合は、この山から時間的誤算が生じました(かといって遭難したわけではありません)。予定は林道を登り詰めて、そこから歩くことにしていましたが、その道が雨で崩落し通行止めになっていたのです。仕方なく、国道近くの駐車場に車を止めて、山頂を往復しました。そのため、予定より1時間半も多く歩くことになり、次の本命・剣山に時間的しわ寄せが波及したのです。
三嶺から下山し、大急ぎで剣山の登山口に移動しました。ところが、そこでなんと「ブルータスよ、お前もか」という事態が待っていたのです。ここでも石鎚ロープウェイと同じように、登山リフトが点検で運休しているではありませんか。三嶺で時間を取られ、登山口の「見の越」に到着したのが午後2時過ぎでしたから、またしてもどうするか、相談会議です。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
昨日につづき、またしてもJALの客室乗務員に不当判決。司法は死んだのか。
2回目のときは、四国と関西の各府県最高峰も踏もうということで、実に4日間の行程となりました。結果は、香川県・竜王山、愛媛県・石鎚山、高知県・三嶺(みうね)、徳島県・剣山、和歌山県・護摩壇山(ごまだんさん)、大阪府・大和葛城山、京都府・皆子山(みなこやま)――の7山にチャレンジ、予定どおり山頂を踏みました。北海道と東北の「百名山一気3山登山」もすごかったが、これもしんどかった。以下、石鎚山と剣山の2山の報告です。
同行はいつもの、Sさんです。もちろん、二人とも運転免許は所持しており、交代で走り抜きました。97年のときは明石海峡の高速道路は未建設であり、瀬戸大橋で四国入りしましたが、06年のこのときは淡路島を走り抜け徳島から四国に渡りました。スタートは4月11日の夜、途中休憩を繰り返しながらまず、香川県の最高峰・竜王山にチャレンジ。ここは山頂直下まで車が入り、12日午前6時25分に歩きだし、同45分には戻ってきました。次の石鎚山に登るために急いだこともあります。
97年の山行同様、石鎚ロープウェイ乗り場まで行ってみると、な、なんと前日の11日とこの日の2日間は定期点検で、「運休」となっているではありませんか。一瞬頭が真っ白になりましたが、地図を広げてどうするか相談です。選択肢は3つです。①ロープウェイを使わずそこから山頂をめざす②高知県側の登山口である「土小屋」から登る③断念する――です。
結論は、「高知県側から登る」ということになりました。さあ大変です。ロープウェイ乗り場から、「土小屋」まで80㌔近くはあります。愛媛県と高知県の県境にある寒風山トンネルを抜けて、すぐ左の林道に乗りました。これが意外と長い。登山口に着いたのは10時半を回っていました。ここで急いで支度を整え、歩き出しです。
登山口から1時間ほど歩いたところから、雪が出現しました。このときになって気づいたのですが、私はスパッツを車の中に置いたままだったのです。Sさんは大丈夫でしたが、もう間に合いません。前進しかなくズボンの裾がずぶ濡れ状態となりながら、雪との格闘が始まりました。4月の中旬ですから、四国といえども雪があって当然です。スパッツを忘れたことは誤算でした。しかし、念のためと持参したアイゼンが役に立ったことはいうまでもありません。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
東京地裁、JAL不当解雇で乗員(パイロット)関係に不当判決。裁判所前は怒りの声が渦巻いた。
この山も2回登っています。1回目は2001年10月15日、2回目は2007年11月24日でしたが、このときは雪に見舞われこのシーズン初めての「雪山歩き」となりました。報告は1回目のときのものとします。
この山行は〝帰りの駄賃〟みたいなものでした。九州で仲間うちの交流会が行われ、その帰りに大山にチャレンジすることにしたものです。いつものOさんと、Tさんと私の3人組みです。東京から車で行きました。東京、神奈川、静岡、愛知、岐阜、滋賀、京都、大阪、兵庫、岡山、広島、山口、そして福岡と13都府県を走ったことになります。走行距離は往復2500㌔を記録していました。
10月15日早朝の暗いうちに、小倉の宿で仲間たちにお別れをして、大山をめざしました。米子自動車道の蒜山(ひるぜん)あたりで、白く高く横に長い山が出現しました。Tさんは「雪が降っている」と叫びましたが、これが大山です。
大山のふもとにある駐車場に車を止めて、途中で買い込んできた弁当をザックに仕舞い込みスタートです。奥さんと一緒に登ったことがあるというTさんは、やや余裕ありでしたが、食事後はかなりバテ気味となり悪戦しています。5合目あたりで後ろを振り返ると、日本海の水平線が目に飛び込んできました。同じペースで登っていた地元の母娘連れらしき人は、「6合目からはもっとよく見えますよ」と声をかけてくれました。
残念だったのは、避難小屋がトイレ代わりに使われていたことです。小屋の中は汚物だらけで使える状態ではありません。確かに登山道の途中にトイレはなく、不便です。この山に登る人の数の多さからすれば、何らかの形でトイレを作るべきです。それがないことは問題ですが、避難小屋をトイレとして使うなど、あまりにもマナー違反です。その様子にハラが立ったものです。これは2回目に登ったときも同じような状態でした。
6合目からの日本海は、途中で教えてもらったとおり立派です。三保湾のなだらかな曲線がきれいです。米子市でしょうか、市街地が広がっています。目線を右側に移すと、三鈷峰(さんこほう・1452M)が白い肌をむき出しにし、大山の力強さをアピールしています。
6合目まで来て、少しバテ気味で山頂を踏んだことがあるというTさんは、ここから下山することになりました。Oさんと私の二人になり、山頂をめざします。8合目までは急登の連続でしたが、ここからは緩やかな登り斜面となりました。山小屋が見えれば、山頂はすぐです。
大山のピークは剣ヶ峰ですが、前年の2000年10月6日に発生した鳥取地震で地盤が緩み、危険なため通行禁止になっていました。剣ヶ峰だけでなく三鈷峰への縦走路も封鎖されていました。これは仕方のないことです。写真を撮ったあとの下山はいつものように一気、です。私たちを登山口で待っていたTさんは、この日の宿を皆生(かいけ)温泉に確保してくれていました。ゆったりと温泉に入り、翌朝、帰路につきました。
*徒歩総時間/2001年10月15日/4時間10分
ふもと駐車場(11:30)-昼食休憩(11:45 12:20)-大山山頂(14:50 15:10)-駐車場(16:35)
*参考/2007年11月24日/4時間20分 ※雪道歩き
ふもと駐車場(9:50)-(休憩15分)-大山山頂(12:20 12:40)-(休憩15分)-駐車場(15:00)
★脈絡のないきょうの一行
辺野古アセスで沖縄県知事、404件の不適切を指摘。この計画、やはり無理。野田さん、諦めたら?
ところがボランティアグループからの報告によれば、作業をする人が集まらず除染作業そのものが難航しているといいます。つまり地元の雇用創出に役立っていないというのです。一方、自力ではなくゼネコンにその作業を依頼した周辺の市町村はスムーズにすすんでいるといいます。なぜこのようなアンバランスが起きるのでしょうか。
この問題について、原子炉などの不具合や危険を告発してきたための、報復措置としか考えられない「再雇用拒否」の撤回を求める裁判をたたかっている、元原発検査員で『原発ドンキホーテ』を自認する藤原節男さんは、いとも簡単に答えました。「原発作業と同じように、除染も暴力団がからんでいるからですよ。仕事を独占するために作業員を派遣することはしないし、むしろ裏で人をそこに行かせないようにしているのではないか。」と言うのです。
この意見、当たらずとも遠からず、という感じがします。言い方を変えるとゼネコンの息のかかったものでない限り、除染作業には従事させないということになるでしょうか。東日本大震災によるがれきの処理も、同じような傾向があるようです。つまり、ゼネコンが手がけた仕事はスムーズにいくが、地方自治体が主導するものは人や機材が集まらず進行が遅れるという傾向があるといいます。
その反映でしょうか、被災地の夜の居酒屋は東北弁ではなく東京や関西弁の人たちが席巻しているといいます。つまり、がれき撤去作業も地元の労働者ではなく、他県から来た労働者が行っており、仕事を終えて夜のまちに繰り出しているというのです。地元の人たちは怒りの声を上げていますが、これでは被災地の雇用増加にはつながりません。
これらの問題、メディアには乗りません。ゼネコンに「遠慮」しているからでしょうか。それとも、誤解を恐れずに言えば、藤原節男さんが指摘するように暴力団がからんでおり、それを「恐れて」いるからでしょうか。あれだけ大騒ぎした電力不足の報道がいつの間にかなくなったことと同じように、この問題も不思議の一つです。
★脈絡のないきょうの一行
イラク派兵反対運動で行われた、自衛隊のスパイ(監視)活動に仙台地裁が断罪。当然だ。
原発事故は「除染」という今までになかった仕事を創り出しました。しかもこの作業、終わりが見えません。何年かかるか分からないその作業は、未知数の雇用をつくりだしたといえます。その仕事に従事する人たちの被曝による健康問題が懸念されますが、対応さえきちんとすれば(この国の行政は心配ですが)それは解決されるはずです。「雇用」という視点だけでみれば、拡大されたことになります。
そして廃炉(が決まった場合)の作業ですが、これはどこが請け負うのでしょうか。放射線というやっかいなものを扱い専門的知識を必要とする原子力発電所は、一般の建築物とは違い誰でも解体できるというものではありません。したがって、入札というわけにはいかないでしょう。その原発を作った企業が行うしか方法はないと思います。つまり随意契約しかなさそうです。
原子力発電所の建設手順は建設した企業しか知らないのですから、解体も同じ企業が行うしかないのは道理です。しかもこれは一旦手がけたら、10年サイクルの仕事になるといいます。前回紹介した原発メーカーA社の場合、廃炉になった場合を想定して経営陣は仕事が創出できる、つまり利益が出ると喜んだようですが、再稼働方針を出されたため思惑が狂ったようです。
そこで、A社の原発関連の職場は何をしているかというと、あの福島第一原発事故の教訓からでしょう、当初は水没しても稼働し原子炉の冷却を維持できる発電機づくりでした。ところがこれは研究をはじめて、実行に移そうとしたとたん沙汰止みになり、「地震に耐えられる配管を作れ」ということになったといいます。地震に耐えられる配管は、ストレステストをクリアするうえで重要な要件だからです。原発事故により、新たな仕事ができたことになります。
皮肉なことにあの原発事故は、(私は再稼動には断固反対ですが)今までなかった仕事を生み出しています。それは雇用の機会を増やしその仕事を請け負う企業にとっては、儲け話しであり、景気回復に役立つことにつながります。ところが、除染作業について問題が生じているといいます。これは別項で触れることにしましょう。
★脈絡のないきょうの一行
稼働原発、北海道・泊だけの1基に。それでも電力不足の声は聞かない。原発は不要の証だ。
仮にその企業をA社としておきましょう。A社は全国54基ある原発建設のかなりの部分を手掛けてきました。そのA社の直近の労使交渉で、会社側は「管内閣は廃炉の方向を打ち出し、会社としてはその準備を始めた。しかし、野田内閣は再稼働を言い出し、方針を転換せざるを得ない状況になり、振り回されている」と、憮然としたといいます。
しかも、廃炉の作業は20年から30年のスパンで行う必要があるといいます。詳細は避けますが、冷温停止までの時間や原子炉から燃料棒を取り出してからの処理、廃棄場所など困難を極めるであろうことは理解できます。何しろ相手は、放射線物質を発する「核」なのですから。20、30年かかるということは、それだけ仕事が生まれるということです。言い換えれば、企業的には安定した収入になるということです。
同時にそれは、膨大なカネを必要とすることになります。その額は原発建設と同じくらい、あるいはもっとかかるかもしれないといいます。ここに「再稼働」の見えざる顔があることに気づきました。つまり廃炉を決めた場合のカネのやりくりができないのです。原子炉の耐用年数は日本では40年を基準としていますが、さらに20年伸ばすことも俎上にのぼっています。これも、廃炉に膨大な費用を要することが原因といえそうです。つまり、あの人たちが得意とする不都合なことの先送りです。
ときあたかも、消費税増税問題が出てきています。廃炉の費用は電力会社だけでは対応できません。当然、税金を投入することになります。ここで原発を廃炉にする(イコール・税金を投入する)ということになれば、消費税増税が世論から袋叩きに遭うことは目に見えています。それを避けるための、原発再稼働といえそうです。
もちろん、再稼働に利権がからんでいることを見逃してはなりません。佐賀県知事(限界原発)や、北海道知事(泊原発)らが再稼働容認に動いているのは、前出の問題もさることながら地域への利権がからんでいることは確かだからです。
それにつけても、原発建設時に廃炉のときの想定はなかったのでしょうか。おそらく、なかったと思います。「作ることに意義あり」方式で、建設する地元にはヤラセをおこなったうえで了承を取り付け、カネをばらまいて強引に原発建設を推進したのです。その結末が今度の東電福島第一発電所の事故だったと言えます。
★脈絡のないきょうの一行
危ないぞ、派遣法。骨抜き法案が、自公も賛成し成立しそうな気配。許すまじ。
1年というのはあっという間のように思えますが、被災した人々、とりわけ肉親を亡くした方々にとっては、はかることのできない時間だったかもしれません。それらを乗り越えて、人は生きていかなければなりませんが、復興の作業が遅れていることに少なくない人たちが苛立ちを持っていることが明らかになっています。以下、産経新聞のウェブからです。
◇=◇=◇
仮設住宅入居者アンケート 「全く進まない」4割 東日本大震災
産経新聞3月12日(月)7時55分配信
東日本大震災の発生から1年。被災者の意識を調べるため、産経新聞は大阪市立大学の協力を得て、仙台市と岩手県宮古市田老(たろう)地区の仮設入居者計200人にアンケートを実施した。その結果、被災地の復興が「全く進まない」「緒についたばかり」と答えた人は8割を超え、被災者が復興の遅れを感じている様子が浮き彫りになった。
集計、分析した大阪市立大の宮野道雄副学長(地域防災)は「東日本大震災の被災者がみる現地の復興状況は決してよくない。津波が人々の生活を根こそぎ破壊し奪い去ったこと、被災地があまりにも広大で、まとまった復興の姿が見えにくいことなどが理由だと思われる」と話している。
アンケートは2月17、18の両日、仙台市内の仮設住宅入居者と、国内屈指の規模の防潮堤が整備されていた田老地区の仮設入居者100人ずつに実施した。
「被災地全体の復興はどこまで進んだか」について、「全く進んでいない」「緒についたばかり」「完全に復興した」など選択肢7つの中から選んでもらったところ、「全く」が38・9%、「緒に」は44・7%にのぼり、合計で80%を超えた。
阪神大震災から約1年後にも、被災地の約600人に対して同様のアンケートを実施したが、「全く」「緒に」の回答は計49・9%、「3割がた復興した」「半ばまで復興した」との回答も計38・9%あった。
「個人の生活の復興はどこまで進んだか」については、東日本の被災者で「7割がた復興した」「ほぼ復興した」との回答が計5%しかなく、阪神の回答計21・7%の4分の1以下だった。単に「遅い」だけでなく、一定程度復興したと感じる被災者の「少なさ」も浮かんだ。
宮野副学長は「東日本大震災の被災地の多くでは、地域が高台に移転するのか否かなどのまちづくりの方針が決定されないと、自宅再建の道筋が立たない。このことが、被災地全体だけでなく、個人の生活復興の遅れをも感じさせているのではないか」としている。
◇=◇=◇
阪神淡路大震災のときとの比較が興味深いところですが、多くの人たちが不満を持っていることは事実で、ここにどう応えるかが問われています。それはひとえに政府の双肩にかかっており、しっかり監視する必要がありそうです。
★脈絡のないきょうの一行
昨日、全国各地で展開された「原発なくせ」行動。推進者たちの焦りが見えるようだ。
福島市は第一原発から、直線距離で約60㌔の地点にあります。20~30㌔圏内が避難地域に指定されていますから、その3倍ほどの距離ということになります。他の市町村と比べ、人口が多いだけに不安も比例します。
調査対象の桜台ニュータウンは、南北1㌔、東西2㌔ほどの広さで、戸建て住宅地となっています。「台」という地名のとおり、少し高台になっています。前日に雪が降ったため、雪の上からの計測は正確にならないということで、測定場所を減らしました。
測定は、測定器にスイッチを入れて90秒後、さらに30秒後、もう1回30秒後と3回行います。それも同じ場所の、地面から5㎝と、1m地点の2ポイントで。測定器(サーベイメーター)は値段的には50万円を超える、かなり精度のいいものでした。
調査に入った桜台ニュータウンは、高台ですから風通しもよく放射線は飛んでいってくれそうです。現に、一番高いところで計測しましたが、強い風が冷たく寒さに震え上がりました。ところが予想を裏切って、その場所も他と比較して線量は大差ありませんでした。
計測結果は、当然地面に近い5㌢のところのほうが高く出ましたが、一般的には1㍍が基準ですから、それを参考にします。計測器は(μSv/h)を示します。これは1時間あたりの線量で単位はマイクロシーベルトということになります。数値は低い所で0.431、高い所は1.021を示していました。
これは東京と比べると明らかに高くなっています。1.021のところの年間線量は8943.96となり、国際基準をはるかに超えています。0.431のところも同様に年間3775.56となります。やはり全体としては高い。調査後に毎日新聞の福島支局(JR福島駅近く)に立ち寄り、知り合いの記者と情報交換をしました。その際、事務所の中を計測したら0.013となっており、その違いに驚きました。室内が低くなることは理解できます。
この数字をどう見るかはそれぞれです。最近の報道であの事故の直後、アメリカ政府は80㌔圏内のアメリカ人に避難勧告をしたことが分かりました。スリーマイル島のときもそうだったといいますし、考えてみれば国際基準からみて当然の措置だったといえます。日本政府とアメリカ政府の対応の違いが、これほど鮮明になったことは珍しいかもしれません。
本番の調査の前に予定時間より早いからと、桜台より南側3㌔ほど離れた蓬莱団地のショッピングセンターのバス停で計測してみました。バス停ですから人が集まるところです。ここも針は0.4台を示していました。
通りすがりの人が私たちの様子を見て、「どのくらい(の線量)ですか」と聞いてきます。数値を教えると「高いですね」という反応ですが、驚きません。毎日新聞の福島支局でも話題になりましたが、県民は『慣らされて』いるのかもしれません。実は、これが一番怖いことなのではないでしょうか。初めての線量調査でしたが、そんなことを感じました。
★脈絡のないきょうの一行
東京・立川市で95歳の母親と、それを介護の63歳の娘とみられる2人が孤独死。やりきれない。
1999年9月30日に東海村JCOで起きた臨界事故で、2人が死亡した事件は記憶にあるところです。このとき亡くなった35歳のAさんの被曝量は、1,600万(μSv)から2,000万(μSv)と言われ、文字どおりケタ違いの被曝です。その治療経過をウキペディアから紹介しましょう。
◇=◇=◇
高線量被曝による染色体破壊により、新しい細胞が生成できない状態となる。まず白血球が生成されなくなったため実妹から提供された造血幹細胞の移植が行われた。移植術自体は成功し移植直後は白血球の増加が見られたが、時間経過と共に新細胞の染色体にも異常が発見され、白血球数が再び減少に転じた。59日後の11月27日、心停止。救命処置により蘇生したものの、心肺停止によるダメージから各臓器の機能が著しく低下、最終的に治療手段が無くなり、事故から83日後の12月21日、多臓器不全により死亡した。
◇=◇=◇
Aさんの場合と1桁下回りますが、200万(μSv)で2週間以内に5%、300万~500万(μSv)で半数の人が死に至り、さらに700万~1,000万(μSv)に上がると99%が死亡するといわれます。こうしてみると前出のAさんの場合、いかに異常であったかが分かります。
もう少しみてみましょう。ぐんと少なくなって、10万(μSv)でがんになる人が増加します。医療で使われるレントゲンなどの放射線は、一時的ですが高くなります。が、これは短時間ですから人体にはほとんど影響がありません。実数はどうかというと、X線CTによる映像1回分は7,000~2万(μSv)、胸部CTスキャンは6,900(μSv)、胃のX線撮影1回分は4,000(μSv)――などとなっています。ちなみに、東京-ニューヨーク間の飛行機の場合は、往復で200(μSv)だそうです。
以上大ざっぱにみてきましたが、個人差や年齢差が出ることはご承知のとおりです。放射線の種類によっては、潜伏期間の長いものもあり子どもや若い人がより注意しなければなりません。それゆえに、今回の原発事故は子どもたちのことが心配されているのです。
こうして見てきますと、私たちは意外と放射線量と人体への影響について知らないのかもしれません。必要以上におびえることなく、しかし、慎重に対応したいものです。
★脈絡のないきょうの一行
文科省チーム、首都直下震度7を想定した被害想定に着手。全容を知らせてほしい。
線量の単位は「シーベルト」や「ベクレル」「レム」「グレイ」「ラム」などがありますが、最近ではシーベルト(Sv)が一番使われています。ベクレルもそうですが、このシーベルトも放射線学に携わった人の名前を冠しています。文科省が各地の線量を発表していますが、浪江町のように多いところはミリシーベルト(mSv)で表示、少ないところは1時間単位で、マイクロシーベルト(μSv/h)で表示するのが通例になっているようです。
1シーベルトは1000ミリシーベルト、1ミリシーベルトは1000マイクロシーベルトということになります。つまり1000分比になっており、したがって1シーベルトは100万マイクロシーベルトということになります。ここでは「マイクロシーベルト」(μSv)を使わせていただきます。
では人体に影響が出るのは、どのくらいの量からなのでしょうか。世界の自然放射線による平均年間被曝量は、2,400(μSv)といわれています。ところが、国際放射線防護委員会(ICRP)は、人口放射線による年間被曝の限度は1,000(μSv)であると勧告しています。
ところが、日本の原子力安全委員会の指針では、年間50,000(μSv)まで許容範囲だとしています。かなり大きな隔たりですが、今回の福島第一原発によって避難を余儀なくされている浪江町などは、これより大きな線量が生じたため、ということになります。
文部省発表を見てみましょう。最新は3月5日となっています。その累積線量は、現場から近い浪江町赤宇木七郎で120,800(μSv)、飯館村長泥で63,430(μSv)となっておりこれは高い。62㌔離れた福島市杉妻町では4,407(μSv)です。この累積線量の求め方、少し恣意的ではないかと思っています。以下に述べる他県との比較ができないからです。
ではその都道府県の大気中の放射線量をみてみましょう。1メートルの高さに設置したモニタリングポストによる調査です。この数字の単位はマイクロシーベルトで1時間当たりのもの(μSv/h)となっています。当然高くなる福島県は0.938であり、比較的高いのが茨城県と栃木県でともに0.098、東京都で0.073、一番遠い沖縄県で0.020となっています。
この数に24(時間)と365(日)を掛けると、年間の想定被曝量が出てきます。福島県は8216,88(μSv)、茨城県と栃木県は858.48(μSv)、東京都は639.48(μSv)となります。福島県はICRPが勧告している数値の8倍となっています。それでも「ただちに影響はない」と言えるのでしょうか。次に、実際に線量がどのくらい高くなれば、どのような影響があるのかを見てみます。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
すごいね、ブタ肉の輸入で3億円の脱税。丸々太ったんだろうなー。
被災の模様を伝える紙面は、記者たちが走り回る姿が目に浮かぶような記述が目立ちます。13日づけの紙面から拾ってみましょう。釜石からの報告。『目の前で妻消える』という見出しで「海岸から200㍍、釜石市只越町の高台から市街を見た。鉄骨以外の建物は基礎だけを残し、そっくりと無くなっている。がれきと泥水に覆われている。…自宅で被災した小川誠也さん(83)は、目の前で妻の静子さん(80)を津波にさらわれた。…2階にいた小川さんは、1階の静子さんに『上がれ!』と声をかけたが、すぐに波が1階天井まで押し寄せた。『あ!』と声を上げたまま、静子さんの姿が消えた。」(山形泰史、酒井原雄平、道下寛子)
気仙沼からは、『全部なくなった』という見出しで、「白々と悪夢の夜は明けた。湾内の空を赤々と染めた火柱は消えていたが、太陽の下にその悪夢の景色はやはりあった。一つの街の一区画がそっくり焼け焦げていた。それがかつて何であったか不明のがれきの山が、車道をふさいでいた。乗用車や保冷車は好き放題に転がり、土砂に埋もれ川に突っ込んでいた。美しい景色と水産のまち・気仙沼は、今まで誰も見たことのない、形容しがたい無残な姿をさらしていた。」(菊池道治)
閖上(ゆりあげ)からは、「街が津波に洗われた名取市閖上地区。がれきの山が延々と続く。『まるで地獄だ』。想像を絶する光景に言葉を失った。夜明けを待って12日午前5時半、県道129号を歩いて閖上地区に向かった。道路脇のがれきから火が上がり、煙が漂う。津波に運ばれた漁船が何隻も見える。流された家が電柱に貫かれ、車やトラックが水没している。…道路には、4人の遺体があった。両脚をガードレールにかけて逆さづりのような姿だったり、体が毛布にからみついていたり。…がれきを必死にかき分ける男性(53)がいた。義理の両親を探しているという。約2000人が避難した閖上小や閖上中も回ったが見つからず『悔しい』とつぶやく。…」(小野勝彦、水野義将、狭間優作)
紙面はこの13日から、「亡くなった東北地方の方々」という告知が始まっています。この日は▼青森県3人▼岩手県2人▼宮城県16人▼山形県1人▼福島県1人――となっていますが、このあと、1万5千人を超える人々の名前が連日掲載されることになります。この死亡告知報道は、読者にとっては貴重な情報の一つです。
改めて、震災直後の紙面を読み返しながらジャーナリストのすごさみたいなものを感じました。この情熱が「権力」に立ち向かったとき、きっと、市民を主人公とした新聞づくりができる、そんな気持ちになるのは私だけでしょうか。がんばれ、河北新報。
★脈絡のないきょうの一行
11日は全都道府県で「原発なくせ」の行動が予定されている。日本国民の思いを示す日にしたい。
当日の津波の実写も交えながらの映像は、緊張感あるものとなっていました。新聞記者が取材のために街に飛び出します。家族を失った人とどう接していいのか。余震におびえる子どもをどう描きだすのか。その痛みと苦悩が手に取るように伝わってきます。一緒にテレビを見ていたうちのカミさんは涙を流しっぱなしでした。
被災者を前にしてカメラのシャッターが押せない、その気持ちは痛いほど分かります。親を探す子どもがいます。記者は声を掛けることすらできません。「つらいことばかりで、気持ちを切り替えることができない」と立ちすくみます。それを報道部長が「自分たちも被災者だ。その立場から書こう」と励まします。
ドラマは取材記者とともに、新聞販売店にも目を向けました。新聞社の映像は、記者や印刷(輪転機)が中心になりがちで販売店を扱うのはあまりありません。新聞は読者に届いてこそ、新聞です。読者に届かない新聞は、単なる「紙」です。その意味において、新聞配達労働者は「新聞」という商品を読者に届ける〝最終ランナー〟です。
ドラマだけでなく現実でも避難所は新聞が唯一の情報源でした。阪神淡路大震災のときも同じでしたが、販売店主と従業員は死にもの狂いで届けます。その配達を準備しているさなか、店主は津波にのみこまれ命を落とします。
新聞販売店にスポットを当てたところは好感を持ちました。早朝、暗いうちから準備をして読者に新聞を届ける作業は大変です。しかも冬場は寒く、道路が凍結し、思うように作業ははかどりません。賃金も取材記者と比べると低く、厳しいものがあります。そのなかでたたかっている人たちがいることを、ドラマはしっかり映し出していました。父親を亡くした息子が「自分が販売店を引き継ぐ」と語るところは感動的でした。
河北新報の新聞紙面は3月13日から署名入りとなり、県内に散らばる記者たちが、自分の目を通して感じたことを書き始めました。私の手元に『河北新報・特別縮刷版「1ヶ月の記録」(2011.3.11~4.11)』があります。同社が特別に作ったものです。この縮刷版をもとに当時の報道内容について少し紹介しましょう。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
今年の経済成長率目標を、昨年の8%から7.5%へ下方修正。中国よ、おまえもか。