ヘボやんの独り言
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10676 行く年の「今」 
2011/12/30 [Fri] 05:08:21 » E d i t
 2011年もカウント・ダウンに入りました。小ブログも今年の締めくくりとなりますが、ドイツの牧師、マルチン・ニーメラさんが戦後間もない時期につくった一編の詩を、ふと、思いだしました。いま改めてこれを読んでみると、この詩は「今」なのではないかという錯覚を起こしそうです。

 今年の締めくくりとして、この詩を紹介させていただきます。

                         ◇=◇=◇
共産党が弾圧された。
私は共産党員ではないので黙っていた。
社会党が弾圧された。
私は社会党員ではないので黙っていた。
組合や学校が閉鎖された。
私は不安だったが、関係ないので黙っていた。
教会が弾圧された。
私は牧師なので立ち上がった。
そのときはもう遅かった。

はじめに彼らはユダヤ人を逮捕した。
私はユダヤ人でないから黙っていた。
次に彼らはコミュニストを逮捕した。
私はコミュニストでないので、黙っていた。
それから彼らは労働組合員を逮捕したが、
私は労働組合員ではないので沈黙していた。
そして彼らは私を捕らえたが、
もう私のために声を上げてくれる人は一人も残っていなかった。
                         ◇=◇=◇

 来年こそはいい年になることを願って。よい年をお迎えください。

★脈絡のないきょうの一行
消費税増税を半年先延ばしで一致した民主党。なんのことはない、結局は増税じゃないか。
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10675 行く年② 
2011/12/29 [Thu] 08:21:08 » E d i t
 「武器輸出緩和」問題の論評は必要ないでしょう。この問題が報道された直後、日本経団連の米倉弘昌(住友化学会長)会長は満面の笑みをたたえながら「大きく評価する」とテレビの画面で述べていました。水を得た魚、状態です。

 この問題は看過できません。自衛隊の海外派兵を可能にしたうえ、武器も〝自由化〟するということは、戦前のニッポンにもどるということです。これを完成させるために残されているのは、9条を無きものにする改憲です。あの人たちが、改憲論議を急ぐ理由はここにあります。あの自民党でさえできなかった武器輸出緩和を進める民主党政権には、レッドカードを突きつけるしかありません。

 そしてもう一つの問題は大阪市です。橋下市長は市役所内にある組合事務所の退去を求め、ヤミ給与についても調査を開始するとしています。ヤミ給与については昨年、農水省で問題になったばかりですが、これはとりあえず置いておくとして組合事務所については、労働組合法においても「便宜供与」として認められており一方的な退去は許されないことです。

 橋下市長は市長の引き継ぎにあたって、自分が市長に選ばれたのは「民意」であるから、それに沿った市政を行うことを強調しました。組合事務所の退去は、民意なのでしょうか。彼はとんでもない大きな勘違いをしていると思います。「自分の考え」を「民意」だと思い込む大きな勘違いを。

 労働組合はことさら述べるまでもなく、基本的人権のひとつです。だからこそ、労働組合法という特別の法律によってその活動が保障されているのです。その保障の一つが、組合事務所の貸与です。つまり組合事務所の貸与は、少々乱暴な言い方になりますが、法的にも裏打ちされた「民意」なのです。

 橋下市長は教育問題を持ち出し、言うことを聞かない教師を締め出す手法を取ろうとしています。今回の組合事務所退去も、言うことをきかない労働組合を排除するものにほかなりません。気をつけなければならないのは、自分の気に入らない者を攻撃するのは例を出すまでもなく、ファシストの常とう手段であったという点です。

 行く年の間際に、2つの事件が起きたことは気がかりです。

★脈絡のないきょうの一行
やはり新会派設立。鈴木宗男さんが出てくることは読まなかったなー。
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10674 行く年① 
2011/12/28 [Wed] 11:34:15 » E d i t
 今年は東日本大震災という劇的な出来事とともに、さまざまな動きがあり1年が終わろうとしています。そのあわただしさのなかで昨日、沖縄では普天間基地の辺野古移転に関する「評価書」を、政府は県庁に届けようとしましたが反対住民によって阻止され、きょうの未明に沖縄防衛局によって同評価書(ダンボール箱16個)が県庁内に運び込まれるという動きがありました。

 戦中、沖縄では日本軍による「強制集団自決」が行われたように、軍隊は国民を救うものでないことを証明しました。この事実は「大江・岩波裁判」によって、あの最高裁をして軍が関与していたことを認めたものですが、今回の評価書を自衛隊が強権的に県庁に届けるという現実をみたとき、戦中の日本軍の行為とオーバーラップしてしまいました。やはり、自衛隊も戦前の軍と同じように、県民(国民)の味方ではないのです。

 ところで、昨日の午前10時30分現在の「ヤフーニュース」の主見出しだけを拾ってみました。芸能関係もあるのですが、おもしろい。「武器輸出三原則 緩和を決定」「民主 複数若手議員が離党検討」「橋下市長 労組に庁舎退去要求」「カダフィ氏の『愛人』今は」「習慣定着? マスク市場が拡大」「巨人、大補強も守護神不在」「苦節18年 Hi-Hiに仕事殺到」「大澄賢也、女優と真剣交際」――となっていました。

 そして、本日の午前10時40分現在では「民主、若手9人が離党届を提出」「東通1号機 津波15mも『安全』」「飲酒死亡同乗 運転が嫌で黙認」「北濃縮ウラン 見せかけの譲歩」「シーラカンスのゲノム解読」「ダル、来年1月に離婚成立へ」「大八木GM花道飾る 花園初白星」「小倉優子が妊娠、結婚2か月」――となっていました。

 年中行事の一つである今年の一文字は、『絆』でした。東日本大震災が〝選んだ〟一文字といえます。同じように、年中行事化している出来事が、前出紹介のニュースの中に入っています。お分かりでしょうか。そうです。政党の離合集散です。

 民主党を離党した若手議員らは新しい会派を作るようです。なぜあわただしい年末にこういう動きがあるのでしょうか。ズバリ、政党助成金が背景にあるのです。政党助成金は、毎年12月末における政党の国会議員数に応じて配分される仕組みになっています。したがって、年内にコトをおこさなければ助成金を受け取ることができなくなるのです。それが年末に年中行事化した、〝新政党(会派)づくり〟の真相なのです。

 新会派には消費税問題などの思惑がありそうですが、いろいろ理屈をつけても詰まるところ、カネなのです。政党助成金の受け取りを拒否している日本共産党にはそんな心配はなさそうですが。

 この2日間のニュースで気になったものが、あと二つあります。「武器輸出三原則緩和」と「橋下市長 労組に庁舎退去要求」です。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
年越し派遣村は今年もないが、寒空に放り出された人たちが心配。温かい政治の力を今こそ。

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10673 「第九」三昧② 
2011/12/27 [Tue] 10:25:18 » E d i t
 二つ目の「第九」はこの日の午後、TBSが「1万人の第九」を放送することになっており、上野文化会館への出がけにビデオをセットしておき、帰ってきてからこれを見たことです。夫婦でこのように長時間一緒にいるというのは、旅行以外にはなく久しぶりのことでした。

 番組は大阪の第九演奏と、東日本大震災の被災地・仙台の演奏を同時に行うという試みで、指揮者・佐渡裕(さどゆたか)を中心に描かれていました。佐渡は、被災各地で演奏を続けています。なかでも、子どもたちでつくった「スーパーキッズ」の活躍がすばらしい。子どもたちが生き生きと演奏する様は、心休まるものがありました。

 東日本大震災の被災者が語っていました。「海が真っ黒になって、そのためだろうが空も真っ黒になった……」――その恐怖は痛いほどわかるような気がしました。それに応えようと、佐渡は観客ではなく「海に向かった演奏会」を開きます。バイオリンの音色は、優しく静かに海に響きます。まるで、海に消えた人々への鎮魂歌のように。

 佐渡は、大阪の1万人の「第九」と、仙台の「第九」が合体できないかと考え実行に移します。名取市出身の声楽家・森公美子も仙台の合唱団に入り協力します。森はあの津波にのみこまれ、未だに行方不明の友人が勤めていた名取第一中学校を訪ねます。教室で森は、音楽の素晴らしさを力説します。熱心に聞き入る子どもたちの目は輝いていました。

 大阪は1万人、仙台は200人。佐渡の指揮で始まりました。すごい。遠く離れていても、音に狂いはありません。汗の玉が光る佐渡の顔は、いまにも泣き崩れそうです。クライマックスは、見ている者をクライマックスに追い込みます。最後に振り下ろされた指揮棒は、大阪と仙台、そして聴視者をみごとなまでに一体化させました。

 「音楽のちから」という言葉があります。私はそれを信じます。阪神淡路大震災のときにも、前回報告した日本フィルの仲間たちは楽器を持って被災地を回りました。それは、形に見えないものですが、間違いなく被災者の心を温めてくれました。言葉や物では表しきれない「力」を音楽は持っていると思います。

 年末の「第九」演奏会に出かけることは、わが家の年中行事となっています。ナマの音楽と合唱を聞き、過ぎゆく年を静かに振り返る、平和の中でそんなことがつづくことを願ってやみません。

★脈絡のないきょうの一行
東京電力第一原発事故調査委員会、中間報告で東電と国の原発管理を厳しく批判。当然。

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10672 「第九」三昧① 
2011/12/26 [Mon] 15:22:13 » E d i t
 23日の天皇誕生日は、二つの「第九」を愉しみました。

 まず、労音が主催して上野文化会館で行われた演奏会に、カミさんと出掛けました。事前に満席になった、と聞いていましたがそのとおりで、開演時間になると会場の席は埋め尽くされました。

 私たちが座ったのは、1階のほぼ真ん中の席。昨年は前のほうでしたが、今年はロケーションが非常によろしい。この会場は3階席で聞く音がいい、と言われていますが合唱団員や楽団員の顔の見える場所もいい。

 演奏は日本フィルハーモニー交響楽団。この楽団はかつて、フジテレビを相手に争議をたたかいました。もう25年になるでしょうか。楽団員の大半は卒業し、当時の争議を知っている人は半分近くになったといいます。歴史はそうやって塗り替えられていくのです。それでも当時たたかった、知っている顔がちらほらと登場するとほっとします。

 指揮者は1980年カナダ生まれのケン・シェさん。カナダでピアノや打楽器を学び、日本の学校で指揮課程を修了しています。あまり知られていないようですが、最近、日本各地で演奏活動をつづけ注目をあびているといいます。ソリストはソプラノ・佐竹由美、アルト・杣友恵子、テノール・田中豊輝、バリトン・キュウ・ウォン・ハンの面々。合唱団は「2011東京労音第九合唱団」。

 ご承知のように、この曲は合唱団が登場したあたりから本格化します。歌声とオーケストラのハーモニーはみごとです。一瞬「合唱が楽器に勝っている」と感じました。気のせいだったかもしれませんが、合唱が前に出てきて演奏が後ろにあるように聞こえたのです。この第九は何回もナマで聞いているのですが、こんな印象を持ったのは初めてでした。会場の座った位置も関係しているのかもしれませんが、不思議なことです。

 演奏が終わっても拍手は鳴りやみません。「ブラボー」の掛け声もあちこちから聞こえてきます。なぜかこの瞬間は身体中が熱くなります。この感覚を感じるために、観客は第九を聞きに、いや音楽会に集まるのではないかと思ったりもします。CDやレコードではこの雰囲気を味わうことは決してできません。

 合唱団のなかには元日本テレビのMさん、千代田区役所に勤めているKさんがいますが、客席からやっと同定できました。いつもより輝いて見えます。一つのモノを形づくることのすごさや喜びが伝わってきます。拍手は、なお鳴りやみませんでした。

 会場を後にして、例年のごとく上野の「アメ横」を歩きました。威勢のいい売り子の掛け声を聞きながら、正月用のマグロの刺身を買い込み自宅に急ぎました。そして、家でもう一つの「第九」をみました。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
指導者亡き北朝鮮の動き、少し気になる。目が離せない。
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2011/12/19 [Mon] 11:30:11 » E d i t
 深田久弥の「日本百名山」のなかで、標高の低い方から並べるとこの山は3番目になります。1番は茨城県の筑波山・877㍍、2番は鹿児島県の開聞岳・924㍍、そして3番目が滋賀県のこの山、伊吹山・1377㍍――となっています。深田は百名山を選ぶ基準を2000㍍超としていましたが、歴史のある山は採用することにしたと記しています。その意味ではこの伊吹山は、「歴史のある山」ということになるでしょう。

 この山には2回チャレンジしています。しかも2回とも、四国の石鎚山と剣山に登ったあとと、前回報告の荒島岳に登ったあとの〝立ち寄り登山〟でした。深田がこの山に登った時代は苦労したようですが、今では山頂直下まで(有料道路ですが)車で入ることができます。終点の駐車場から早い人ですと、登り20分、下り10分程度で往復可能です。百名山のなかで、山頂近くまで車で入れる美ヶ原に次いで短時間登山が可能な山です。

 この山に最初に登ったのは、1997年11月24日でした。その前段の22日は四国の剣山に、23日は石鎚山に登り、帰りにこの伊吹山に登りました。剣山の項でも報告しますが、このとき私は高熱を発してしまい、苦しい山行となりましたが伊吹山に着いた頃は熱も下がり、安定して歩くことができました。2回目のチャレンジは、前回報告の2回目の荒島岳登頂から下山した翌日、09年6月14日でした。同行者は四国からの帰りはOさんとMさん、そして2回目はSさんでした。

 もちろん2回とも直下まで車で入りましたので、歩いた時間はさほどではありませんでしたが、11月と6月という二つの季節を楽しむことができました。駐車場から歩き始めると、前方に琵琶湖が臨めます。初回はガスで隠されてしまいましたが、2回目はその湖面を見ることができました。雄大です。反対に琵琶湖からの伊吹山を一度は見てみたいものです。

 緩やかに登っていきます。15分ほどで駐車場とは反対側にある、ロープウェイからの道と合流すればすぐ山頂です。そこには2軒の茶屋が並んでいます。その先に山頂を示す標柱が建っており、その前で登山客が記念撮影の順番待ちをしていました。私たちもそれに従い、写真を撮りおわったら下山です。下山はあっという間で、車にもどって名神高速から東名高速に乗って帰路につきました。

 いまひとつ、印象の薄い登山でしたが「それはそれなりに」ということにしておきたいと思います。

 *徒歩総時間/40分
伊吹山駐車場(10:15)-伊吹山(10:40 11:05)-伊吹山駐車場(11:20)

(参考・2009年6月14日)徒歩総時間/30分
伊吹山駐車場(08:50)-伊吹山(09:10 09:35)-伊吹山駐車場(09:45)

★脈絡のないきょうの一行
おーい、福島第一原発事故の「収束宣言」大丈夫か? 地元の人たちは疑問視しているよ。

2011/12/14 [Wed] 10:42:24 » E d i t
 この山に最初に登ったのは2001年11月23日(2回目は09年6月13日)でしたから、もう10年になります。このときが福井県の山に登った最初でもありました。前夜、おなじみのOさんとMさんの3人で東京をスタート、東名、名神、東海北陸の3つの高速道路を走り抜け、荒島岳の登山口・勝原(かどはら)スキー場に着いたのは予定どおり午前3時。空には星がまたたいていました。

 Oさんの声で仮眠から覚めて、支度を整えます。登山口にはトイレや水道もあり、整備状態は良好です。まずコンクリートの道から始まりそれをしのぐと、第2リフトまでは歩きにくいゴロタ石が散乱しており少々辟易しました。このときリフトはまだありましたが、09年のときはなくなっていました。スキー客が減ったのでしょうか。

 次の目標はシャクナゲ平です。ところがそこに着いてみると、山頂はおろか周辺にもシャクナゲは見当たりません。この場所の名前の由来について(今でも未解決ですが)疑問を抱きつつ、前進です。ここから東側に3つのピークが見えますが、その一番奥が目的の荒島岳です。ガイドブックには「厳しい」と書かれたクサリ場に到着しましたが、整備され階段状になっており歩きやすくなっていました。

 厳しい急登を登り詰めると、北側に白山の全容が目に飛び込んできました。どっしりしたいい山です。「来年はあの山に登ろう」といつしか〝談合〟となっていました(この項、白山の報告のところでも記述)。ここから山頂までは、ゆるやかに登っていきます。

 山頂はさすがに人気の山、昼時と重なったこともあり大勢の登山客で賑わっていました。山頂からの白山は、一段と見栄えがします。1,500メートルの標高とはいえ、11月ですから日陰は寒い。山頂の陽だまりでの食事を済ませて下山です。

 車にもどり、飛騨高山に急ぎました。計画では高山に泊まり翌日、周辺を観光して〝帰りの駄賃〟で初冬の上高地を歩いてみようということにしてあったからです。ところが高山観光はよかったのですが、上高地は沢渡からのバスがすでに運休しており、これはだめだと断念。方針を「富士山見物」に変更しました。

 この変更は正解で、朝霧高原から〝紅富士〟を観ることができました。これはみごとでした。紅富士は絵でしか見たことはなく、文字通りのナマ紅富士でありました。見られるタイミング(時期)があるようですが、おすすめです。この日は本栖湖畔の民宿に投宿し、翌日は5000円札の撮影場所からの富士山を見て、山梨県牧丘町の温泉に入りのんびり帰ってきました。山登りと観光の二つを楽しむ山行となりました。

 *徒歩総時間/6時間05分
勝原スキー場(7:05)-シャクナげ平(9:30 9:50)-荒島岳山頂(11:00 12:00・昼食)-シャクナゲ平(12:45 13:05)-勝原スキー場(14:30)

(参考・2009年6月13日)徒歩総時間/5時間35分
勝原スキー場(7:05)-シャクナゲ平(9:10 9:25)-荒島岳山頂(10:30 10:55)-シャクナゲ平(11:45 12:00)-(途中休憩10分)-勝原スキー場(13:45)

★脈絡のないきょうの一行
読売巨人軍の〝提訴合戦〟が本格化。目くそ鼻くその類だが、根は深そう。

10669 「20㌔圏内」② 
2011/12/13 [Tue] 10:12:45 » E d i t
 昨日の産経新聞ウェブのつづきです。

                         ◇=◇=◇
 大熊町にある双葉病院。まず目に飛び込んできたのは外に無造作に置かれたベッドだった。その数は約30。同行した担当者に聞くと、地震発生と同時に患者が全員ベッドのまま外に避難し、そこから自衛隊の誘導で別の場所に避難したのだという。

 突然襲った巨大地震のショックからか、搬送中に亡くなった人もいたという。外側から病院内を覗くと無数の布団が避難したそのままの状態で敷き詰められていた。患者はどれほどの恐怖を味わったのだろうか。パニックに陥ったのかもしれない。地震発生時の混乱した様子が垣間見えた。

 続いて訪れたのが大熊町内にある老人ホーム。ここは第1原発を望める高台にあるが、やはりホーム内は混乱の爪痕がくっきり残されていた。食器や食物があちこちに散らばり、ベッドも倒れていた。しっかりと時を刻んでいる目覚まし時計が妙に不気味さを感じさせる。わずか数キロ先に見下ろせる原発が人々の生活を奪ったと思うと、複雑な心境にかられた。

 報道陣を乗せたバスは最終目的地の大熊町の中心街に到着した。そこに飛び込んできたのは人間の息づかいが全く聞こえない非日常の世界だった。

 崩れ落ちた民家、中がめちゃくちゃになっている薬店、入り口のドアが壊れている電気店、放置されている自家用車、伸び放題となっている雑草…。こうした異様な光景の中、カラスの鳴き声と「ヒュー、ヒュー」という風の音だけしか聞こえてこない。街のあちこちには誰が置いていったのか、ペットフードがいくつもあった。もちろんそれを食べる犬猫の姿はない。

 約15分間、街を歩いたが、我々が日常暮らしている当たり前の姿が残念ながらここにはない。3月10日まではここでは人々があいさつしながら行き交い、笑い声が聞こえ、時には泣き、人の息吹が街を形作っていたと思うと、胸が締め付けられる思いがした。

 原発と共存共栄してきたにもかかわらず、一瞬にして人々の生活を奪った原発事故。これまでは映像でしか現場の状況を知ることができなかったが、今回、初めて警戒区域に足を踏み入れたことで、1日でも早く町の復興を果たさなければならないと感じた。

 11月に行われた大熊町長選では、現在のままでの町の復興を訴えた現職と町の移転を唱えた新人の一騎打ちとなったが、結果は現職が当選を果たした。町民は今のままでの大熊町の復興を選択したのだ。

 以前、青森市に避難している大熊町の一家を取材した時の母親の言葉を思い出した。「必ず大熊町に帰るんだという気持ちを持ち続けたい。山があって川があって…。やはり故郷は忘れられない」。故郷を思う気持ちを持ち続けることで、不便な避難生活の中にも唯一の心のよりどころとなる。

 11月16日は故郷とは何か、原発とどう向き合えばいいのかを改めて考えさせられると同時に今後、記者生活を続けていく上で一生忘れることができない1日となった。
                         ◇=◇=◇

 望郷の念は人として当然存在するものであり、生きていく上での一種の糧です。その思いを原発事故は粉々にしました。財産だけでなく、心までを壊した東京電力と国の責任は問うても問いきれないほど重いものといえます。

★脈絡のないきょうの一行
消費税増税に民主党内で反発(テレビ朝日系列)。次の選挙を考えれば当然の動きだ。

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10668 「20㌔圏内」① 
2011/12/12 [Mon] 10:43:41 » E d i t
 昨11日で東日本大震災発生から9ヶ月となりました。テレビ取材で語っていた両親を亡くし、妻と子どもふたりがいまだに行方不明という被災者の、「1ヶ月も2ヶ月も、8ヶ月も9ヶ月も同じだ」という気持ちが痛いほど分かります。福島第1原発の「20㌔圏内」の模様について、産経新聞ウェブが以下のような報道をしていました。少し長くなりますので、2回に分けて紹介します。

                         ◇=◇=◇
警戒区域で見た過酷な現実
産経新聞12月11日(日)21時28分配信
【福田徳行のふくしま復興コラム】

 東京電力福島第1原発事故で未だに多くの県民が県内外で避難生活を余儀なくされる中、原発から半径20キロ圏内で全員が避難している警戒区域の過酷な現状を目の当たりにして言葉を失った。

 11月16日。警戒区域に指定されている大熊町で、初めて住民のマイカーによる一時帰宅が実現し、報道陣も取材が認められたため、警戒区域に入った。

 午前8時すぎ、集合場所の広野町中央体育館には住民が続々とマイカーで詰め掛けた。防護服に着替え、車の屋根の部分には一時帰宅の印である赤いリボンが付けられた。帰宅が認められる時間は移動時間も含め5時間。住民たちは先を急ぐように我が家に車を走らせた。それを追うように報道関係者を乗せたバスが検問で警察のチェックを受け、いよいよ警戒区域内に入った。

 途中の道路は段差だらけで、道ばたの雑草が秩序もなく生い茂げっていた。紅葉だけが季節の移り変わりを感じさせる。ほどなく、バスは住宅が点在する場所に到着し、そこから報道陣が各々、取材のため民家を回った。

 歩くこと10分。自宅から思い出の品や生活用品を持ち出す老婆と息子を取材できた。この自宅は第1原発からわずか2キロの地点。黙々と持ち出し準備をする息子は開口一番、東電への怒りをぶちまけた。

 「死ぬまでに悲しみと怒りと憎しみを背負っていかなければならない。東電のやっていることは人の道を外れている。誠意を示してほしい」

 息子は抗議の意味で、持参しなければならない放射線の線量計を持ってこなかったという。「東電からは国の方針で線量計を下げてくれと言われたが、自分たちが起こした事故に対して国の方針というのはおかしい」と声を荒げた。傍らでは母親が黙々と冬物をビニール袋に入れていた。

 「じっちゃん(お爺さん)の冬靴も持って行がねば」

 年老いた体に防護服姿は痛々しく映り、改めて事故の爪痕の大きさを感じさせた。

 一通りの取材を終え、バスは大熊町と双葉町内の視察へと向かった。そこで見たものは想像を絶する世界だった。
                         ◇=◇=◇

 (次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
国会決議があっても辞任しない大臣。国会はやはり軽いモノなのですね。

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2011/12/08 [Thu] 12:58:16 » E d i t
 きょうは、1941年に「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の打電によりハワイオワフ島の真珠湾攻撃が行われ、あの忌まわしい太平洋戦争が始まった70回目の〝記念日〟です。視点を変えれば、きょうは現在の日本のカタチをつくった、記念日なのかもしれません。つまり、長期間にわって特定の外国から事実上の支配を受ける続ける異常状態、すなわち対米従属をつくった記念日なのではないでしょうか。

 このニイタカヤマ(新高山)は、戦前の教科書には「日本一高い山」と記述されていたといいます。何故か。当時日本は台湾を占領し、日本の領土としていました。この台湾で一番高い山が玉山(台湾名・ユイシャン・3,952m)で、その山を占領後、新高山と呼ばせ日本で一番高い山、と称していたのです。名前を変えさせるなど、ひどいですね。

 その〝日本一高い山〟の名前を、戦争開始の暗号に使ったのです。真珠湾攻撃はどのようなものだったのか、少し長いのですが、「Wikipedia」で見てみましょう。

                         ◇=◇=◇
 ハワイは現地時間12月7日日曜日の朝だった。7時10分(日本時間8日午前2時40分)に、アメリカ海軍の駆逐艦DD-139「ワード(ウォード)」がアメリカ領海内において国籍不明の潜水艦を発見し、砲撃によりこれを撃沈した(ワード号事件)。これは日本軍の特殊潜航艇であった。ワード号は直後に「未識別の潜水艦」を撃沈した旨を太平洋艦隊司令部へ打電したが、ハワイ周辺海域では漁船などに対する誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されず、アメリカ軍は奇襲を事前に察知する機会を逸した。

 7時49分、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐が各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を下命した。7時53分、淵田は旗艦赤城に対して「トラ・トラ・トラ」を打電した。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する符丁である。7時55分翔鶴飛行隊長の高橋赫一海軍少佐が指揮する急降下爆撃隊がフォード島への爆撃を開始した。

 7時58分、アメリカ海軍の航空隊が「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と警報を発した。戦艦「アリゾナ」では7時55分頃に空襲警報が発令された。8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800キロ爆弾が四番砲塔側面に命中。次いで8時6分、一番砲塔と二番砲塔間の右舷に爆弾が命中した。8時10分、アリゾナの前部火薬庫は大爆発を起こし、艦は1,177名の将兵と共に大破沈没した。戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中した。オクラホマは転覆沈没し将兵415名が死亡または行方不明となった。
                         ◇=◇=◇

 午前7時10分から8時10分頃まで、1時間余にわたって攻撃が繰り返され、上記には記されていませんが、さらに8時54分から第2波攻撃が展開されています。この攻撃が行われる以前から、満州国をアメリカが承認することや、日米通商関係の正常化などについて「日米交渉」が重ねられていましたが、この日のハワイ時間午前8時50分に日本側は、日米交渉打ち切りの最後通牒(事実上の宣戦布告)を手交し、戦争へと突入していったのです。時間的には第2波攻撃の直前でした。

 日米交渉の最中に真珠湾攻撃が行われたという経緯が、単に世界戦略ばかりでなく、アメリカが現在にいたっても日本を〝占領下〟に置いたままの状態を続ける理由の一つなのではないか、と考えるのは私だけでしょうか。12.8を期に、歴史を少し振り返ってみました。

★脈絡のないきょうの一行
「東電 実質国有化へ」(毎日新聞)――1兆円規模の税金をつぎ込むことが前提のようだが……。
2011/12/07 [Wed] 12:48:19 » E d i t
 3日夜の読売新聞ウェブで、気になる記事を見つけました。野田首相が、ある会合で語ったというその内容です。これは危ない。以下。

                         ◇=◇=◇
TPP・消費税・安保…首相「捨て石になる」
読売新聞12月3日(土)20時5分配信

 野田首相は3日夕、都内のホテルで開かれた中小企業経営者の会合に出席し、消費税率引き上げを含む社会保障・税一体改革の取りまとめや、環太平洋経済連携協定(TPP)交渉参加に向けた協議などについて、「不退転の覚悟でしっかりやる」と述べた。

 出席者が明らかにした。

 会合は非公開で行われ、首相は15分間のあいさつを行った。出席者によると、首相は当面の政策課題として、消費税率引き上げ、TPP交渉参加、安全保障の三つを挙げ、「自分の代で、捨て石になってけりをつける」などと語った。
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 この発言は、4日の毎日新聞朝刊にも、ベタ記事でしたが載っていました。3つの課題について、断固やりぬく、ということを明言したわけです。非公開の席とはいえその内容は重要な意味を持ちます。実際に直後の5日には、「社会保障改革本部」(野田佳彦首相本部長)の初会合で、首相は消費税10%の素案づくりを指示しました。有言実行ということでしょう。

 この発言でおかしな部分が一つあります。TPP問題です。この問題の現時点の到達状況は、「参加するかどうかの協議に入る」段階であり、まだ入口です。「不退転の覚悟でやる」というのは、一般的には参加することが決まったあとの対応時の表現であり、少し変です。

 この発言はもしかしたら野田さんの認識は、TPPは協議中ではなく「参加することが決定した」というところにあるのでは、と疑わざるをえません。それとも、協議を不退転の覚悟でやるということなのでしょうか。だとしたら、日本語の使い方が少しく間違っているのではないかと指摘せざるをえません。

 それにつけても、これらの諸問題について「やる気」は事実のようで、反対勢力のさらなる運動強化が求められているといえます。

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昨日、JAL不当解雇撤回闘争支援集会に700人。理不尽を許さないたたかいの輪は広がる。
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10665 宿場まち散策③ 
2011/12/06 [Tue] 10:34:57 » E d i t
 宿場まち歩き、2日目。

 朝食を済ませ泊まり賃を支払い、荷物を車の中に仕舞い込んで、まず「藤村記念館」を訪ねました。ここは、島崎藤村の生誕地でもあります。当時の家屋は火事で焼けてしまったそうですが、一部は残っていました。

 島崎藤村は、信州の人というイメージが強いのですが、この馬籠宿は岐阜県であり、どちらかというと〝飛騨の人〟ということになりそうです。何故、馬籠宿は岐阜県なのでしょうか。その訳がわかりました。もともとこの馬籠は、明治の廃藩置県のとき(1871年)「筑摩県(ちくまけん)」に属していました。筑摩県というのは、飛騨国と信濃国中部、南部を管轄するために設置された県だったのです。現在の長野県中信地方・南信地方、岐阜県飛騨にあたります。

 ところが、1876年にこの筑摩県は廃止となり、信濃国が長野県に、飛騨国が岐阜県にそれぞれ編入されたのです。そのとき、もともとは信濃国に属していた馬籠宿でしたが、飛騨に近かったために、岐阜県に入ることになったようです。そのため現在は岐阜県中津川市に属しているのです。

 島崎藤村は1872年3月25日(明治5年2月17日)、筑摩県第八大区五小区馬籠村で生まれています。前述のように馬籠村は長野県を経て、現在の中津川市に編入されたため、藤村は「信州の出身」ということになります。ちょい、ややこしいですね。

 話しは横道にそれますが、「筑摩県」といえば、出版社の筑摩書房を連想します。実はこの出版社、筑摩県にちなんでいるのです。この会社を興したのは古田晁でしたが、古田は長野県東筑摩郡筑摩地村(現在は塩尻市に編入)の出身だったのです。その名前を企業に冠したわけです。そういえば、小ブログで紹介しました作家・上林曉の全集はこの筑摩書房から出版されています。

 藤村は「ロマン主義詩人」「自然主義作家」といわれています。詩では『初恋』があまりにも有名です。私は4連目の「林檎畠の樹の下に/おのづからなる細道は/誰が踏みそめしかたみとぞ/問ひたまふこそこいしけれ」が好きです。恋しい人に会うために、何度も通うことによってリンゴ畑に出来た細道が、目に浮かぶようです。

 作家としての藤村は『破壊』や『夜明け前』の大作も書いています。『夜明け前』は自分の父親がモデルだといいます。そういえば、前夜、旅館で木曽節の踊りを教えてもらったとき「木曽節の歌詞に『なんじゃらほい』という部分が出てくるが、これは『なんちゃらほい』という言い方が正しい」といわれましたが、確かに、『夜明け前』にはそのとおり記述してあります。

 藤村記念館には、直筆の原稿も展示してありました。綺麗で丁寧な文字です。性格が表れているのかもしれません。藤村は詩人・作家としての一方で、1935年(昭和10年)に日本ペンクラブを結成して初代会長に就任しており、活動家でもあったのです。藤村のそんな一面を垣間見つつ、ちょっとした安堵感をもらって記念館をあとにしました。藤村は1943年(昭和18年8月22日)に、神奈川県・大磯町の自宅で執筆中に倒れ没しています。71歳でした。

 馬籠宿でもう一つの発見をしました。坂道の側溝を流れる水を利用して、水車発電が行われていたのです。これはすごい。古いまち並みと、水車と、発電というおよそ似つかわしくないものがコラボしていることに驚きながら、2日間の「宿場まち歩き」に終止符をうちました。

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野田首相、消費税10%の素案づくりを指示。対決軸が鮮明に。国民は負けない。

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10664 宿場まち散策② 
2011/12/02 [Fri] 13:17:17 » E d i t
 奈良井宿から1時間半ほどで妻籠宿に到着しました。ここは08年7月、恵那山に登ったあと、御嶽山のふもとに向う途中に、すぐ傍の国道を通過しています。車で走ったことのある道ですが、歩くのは初めてです。

 まち並みは奈良井宿より少し小さめでしょうか。時間が遅くなったせいもあるかもしれませんが、通りは観光客でいっぱいです。多くの人たちが宿場まちに関心を寄せているということでしょう。ここには郵便資料館があります。明治時代の郵便事業の様子がよく分かります。郵便配達はクマとの遭遇などもあり、命がけの仕事だったようです。

 妻籠宿から昔の人が歩くのがたいへんだったという妻籠峠を越えて、馬籠宿に入りました。途中に「間宿」と呼ばれる大妻籠宿があります。ここは小さな集落ですが、現在では民宿があるそうです。馬籠宿では、宿場の中ほどの「但馬屋」という旅館に〝わらじ〟をぬぎました。旅館といっても、民宿の規模を少し大きくしたもので、気遣いなど不要でのんびり過ごすことができました。

 旅館に着いたら早速荷物を置いて、宿場まちの見学です。このまち、面白いことに坂道に出来ています。ちょうど日没の時刻で、坂の上に向って歩きました。せんべい屋さんや、和菓子屋さんが並んでいます。蕎麦屋さんもあれば甘味所もあります。それらの家並みは昔ながらのままで、電燈がなければ、時代が戻ったような錯覚を起こしそうです。

 日没前の太陽が、まち並みを照らしています。その金色(こんじき)の輝きは、江戸時代から変わらぬもので、京都から江戸に嫁入りしたあの和宮も見たかもしれません。坂道の途中に「藤村記念館」があります。ここは時間が過ぎたため閉まっており、翌日、見ることにしてさらに上がります。

 県道に出たところに、「馬籠宿」の標柱が立っておりそれには「江戸江八十里半  京江五十二里半」と記されていました。合計で133里となります。当時の人々は1日10里(約40キロ)を歩いたといいますから、東京から京都まで、13日から14日かかったことになります。すごいですね。健康でなければ旅はできなかったことでしょう。

 宿場の大通りは、観光客で賑わっていました。日没の時間ですから、多くの人たちはここに泊まったのではないでしょうか。私たちが泊まった旅館の夕食時の食堂は〝満室〟でした。若いカップル、イギリスから来たというカップル、中山道を歩いているグループなど国際色豊かではありました。

 夕食後、旅館のご主人が宿泊客に「木曽節」の踊りを教えてくれました。覚えるのはたいへんでしたが、何とか「修了書」をいただくことができました。ご主人の木曽節の歌は上手でした。(次回につづく)

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野党各党、一川保夫防衛相に対する問責決議案を参院に提出する方針。当然だね。
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10663 宿場まち散策① 
2011/12/01 [Thu] 12:32:20 » E d i t
 今年も師走がやってきました。元気に過ごせることに謝謝しつつ、1年最後の1ヶ月を気持ちよく締めくくりたいものです。

 先々週の土、日にカミさんと二人で宿場まち散策をしてきました。行ったのは中山道の奈良井(ならい)宿、妻籠(つまご)宿、馬籠(まごめ)宿の3ヶ所。奈良井宿と妻籠宿は長野県に、馬籠宿は岐阜県に属します。島崎藤村は馬籠宿の生まれです。したがって、イメージ的には馬籠宿も長野県にあると思いがちですが、これには歴史的経過があり、そのことは後ほど触れることにします。泊まったのは馬籠宿の築100年を超えるという、「但馬屋」。マイカー旅行となり、2日間の走行距離は650キロに達しました。

 奈良井宿に入る前に、カミさんが行ったことがないというので、高速道路を途中下車して諏訪大社・秋宮におまいり。本殿を囲んで角に立てられた御柱(おんばしら)4本が天を突いていました。この御柱、立派です。早朝だったことから観光客は少なく、静かな境内を歩きました。

 諏訪大社からは国道20号(甲州街道)を下り、塩尻で19号(中山道)に乗り換えて奈良井宿に向います。塩尻のまち並みを過ぎると、国道は山間部を走ります。1時間足らずで奈良井宿に到着。江戸時代は日本橋からここまで7日間かかったといいますから、6時間余で来てしまう現代文明の車のすごさを実感します。

 奈良井大橋のたもとにある駐車場に車を置いて、JR中央線の下をくぐり、奈良井駅に少し戻った場所から宿場まちを歩きました。古い家並みがそのまま残っており、風情豊かです。造り酒屋の軒下には、昨年のものでしょうか杉玉が茶色になってぶら下がっていました。そこには「日本でおひさまに一番近い(標高953メートル)蔵元」と書いてあり、アピールに余念がありません。

 まちの中ほどに「大宝寺」というお寺があります。ここは臨済宗すなわち仏教なのですが、マリヤ地蔵尊(石像)があります。マリヤと呼ばれるのは、胸の部分に十字架が彫り込まれているからです。しかし、その像には頭部がありません。キリシタン禁制の江戸時代に、この木曽地方にもキリシタンがいて、それを弾圧する意図で頭部を壊したのかもしれません。その石像は子どもを抱えていますが、その子の頭の部分も破壊されています。どこか、悲しさが漂っていました。

 まちはずれの蕎麦屋で昼食にしました。地元の蕎麦で作ったそれは、歯ごたえがあり美味しくいただきました。昼食を済ませて奈良井宿をあとにしましたが、まち中の黒の格子戸に某宗教を母体とする政党の委員長の顔が大写しされたポスター(東京でも見かけます)が貼ってあるのに、興ざめを禁じ得ませんでした。言論・表現の自由と言えばそれまでですが、産まれて間もない赤ちゃんが寝ている傍で、街宣車が高音量でがなり立てているような錯覚を覚えました。(次回につづく)

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電力総連(連合系)が、民主党議員に「脱原発は困る」と陳情。こりゃもう、経営者だね。
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