ヘボやんの独り言
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2011/10/31 [Mon] 12:17:44 » E d i t
 この光(てかり)岳で南アルプス関係の100名山報告が完了となります。あと2回ほどおつきあいください。

 この山に登ったのは2004年8月15日から17日にかけてです。山の深さは知る人ぞ知る、登山口まで車で1日はみておかなくてはなりません。この年は早い時期から台風がやってきて、全国的に被害をもたらしていました。新潟、福井、徳島、香川が一番大きく、犠牲者も出ていました。台風であることから当然、山に登る人にとっても気象情報は重要です。北アルプスにも行ってみようかと思っていましたが、盆休みを利用して「南」を選ぶことにして、この長丁場となる光岳を選びました。その延長で聖岳も登ろうと考えていたのですが、これは強風で断念せざるを得ませんでした。

 前日、長野県南部にあたる上村(かみむら)の便ヶ島(たよりがしま)まで入って、キャンプ場でテントを張って夜明かしし、15日早朝出発しました。同行は聖岳のリベンジを果した前回報告のSさんです。便ヶ島までのダートな道は厳しかった。

 山特有の激しい雨が降り出し、最初から雨具を着けることになりました。先行きが不安ですが、暗闇の中、ヘッドランプを頼りにまず30分ほど歩いた取りつき点の易老渡(いろうど)から、樹林帯に入ります。時間は4時半を過ぎており、明るくなるはずですが樹林の中は暗い。加えて、いきなりの急登です。背負ったザックは、3日分の荷物が入っており当然負荷がかかります。雨にもたたかれて苦しくなりますが、歯を食いしばります。Sさんもあとで述懐していましたが、「いつ撤退しようか」と考えがよぎったくらいです。雨足が弱まるとほっとします。

 身を震わせる思いでやっと、第一関門の易老岳(いろうだけ)に到着。展望のない山頂ですが、気分的には一段落です。なぜなら、光(てかり)小屋で食事を作ってもらうには午後3時までに到着しなければならず、その目安がついたからです。長休憩をとって改めて気を入れなおして前進です。

 が、ほっとしたのも束の間で易老岳から先はぐんぐん下っていきます。まだか、と、思うくらい下って今度はゴロタ石の沢筋を登り返すことになりました。午後のこの時間になると雨も上がり、楽にはなったものの身体はイヤイヤしています。突然、トリカブトの群落が現れびっくり、これはもう「畑」そのものです。

 やっとの思いで平坦なところに出たところに、水場が出現しました。小屋からの水場往復は遠すぎることが分かっていましたので、ここでたっぷり補給して前進です。小高い丘から待望の小屋が見え、やれやれです。湿原状の木道を歩いて無事に小屋に到着、宿泊の手続きを済ませたら光岳山頂へ再出発です。小屋から15分ほどで山頂に到着。大きな標柱が樹木に囲まれる形で立っていました。したがって展望はありませんが、厳しい道のりを考えると感慨もひとしおです。写真を撮りピークの少し先の展望台まで足を伸ばしてみると、眼下に光岳の名前の由来となった光岩が白く輝いていました。

 小屋に戻って一休みし、夕食の時間になってびっくりです。なんと、いつもお世話になっている東京法律事務所のK弁護士がいるではありませんか。お互いに「おー」と叫んでしまいました。同弁護士も百名山踏破をめざしており、ついこの前、酒を飲みながら残りが少ないことを聞いたばかりでした。話しに花が咲いたことはいうまでもありません。

 彼は百名山をあと2山残すところまで詰めているといいます。残りは利尻山と富士山で富士は最後にとっておき、利尻は今月末にチャレンジの予定でカウントダウン状態です。が、3、4年前は私の方が先行していたのですが、いつのまにか追い越されてしまっていました。若い人には勝てないなー、とつくづく思ったものです。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
政府の介入で少しもどしたが、記録を更新しつづける円高。投機筋との戦いはまだつづく。
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2011/10/28 [Fri] 10:56:12 » E d i t
 聖岳からの下山はいつものようにSさんを先に歩かせました。ところがこれが早い。ガレ場のジグザグ道をまるで駆けるように下っていきます。ついて行くのがやっとです。小聖岳で一休みしましたが、ここは前年の8月、光(てかり)岳に登ったあと、聖平小屋に泊まり翌日、聖岳をめざしてここまでは来たものの、雨と強風で撤退した場所でもあります。そこから聖平小屋に急ぎ、目標時間の11時より10分早く到着しました。

 小屋で水を補給し、小屋番に下山道の状況などを聞きながら、改めて歩き出します。地図のコースタイムは4時間20分となっています。これなら何とか目標の時間に登山口に着くだろう、と、考えていました。ところが、です。下山といえども、登り返す場所が次々と出現するではありませんか。これは精神衛生上良くない。

 かなり長時間下ってきたにもかかわらず、改めて登るのですから気分的にはマイナーになります。救われたのは所々に、沢から流れてくる冷たい水があったことでした。トラバース道や下りは当然のようにスピードが出ます。地図で見て最後の下りにさしかかったとき、「椹島まで1時間10分」の標柱が立っており、目安が分かりやっと安心です。椹島までの送迎バスの時間に間に合ったのはいうまでもありません。それでもこの日は、11時間55分という長時間行動となりました。

 ロッジで夕食を済ませて薄暗くなった頃、ピークハンターの4人組みがロッジにやってきました。われわれと同じコースを歩いたものの車道に近づいたところで、女性が足を滑らせ捻挫してしまい遅れたといいます。それにしても元気な人たちでありました。

 しかし、それより驚いたのは翌日の朝です。山中で一緒だったテントを背負ったあの女性が、椹島ロッジのテント場で悠然と食事をしていたのです。前夜の彼女の話しではてっきり聖平小屋泊りだろうと思っていただけに、ただただ脱帽です。世の中、強い人がいるものです。

 この山行で「百名山」のなかの南アルプス関係は完全踏破を果たしました。残りは北海道の幌尻岳、北アルプスの水晶岳と奥穂高岳の3座となったのです。これらは来年の楽しみに残しておくことにしよう、そんなことを考えながら帰路につきました。。

*徒歩総時間/第1日目・5時間45分、第2日目・9時間15分、第3日目・10時間25分
 9月1日/椹島(10:25)-(途中休憩30分)-千枚小屋(16:40)泊
 9月2日/千枚小屋(4:10)-千枚岳(4:55 5:20)-悪沢岳(6:45 7:00)-中岳避難小屋(朝食8:05 8:35)-荒川小屋(9:40 9:50)-(途中休憩30分)-赤石岳(12:55 13:25)-百間洞山の家(15:45)泊
 9月3日/百間洞山の家(3:30)-中盛丸山(4:55 5:05)-兎岳(6:40 6:50)-(途中休憩・10分×2)-聖岳(9:15 9:25)-聖平小屋(10:50 11:10)-(途中休憩10分×2)-聖岳登山口(15:25)-送迎バス-椹島(泊)

★脈絡のないきょうの一行
深刻なタイの洪水。原因は熱帯雨林の伐採だという指摘。天にツバした人間への大自然の怒りだ。

2011/10/27 [Thu] 12:10:29 » E d i t
 この日の宿泊地、百間洞山の家に近づいたら、前述の女性がテントを張っているところで、小屋の中にはあの名古屋から来たらしい4人組みがいるだけでした。夕食時、数えてみるとこの日の小屋の泊り客は椹島から歩いてきた(テントの女性を除いて)6人だけでした。

 5時半過ぎだったでしょうか、突然スコールのような雨が降り出しおまけに雷も響きはじめ、山の家の横を流れるせせらぎは、あっという間に濁ってしまいました。テント場にいる女性を心配していたら高校生らしき集団10人ほどが、聖岳方面から下りてきました。そのグループはテントを張りはじめましたが、激しい雨のために断念し、山の家に戻ってきてここに素泊りすることになりました。

 聞いてみると、今朝、聖平を出発したといい、教師らしき人が一人ついていたものの、疲れたのでしょう、メンバーの中の女の子はベソをかいています。若いとはいえ聖平からテントを背負って歩くということは、やはりたいへんなことなのです。私たちのこの日の行動時間は、11時間25分となっていました。

 第3日目・9月3日。

 きょうの宿泊地は椹島ロッジ、と定めます。ロッジまではかなりの距離があり、そのためには聖岳の山頂を踏んで、聖平を経て午後3時45分までに聖岳登山口に到着しないと最終の送迎バスに間に合いません。遅れると、罰ゲームではありませんがロッジまで1時間余分に歩くことになります。そのため普段より早めの3時半に山の家を出発しました。前夜の雨は完全に上がり、星空が広がっていました。その中を前日の朝同様に、ヘッドランプを頼りに大沢岳を外して中盛丸山(なかもりまるやま)へ向かいます。

 中盛丸山の取りつき点あたりで明るくなり始め、この山を越えていったん下り、さらに子兎岳(うさぎだけ)に登って再度下り、もう一つの大物・兎岳(2,818M)の山頂に立ちました。ここからまたしてもイヤというほど兎岳と聖岳のコルまで下ることになります。縦走する者の宿命であることは覚悟していましたが、少々嫌気がさしてきたのは事実です。が、前に進むしかありません。

 「足を前に出せば目的地に着く」と自分に言い聞かせながら、コルからの登りはただひたすら足を前に出します。苦しさに加えて荷物が重すぎたのか、肩が痛くなりはじめました。その痛さともたたかいながら、聖岳の山頂方向に人影が見えたときはさすがに安堵したものです。

9時15分、聖岳到着、百間洞山の家から5時間45分かかったものの想定内時間でもありました。山頂には聖平方面から来たのでしょう、ツアー客らしき10数人が遊んでいました。この時間になると周辺はガスに消されて何も見えません。ツアー客も「晴れてくれないか」と願い事をしていますが届きそうになく、われわれは次の行動を急がねばならず、山頂の記念写真を撮って下山開始です。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
福島原発の廃炉に30年以上、と、内閣府原子力委員会。それでも原発維持なのかなー?
2011/10/26 [Wed] 17:54:43 » E d i t
 この山岳遭難は、メディアでも大きく取り上げられた一つです。遭難したのは「昭和山岳会」のメンバーでした。会はこの年に冬季訓練として、4つのパーティに分かれて南アルプスにチャレンジしていました。それぞれ違うコースを歩いていましたが、そのうちの1パーティが荒川小屋から前岳の途中で雪崩に巻き込まれたようです。

 「ようです」というのは生存者が一人もいなかったことから、詳細が分かっていないからです。しかし、捜索中に登山者が書いたメモがみつかり、いくつかの点が明らかになっています。それらを会が整理したものが概略、以下のようになものです。

 このパーティは、私たちが歩いたコースとは逆方向をたどっていました。聖岳から赤石岳、悪沢岳を経て二軒小屋から椹島に出る予定でした(山行計画書より)。ところが、12月31日に荒川小屋を出て、前岳のコルに荷物をデポし一旦、小屋に戻る途中で雪崩に巻き込まれたのです。コルには荷主が取りに来ない荷物が置いてあったといいます。

 私たちはその雪崩の現場を通り抜けたことになります。この事件を知ったのは最近のことですが、こういう遭難があったことを記憶にとどめておきたいものです。荒川小屋で一休みし、気合を入れなおします。小屋から間もなく大聖寺平に出ましたが、ここは西側の広河原小屋との分岐にあたり、風の通り道にもなっているらしく、涼しくて気持ちいい。

 ここから小赤石岳までがなかなか手強いものとなりました。休憩をはさみながら前進しますが、他のパーティに次々と追い越されていきます。千枚小屋を出たのは一番早かったはずですが、どうやら最後になったようです。驚いたのは、千枚小屋でも見かけたテントを背負った30代前半と思われる女性が一人で歩いていたことです。かなり山歩きは慣れているらしく、足の運び方もしっかりしており、歩き方は原則的できれいです。

 一瞬、ついこの間、中国のムスターグアタ(7,546M)に登って来た、H女史を彷彿とさせました。また、(しゃべり方で想像できたが)名古屋からきたらしい男3人、女1人の60代とおぼしき4人組みも元気です。下山後、聞いたのですが全ての山の山頂を踏むことを目的としている「ピークハンターだ」と自認していました。

 赤石岳の山頂には朱書きの標柱が立っていました。「赤」にちなんだのでしょうが、率直に言って違和感を持ったものです。勝手な解釈ですが、山頂を示す文字は黒の方が何やら落ち着きます。山頂直下には赤石避難小屋が、小ぢんまりと建っていました。

 山頂で写真を撮ったら、きょうの宿泊地・百間洞(ひゃっけんぼら)山の家に急ぎます。赤石岳を巻くようにガレ場の道を下ります。草木のない岩場は小1時間続き、それはまた、この山がいかに厳しいかを無言のうちに物語っていました(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
いよいよTPP剣ヶ峰。眠れる獅子・JA全中が反対運動に動き出す。さあどうする野田内閣。

2011/10/25 [Tue] 11:29:11 » E d i t
 千枚岳山頂から一旦下って、丸山に登り返します。この丸山で初めて悪沢岳のピークを目にすることができました。山の深さを実感させてくれます。さらに前進し、千枚小屋から歩き始めて2時間半で悪沢岳のピークに到着です。

 山頂の標柱には『荒川東岳』と書いてあります。ところが「日本百名山」を記した深田久弥はこの山のネーミングについて、「私たち古い登山家にとっては、どうあっても悪沢岳であらねばならぬ。悪沢という名はそれほど深く私たちの頭に刻みつけられている」「読者にお願いしたいのは、どうかこれを東岳と呼ばず、悪沢岳という名で呼んでいただきたい」とその著書の中で強調しています。

 この山の頂きに立ってはじめて、深田の気持ちが分かったような気がしました。東岳、中岳、前岳の三つのピークを指して「荒川三山」と呼んでいますが、深田の言うように「しかし荒川岳の続きと見るにはあまりにこの山は立派すぎる。南アルプスでは屈指の存在である」ということに同感だからです。同時に、磊磊(らいらい)としたピーク周辺の様相はワルガキを連想するに余りあり、私も「悪沢岳」と呼ぶことにしています。

 日本共産党の不破哲三元委員長は、「私の南アルプス」の冊子の中で風雨をついて悪沢岳に登った挙句、いい天気になったことを喜びながら「悪沢岳とは、いったん聞いたら忘れられない名前である。どこの峰からだったか、最初に『あれが悪沢だ』と教えられたときには、その語感から、南の奥のまた奥といった気持ちで眺めたものだった」と述懐していますが、深田久弥と共通するものがありそうです。

 あまり山頂でのんびりしてはいられません。この後に赤石岳が控えているからです。悪沢岳からまたしても鞍部に下り一気に中岳避難小屋まで進み、その前の広場で前夜つくってもらった弁当を開いて朝食としました。弁当の包みの中から、いなり寿司が出現。これは珍しい。「弁当で一番良かったのは、鹿島槍ヶ岳キレット小屋のうなぎ弁当で、これが二番目だね」とSさんとの会話がはずんでいました。

 朝食が終われば前進です。前岳ピークの手前に荒川小屋に下る道があります。たいした距離ではないので、前岳にも寄ってみようかとも思ったのですが先を急ぐことにし、急な下りに取りつきました。小屋の手前で冷たい水が流れており、疲れた身体にこれは救われました。3,000㍍の中岳から2,600㍍の荒川小屋まで下って、さらに3,100㍍の赤石岳に登り返すことになります。何やら無茶苦茶損をした気分ですが、縦走にはつきものです。

 ところで、このあたりで1964年12月31日に登山者が雪崩に巻き込まれ、パーティ全員の5名が死亡するという悲惨な山岳事故が起きています。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
都市対抗野球で、32年ぶり2人目の完全試合。JR東日本東北の森内寿春(もりうちとしはる)投手。すごいぞ!
2011/10/24 [Mon] 14:19:11 » E d i t
 百名山3山の一気登山の報告です。この3山に登ったのは2005年9月1日からでしたが、実はこの年、同じように『一気3山登頂』は3度目でした。1度目は7月に北海道の羅臼岳・斜里岳・トムラウシ岳、2度目は8月に黒部五郎岳・鷲羽岳・笠ヶ岳でした(それぞれの詳細は小ブログ参照)。3度目のこれも、格闘技と思えるほどの厳しいものでした。

 第1日目、9月1日。

 本来なら前日に椹島(さわらじま)ロッジに入る予定でしたが、渋滞に巻き込まれ畑薙(はたなぎ)湖からの最終バスに間に合わず、そこの駐車場に〝野営〟。翌朝一番のバスに乗り終点の椹島まで行き、ここからスタートです。同行はいつものSさん。Sさんとは北海道と北アルプスの3山も一緒でしたので、気心は知れています。

 バスは補助椅子を使うほど込み合っていました。しかし、椹島からは私たちと同様に千枚小屋に向うグループと、赤石小屋をめざすグループの二方向に別れます。ここから小屋まで標高差は1600㍍ほどあり、決して軽くはありません。

 途中の水場の冷えた水の美味しかったこと。水に励まされるように前進です。小屋の青い屋根が見えるとほっとします。休憩時間30分を入れて椹島から千枚小屋まで、6時間15分のタイムはまあまあです。小屋周辺はお花畑になっていますが、最盛期は過ぎておりトリカブトの紫色が目立っていました。泊り客は赤石岳方面へ流れたのでしょうかバスが込んでいた割には、20人足らずでのんびり過ごすことができました。

 2日目、9月2日。

 午前4時前に起きて支度を整え、4時10分にスタートです。朝食は弁当を作ってもらいました。ヘッドランプを頼りに最初のピーク、千枚岳をめざします。小屋からは一登りです。山頂でまず目についたのは富士山でした。雲海の上にポツンと立っているその様は、周辺に何もないがゆえに孤独さを感じてしまいます。これまで見てきた富士山は、必ず周辺に低い山々を従えていました。ところがここからの富士山は、みごとなまでに孤高を保っています。それを見ていると富士山の新たな面を発見したような気分です。

 千枚岳山頂から、これからアタックする山々が眼前に広がります。赤石岳、聖岳が悠然と構えています。振り返れば、塩見岳の丸みを持った大きな塊があり、その後方に摩利支天を横抱きにした甲斐駒ケ岳、その左側に仙丈ケ岳がしっかり同定できます。さらに北岳と間ノ岳を結ぶ吊り尾根が光っています。これを絶景と言わずして、何というのでしょうか。南アルプスの中枢部にやってきたという実感を強めさせてくれます。

 時間が経つに連れて、周辺の空が茜色に輝きはじめ、まぶしい太陽が姿を見せました。いい天気になるのはありがたいのですが、暑さとのたたかいもそこから始まります。太陽を背にして、まずきょうの目標の一つである、悪沢岳(わるさわだけ)をめざします。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
人勧無視の政府・民主党。人事院の解体が目標だろうが、露骨にも程度があるぞ。

2011/10/21 [Fri] 12:29:42 » E d i t
 災害問題の全国集会に先立つ前日の7日、4月に調査した被災地を再訪しました。復旧・復興がどの程度進んでいるのかを見るためです。石巻市から亘理(わたり)町まで、ほぼ前回と同じコースを車で走りました。いくつかのポイントで『定点観測』をして写真も撮ってきました。

 この写真、一部を千代田区労協の機関紙に報告・掲載しましたが、11月22日から30日まで開かれる「第19回千代田みんなの写真展」(千代田区一番町・いきいきプラザ一番町1階ギャラリー)にも出品する予定です。ぜひ足をお運びください。

 定点観測の結果は、「復旧はすすんでいない」ということになります。4月に調査したときの瓦礫や破損したままの車などはかなり撤去されました。しかし空き地が広がっているだけです。阪神淡路大震災のとき、ちょうど1年後に被災地調査をしたことがありますが、そのときと全く同じ状態でした。石巻では、2階建ての家で洗濯物が干してあり、住んでいる人もいましたが川よりの家屋は1階部分が津波で破損したままで住める状態ではありまぜん。道路に打ち上げられたボートが置いたままになっていました。

 驚いたのは名取市の閖上(ゆりあげ)地区です。住宅地であったと思われるところが、土台だけ残してきれいに片づけられていました。震災直後の写真にはまだ家屋が残っていましたが、それらが全て、文字通り全てなくなっていました。広大な土地に建っていた家屋が、一瞬のうちに津波に流されたのです。そのエネルギーのすごさに、改めて驚きました。

 この地域に日和山という小高い場所があります。震災直後には津波で流された家屋がここに〝打ち上げられて〟いました。それらは全て撤去され、塔婆が2本立っているだけでした。2本ということは、恐らくこの場所で2人の遺体が発見されたのではないでしょうか。静かに手を合わせてその場を辞しました。

 亘理町では、前回調査のときと同じ地点を探しましたが、どうしても見つかりませんでした。4月に撮影した写真と見比べても、対象となる建物がなくなっていたからです。同じ場所を2往復しましたが、断念せざるを得ませんでした。その足で港まで進んでみました。船の発着はできるところまで回復していますが、周辺の建物は閖上と同じように〝広大な土地〟化していました。

 被災地の多くは、建築制限がかかっており自分の土地であっても、家を建てることはできません。それが住宅建設を遅らせている一因にもなっており、少なくない自治体から「制限を外してほしい」という声で出ているといいます。その思いは理解できますが、1000年に一度とはいえ、同規模の地震が起きる可能性もあり、判断は難しいところです。

 いま大事なことは、海沿いのまちを高台に移すという構想がありますが、それらも含めてまちづくり計画、とりわけ災害に強いまちづくりをどう具体化するのかという政策を急ぐことではないでしょうか。その計画づくりの際に大事なことは、被災住民を中心に置くことです。

 大企業やゼネコンに委ねた復興ではなく、被災住民中心、地元企業優先の計画にしていくために、国民的な被災者支援の取り組みは大事なのではないでしょうか。

★脈絡のないきょうの一行
嘉手納爆音差し止め第三次訴訟に、空前の原告・22,058人。静かな空を返せ!
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2011/10/20 [Thu] 11:03:00 » E d i t
 全国集会は、2日目のお昼まで分科会となりました。参加者が多かったこともあり10の会場に分かれて行われました。内容は①被災者の生活再建をめざして②生産者・利用者本位の第一次産業(漁業・農業・林業)の再生を③子ども、地域に寄り添った教育の復興を④防災に強く住民に安心な自治体の再生を⑤液状化災害からの救済と住宅・地盤の強化をどうはかる⑥放射能汚染からくらしと健康を守る⑦放射能被害の全面賠償を勝ち取る⑧被災地での安心・安全な雇用の実現を⑨被災地で地域住民が安心できる医療・介護・保育の拡充をめざす⑩被災地の地域経済の復興と中小零細企業支援を――の10分科会です。

 それぞれが切実な問題ばかりです。私は①の生活再建問題の分科会に参加しました。阪神・淡路大震災が起きるまではなかった個人補償が、現在では住宅再建に300万円までの補償が可能になっています。それまでの国の対応は「自然災害には補償しない」というものでした。しかし、被災者を中心とした運動によってこれを少しずつ是正させ、いまでは300万円まで確保できるところとなっています。

 しかし、これでは不十分です。「せめて500万円までは上げてほしい」というのが被災者の率直な声です。当面の運動の目標としてこの要求を国会・政府にぶつけていくことを確認しました。

 また、「衣食住」ならぬ「医職住」が深刻な事態も出されました。震災によって、医療機関そのものが破壊され、医者も少なくなっています。子どもやお年寄りにとって医療は切り離せません。仕事の問題も深刻です。たとえば、仮設住宅の建設でみてみると、大手住宅会社や建設会社に委託されるケースが多く、県外の労働者が来ているといいます。地元の中小の建設会社などに委託すれば、地元の雇用が確保できます。そういうとりくみも重要になっています。

 住宅問題では、夏場は過ぎましたが仮設住宅は暑くて生活できない状態が続いたといいます。これからは、東北にも冬がきます。その寒さにどう対応していくのか、心配が募っています。仮設住宅は寒冷地に必要な二重構造にはなっていないものもあり、寒さへの対策は不十分で、とりわけ高齢者が冬を越せるかどうかすでに不安の声があがっているといいます。

 二重ローンの問題も深刻です。この問題の解決は急がれます。折角、仕事が見つかっても二重ローンをかかえたままでは生活できません。やる気すら削がれます。これは住宅のみならず、中小業者にとっても深刻な問題です。今までどおりの仕事をつづけるとすれば、新たな資金を導入せざるをえず、ローンを組まなければなりません。生活再建のために、この問題の解決も急がれます。

 分科会ではこのようなさまざまな問題について意見が出され、交流が深められました。分科会終了後、全国集会は全体会議に移り分科会の報告が行われたあと、散会しました。この集会でもはっきりしたことは、運動こそが生きていくうえでの重要なカテゴリーであるということでした。黙っていては生きていけない、そのことを肝に銘じていつか自分にも降りかかってくるかもしれない災害対策と、災害が起きたときの復旧・復興には国民的運動と支援が必要であることを実感して帰ってきました。

★脈絡のないきょうの一行
臨時国会がきよう召集。大震災復興政策、TPP、選挙制度、普天間……目が離せないぞ。

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2011/10/19 [Wed] 13:51:48 » E d i t
 全国集会は講演のあと、被災3県からの報告を受けました。概略は以下。

 ▼岩手県(東日本大震災津波救援・復興岩手県民会議)
 *9月1日現在で震災前の主な自治体の人口を比較してみると、陸前高田市・2,860人減、大槌町・2,388人減、釜石市・2,073人減、山田町・1,583人減、大船渡市・1,465人減、宮古市・1,264人などとなっており、県全体では13,481人減となっており、津波被災地で多くの犠牲者が出ていることが分かる。
 *雇用に関しては、求人倍率は好転しているものの正社員でみると一番高い北上市で0.33倍と厳しい。雇用保険受給者は、沿岸部で7,031人となっており、前年同月比で5,000人増となっている。
 *県の復興計画は「安全の確保」「暮らしの再建」「生業の再生」の三原則をかかげているが、3つの県立病院の再建の記述はなく、三陸縦貫道など大型開発・ハード優先になっている。
 *仮設住宅は13,984戸完成。入居決定率は92.1%となっている。漁業・水産業の再生はまだ軌道に乗っていない。特別の助成が必要になっている。中小商工業者で二重債務に苦しむ人が多く、この解決策が急がれる。

 ▼宮城県(東日本大震災復旧・復興支援みやぎ県民センター)
 *いまだに救助・支援の段階で復興問題まで至っていない。避難所に789人が生活しており、仮設住宅で孤独死も起きている。PTSDによって車中生活をつづけている人もいる。予告手当なしに解雇された労働者もいるし、便乗解雇も出ている。
 *取り組むべき課題として、前述以外に漁業権・水産特区問題、稲ワラ放射能汚染による牛肉問題、地すべり被害・マンション被害問題、女川原発問題など山積している。県は「復興会議」を設立して活動を始めたがその中に地元の人間は2人だけ。岩手県の全員が地元と比べて、被災者の声を反映できるか不安。
 *県や自治体などに対して原発、仮設住宅、子どもの健康と安全、義援金支給による生活保護打ち切り反対、車中生活者、地すべり被害問題などについて要望書などを提出し運動をすすめている。

 ▼福島県(ふくしま復興共同センター)
 *被害状況として死者・1,845人、行方不明120人、重傷・154人、軽傷・154人、家屋全壊・17,871棟、半壊・50455棟、一部損壊・141,697棟などとなっている。原発事故に関する避難者は、南相馬市・13,428人、浪江町・7.708人、富岡町・4,803人などとなっており、全県的には50,244人にのぼっている。
 *セシウムに汚染された牛肉の出荷停止は深刻。風評被害も広がっている。福島から子どもがいなくなるのではないかという心配もある。非難住民が戻れるようになるまでに、20年はかかるのではないかという話しもあり、厳しい状況になっている。
*今後の課題として原発事故の収束、放射能から子どもを守る取り組み、損害賠償請求問題などがある。6月25日には「原発なくそう集会」を成功させた。引き続いて10月30日の集会も成功させたい。ご協力を。

 ――などの報告が続き、このあと分科会に移りました。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
公明党の歩み寄りでたばこ増税の動き。党略的なキナ臭さ、いや、たばこ臭さが漂う。
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2011/10/17 [Mon] 15:03:19 » E d i t
 10月8、9の両日『どうする復旧・復興!――全国交流集会2011inみやぎ』と題する集会が宮城県鳴子温泉・「農民の家」において開かれました。集会は岩手、宮城、福島各県の大震災被災者支援を行っている団体と、全国災対連(災害被災者支援と災害対策改善を求める全国連絡会)が実行委員会をつくって開催したもの。全国から230人が集まり、被災者支援や脱原発問題など熱心な討論となりました。私はこの全国集会にはほとんど参加してきましたが、200人を超える参加者は初めてでした。災害の規模の大きさがそうさせたのでしょう。

 集会はひととおりの主催者あいさつなどを行ったあと、宮入興一愛知大学経済学部教授から「東日本大震災からの復旧・復興の課題と展望――人間の復興とくらしの復興」と題して講演を受けました。宮入教授は、この災害をどうとらえるか、復興のあるべき理念などについて語りました。

 今回の災害の特徴として①超巨大な複合災害②地方都市・農漁村型災害③超広域・多様化災害④前代未聞の「原発災害」⑤災害の長期化と跛行化――の4点をあげました。今回の災害は「四川大地震、スマトラ大津波、チェルノブイリ原発事故、大規模間接被害(風評被害)が同時に発生したに等しい。その意味では未曾有の巨大複合災害だ」と指摘。しかし「想定外だったかというと、決してそうではない」と他の大地震と比較しながらこの考え方を批判しました。

 災害の広域・多様化については、「被災地面積は阪神・淡路大震災の約8倍。沿岸部の市街地、農村、漁村、内陸部の液状化被害など複雑化している。したがって被災者も、さまざまな階層におよび深刻さは度を深めている。ここからの復旧・復興は被災住民と自治体の合意を形成しながらすすめる必要がある」と強調しました。

 原発事故については「東電の責任とともに、エネルギー・原発政策を推進してきた国の責任も明確にすべき。その上で急ぐべきは被災者への支援だ」と述べました。なぜなら「原発周辺の住民は、強制的な避難で将来展望が見えず、流民化・棄民化させられようとしており、とにかく救済を急がなければたいへんなことになるからだ」と警鐘を鳴らしました。

 復興のあり方については、「これまですすめて来た日本の災害復旧・復興制度を根本的に返還させなければならない。すなわち20世紀型から21世紀型に転換させる必要がある」と提起しながら、「たとえば阪神・淡路のときは市街地再開発、空港・港湾の整備、基幹道路の整備などを優先し投入資金の9割が地域外のゼネコンに流れた。結果、被災地域の復興は7割にとどまっている。これでは被災地の経済復興はままならず、これを教訓にするならば今回の大震災では、農民、漁民、中小業者の合意形成をはかる必要がある」と強調しました。

 これらに加え復興の諸課題として、原発事故対応、関連死・孤独死の防止、被災自治体への支援体制強化、「二重債務」の解消、など、個別の問題を重視する必要性も指摘しました。宮入教授は最後に『下からの復興』『脱原発路線』を強調するとともに、「災害からの復旧・復興は被災者の基本的人権の回復を基礎においた人間復興、生活・生業・労働・コミュニティの復興を第一に据えるべきだ」と結びました。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
国会で選挙制度問題の議論開始。比例定数削減を許さず、民意反映の抜本改革こそが重要。

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2011/10/13 [Thu] 13:07:53 » E d i t
 吉岡教授は、原子力政策転換の方向性として以下の諸点をあげました。これはなかなか興味深いものがあり、すべて紹介しましょう。

(1)エネルギー基本法の抜本的な見直し
(2)エネルギー基本計画の廃止(原子力政策大綱も同様。「国策民営体制」の基盤をなしてきた国家計画の廃止)。
(3)資源エネルギー庁の解体(政府事業所轄の小さな組織でよい)。
(4)エネルギー事業全般の自由化推進。
(5)送電分離を骨子とする電力体制再編。
(6)東京電力の会社清算(政府は救済しない)。
(7)原子力発電に対する優遇・支援政策の撤廃(そのような資金があるなら、福島原発事故の賠償・収束・復旧に回すべき)。
(8)再生可能エネルギー全量買取制度の導入(ただし実力主義の観点を重視し、利権化しないような仕掛けを作る)。
(9)省エネルギーに対する強力なインセンティブ導入。
(10)温室効果ガス排出抑制政策の強化。
(11)結果としての脱原発(核燃料リサイクルも)。

 (1)から(3)は法的・行政的な面からの見直しや規制を図ろうというものです。(4)はエネルギー事業全般の自由化推進を謳っていますが、よくよく考えてみますと電力事業に関してはあの人たちが得意とする「規制緩和」をしていません。新自由主義の立場からみれば、電力事業も市場経済に委ね〝自由化〟すべきです。そうなっていないところに胡散臭さを感じます。もちろん、吉岡教授は新自由主義の立場からではなく、原子力政策転換のプロセスの一つとして提起しています。

 (5)はメディアでも取り上げられていますが、電気を作る企業と、それを送る企業を分離する構想です。電力事業の寡占化を止めることにつながります。(6)(7)はなかなか手厳しい。東電を清算して出直せというのです。しかも政府の救済措置なしで。さらに、原子力発電にかかわる全ての優遇措置を撤廃せよと提言しています。これらは経営的側面から原発をなくしていこうという思考にほかなりません。

 (8)以降は環境問題ともリンクさせたものとなっています。火力発電はCO2削減ができなくなるという意見があり、それを理由に原発推進を主張する人がいます。環境問題でいうなら、CO2より放射能のほうがはるかに危険なのですが、宣伝が行きわたっています。その意味では、環境問題を抜きにして脱原発は語れず、再生可能自然エネルギーの活用は必要十分条件といえます。

 以上が、吉岡教授報告の概要です。脱原発のロードマップが必要ないという理由として同教授は「マップをつくるということは、これまでの日本のエネルギー政策の様式を、みずからの身にまとうことになる。将来のエネルギーのありかたは経済社会が解いてくれるもの」と述べ、「どの再生可能エネルギーがどのくらいのシェアを占めるかは実力によるもので、その実力が発揮できるように政府が条件を整えればいい」と強調しました。少々、難しいシンポジウムではありましたが、考えさせるものがたくさんありました。

★脈絡のないきょうの一行
厚生年金支給開始年齢のさらなる引き伸ばし案。定年延長などのインフラ整備が先では?

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2011/10/11 [Tue] 12:24:46 » E d i t
 8日から10日まで、宮城県鳴子温泉で「どうする復旧・復興」というテーマで集会が開かれました。全国から230人が参加し東日本大震災問題の深刻さが浮き彫りになりました。その前段の7日に、その後どうなっているかを知りたいと思い、4月16日に訪ねた石巻市から亘理町までの同じ所を改めて調査しました。瓦礫が撤去されただけで復旧はほとんど進んでいない、というのが現状でした。報告は別に譲りたいと思います。

 やっとシンポジウムの本題に入ります。前述のように九州大学教授の吉岡斉さんの話しを以下、報告します。

 報告時間は1時間しかないことから、吉岡教授は準備したレジメの3分の1程度しか話せませんでしたが、興味深いものがありました。冒頭、『脱原発にロードマップは必要か』という問いかけに、「不要」と一言。まず、多くの人々が関心を寄せている「事故調」の動きですが、週に1回のペースで会議を行っているといいます。この動きはなかなか報道に出てきませんので、意外ではありました。

 委員会における議論の詳細はいえないものの「今年12月までに中間報告、来年8月に最終報告をめざすことで議論している」としました。すでに9月末までに300件弱の資料収集を兼ねたヒアリングを行っており、10月以降も継続するといいます。吉岡教授は「(事故調の)問題点は、秘密主義的なところにある」と、ぽつり。

 脱原発政策の骨子として①エネルギー政策における原子力の国策的推進と、手厚い保護・支援を全て撤廃すること②電気事業については、自由化を推進する(送電分離による平等化が基本)――の2点でいい、と強調。さらに「原子力発電が日本のエネルギー全体に占める割合(実力)は8%前後であり、これが無くなったからといってエネルギー不足という困難をきたすことはない」としました。

 「現に、09年のリーマンショックが大きな影響を及ぼしているが、日本のエネルギー使用量は最近の5年間で10%減っており、原発の8%と比較すればまだおつりが来る」と指摘しました。この発想は面白いと思いました。原発反対を唱える人のなかにも「原発がなくなれば、日本経済が停滞するのではないか」という声が聞かれますが、その心配はいらないことを吉岡教授は語っているのです。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
プロ野球セリーグの首位攻防が面白い。追い上げてきた方に利があるというが。さて。

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2011/10/07 [Fri] 02:13:24 » E d i t
 前日の雨の影響でしょうか、昨日の朝、雲は低かったのですが随分遠くまで景色を見ることができました。秋らしさが日々進行しているようで気分的にもいいですね。シンポの報告に入る前に、二つの事故調のなかの「政府の事故調」メンバーは既に決まっていますので、紹介しましょう。

 ▼委員長/畑村洋太郎(工学者、東京大学名誉教授、工学院大学教授、失敗学会初代会長、株式会社畑村創造工学研究所代表取締役。元日立製作所社員)
 ▼委員長代理/柳田邦男(作家、科学評論家)
 ▼委員
 尾池和夫(地震学者、京都大学名誉教授、前京都大学総長、地震予知連絡会委員、財団法人国際高等研究所理事・所長)
 柿沼志津子(独立行政法人放射線医学総合研究所研究員、同放射線防護研究センター発達期被ばく健康影響グループチームリーダー、専門: 放射線生物学、分子生物学、疫学)
 高須幸雄(元外務省官僚、元国際連合日本政府常駐代表、元在ウィーン国際機関日本政府代表部特命全権大使(IAEAに対する日本の代表))
 高野利雄(弁護士、元名古屋高等検察庁検事長、元東京地方検察庁検事正、元財団法人国際研修協力機構理事長)
 田中康郎(弁護士、明治大学法科大学院教授、元札幌高等裁判所長官)
 林陽子(弁護士、国連女子差別撤廃委員会委員)
 古川道郎(福島県川俣町町長)
 吉岡斉(科学史家、九州大学教授・副学長)
 ▼技術顧問
 淵上正朗(株式会社小松製作所顧問、同社元取締役・専務執行役員・環境、研究、開発、品質保証管掌)
 安部誠治(関西大学教授、専門: 公益事業論、交通論、公企業論)
 ▼事務局長/小川信二(前最高検察庁総務部検事、東京地方検察庁公判部長、法務省施設課長、内閣府参事官)

 3日朝のNHKの番組に委員長の畑村洋太郎さんが出演し、事故調の考え方や活動の様子を話していました。時間がなくすべてを聞くことはできなかったのですが、スタンスとして同意できるものがありました。たとえば「調査の際には責任追及はしないことを前提にする。そうしないと原因究明ができなくなるからだ」という部分。これはなかなかいい。責任追及が前提にあれば、関係者が喋れなくなるのは当然だからです。

 委員長代理に柳田邦男さんが入っていることも面白い。4月の小ブログでJR福知山線脱線事故のことを紹介しましたが、柳田さんはきちんとモノを言う人です。そして、今回のシンポの報告者の一人、吉岡斉さんも脱原発の立場を鮮明にしています。この政府の事故調査委員会のメンバー(の意識)に焦りを持った自民党は、国会にもう一つの事故調を作ったのではないでしょうか。言い換えれば政府の事故調をけん制するために。

 その意味において私は、政府の事故調は菅直人前首相の「置き土産だ」と密かに思っているところです。ただ一点だけ、国会の事故調は国会議員(共産党、社民党は脱原発を方針にしている)が参加することにおいて評価できる部分はあります。しかし、議員数が少ないことを理由に両党を排除する恐れがあり、楽観はできませんが。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
光より早いというニュートリノ。事実が検証されたらタイムマシンが理論的に可能。わくわくするなー。
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2011/10/05 [Wed] 11:04:59 » E d i t
 カタカナ並びの表題になってしまいました。奇をてらっているわけではありません、ゴメンなさい。2日の日曜日、東大駒場キャンパスで「脱原発シナリオをアセスメントする」というタイトルでシンポジウムが開かれました。元香川大学教授の水野浩雄さんからご案内をいただいたもの。水野さんとは防災・被災者支援の運動で時折りご一緒させていただいている間柄です。

 このシンポを主催したのは、UTCP(科学技術と社会)というグループ。メンバーをみてみると科学問題だけでなく、哲学や美術などの幅広い分野についても研究しているようです。興味のある方は「UTCP」で検索するとホームページが出てきます。なかなか手強そうなメンバーが参加しています。

 午後1時に始まって、終わったのは7時前。6時間があっという間でした。報告者は井野博満・東大名誉教授(材料劣化・設備不備・立地不適などの技術的観点からみた危ない原発)、室田武・同志社大教授(温暖化をめぐるワインバーグの亡霊)、大林ミカ・自然エネルギー財団(原発のない低炭素社会の実現)、吉岡斉・九大教授(脱原発にロードマップは必要か)――の4人(カッコ内は報告のテーマ)。

 全部を紹介することは不可能ですから、このなかの吉岡斉(よしおか ひとし)さんの報告を中心に紹介したいと思います。吉岡さんは九州大学の副学長でもあります。そして、政府がつくった「東京電力福島原発における事故調査・検証委員会」の委員の一人でもあります。いわゆる原発事故調のメンバーです。

 少し横道にそれますが、原発事故の調査委員会がもう一つあります。先週、9月30日に国会(参議院)で成立した「東京電力福島原発事故調査委員会設置法」にもとづく付属機関がそれです。この事故調のメンバーはまだ決まっていませんが、民間人10名と衆参議員の代表によって構成されることになっています。自民党サイドからの要請があり民主党は当初、「政府の事故調で間に合う」という考えに立っていましたが、予算審議の進行などを考慮して受け入れたといわれています。

 これにより、東電福島第1原発事故の調査委員会は「政府の事故調」と「国会の事故調」の2つが動くことになります。法案は全会一致で成立したといいますが、これこそムダだと思うのですがいかがでしょうか。これには意味がありそうで、のちに触れますが、違いは国会のそれは法律に基づくもので、かなりの強制力があるといいます。たとえば菅前首相や海江田前経産相の証人喚問も可能で、事故を起こした東電も資料提供を拒むことはできなくなります。(次回につづく)

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大阪府の橋下知事、大阪市長選に出馬だって。無責任もここまで行くと、凄味があるね。

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2011/10/03 [Mon] 10:42:47 » E d i t
 東電福島第1原発のあの事故は、(全くなしとはしませんが)そこで働いていた労働者の責任だったのでしょうか。否です。責任はひとえに安全対策を怠った経営陣と、それを監督すべき立場の国にあったはずです。にもかかわらず、調査委員会の報告原案は7400人もの削減を行い、浮かせた人件費を賠償金に当てるというのです。

 この人員削減は労働者への責任転嫁です。破損事故に対して、東電とその関連企業の労働者は放射線の飛散拡大防止に全力をあげました。なかには基準値を超える放射線を浴びて、健康を害した人もいるといいます。現在も進行中ですが文字通り、身体を張って事故の収束にがんばっている労働者(も含めて)を切り捨てようというこの計画、断じて許せません。

 遅からずこの人減らしは労働組合に提案されるでしょう。東電の労働組合はどう対処するのでしょうか。誤解を恐れずに言えば、東電の労働組合は労使協調路線をとってきましたし、かつての活動家への賃金差別反対の闘争でも一切、協力しませんでした。東電労組が加盟する電力総連は、連合のなかでも有力単産で、連合全体としてもこの問題にどう対処するのか、カナエ(鼎)の軽重が問われることになります。

 よもや、復興財源づくりを理由に国家公務員労働者の賃下げを認めたことと同じ徹を踏むことはないでしょう。いやいや、「賠償金の財源づくり」という理由は、公務員の賃下げと同じ意味があり、認めてしまう可能性があるかもしれません。いやいや、今度の東電の提案は、カネではなくヒトを減らすものであり、容認する訳にはいかないでしょう。

 いま、東京電力は経営そのものが危機存亡に陥っています。こういうときこそ、労働組合の出番です。かつて毎日新聞社が倒産の危機(1974年~1977年)を迎えたとき、毎日新聞労組は「毎日新聞は労働組合が守り抜く」のスローガンをかかげてたたかいました。スト権を確立し必要な場面ではストも打ち抜きました。そのうえで言論・表現の自由を守る課題と結合させて、国民に依拠したたたかいを構築しようと外に向かって打って出ました。

 その運動は当時の総評も含めて理解され、結果的に銀行に倒産の引き金を引かせませんでした。毎日新聞労組のたたかいは、労働者の賃金下げが行われたり、人減らし「合理化」にさらされたとき断固としてたたかうことの重要性を教えています。毎日新聞社の経営危機と今回の東電の問題と質的に少し違いますが、労働組合がたたかう必要性は共通しています。

 「東京電力に関する経営・財務調査委員会」による7400人の人員削減案は、明らかに労働者に責任を転嫁したもので看過してはなりません。東京電力労働組合と連合が、毅然と反撃してたたかうことを期待したいものです。

★脈絡のないきょうの一行
大企業・製造業の景気短観は好転を示唆。ホントかなー。
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