前回のつづきです。「雲仙普賢岳の被災を考え、支援するネットワーク」は、雲仙岳に限らず防災や被災者支援問題全般を視野に置こう、という論議がすすみ「防災問題を考える首都圏懇談会」(略称・防災首都圏懇)に衣替えしていました。当然のことに阪神・淡路大震災の被災者支援に取り組みました。その一環として、私は10日後に被災地に入ったのです(1月17日からの小ブログ参照)。
阪神・淡路大震災被災者支援活動の過程で、「恒常的な被災者支援の組織が必要ではないか」という意見が出されました。それは神戸をはじめとする被災地でも期待が高まりました。かつて、中央民災対をつくりその中心を担った大屋さんは新たな組織づくりに取り組みました。全労連、民医連、新婦人、全商連、自治労連、母親大会連絡会など、私は大屋さんと二人でこれらの団体を要請に回りました。そしてついに阪神・淡路大震災から4年後に「災害被災者支援と災害対策改善を求める全国連絡会」(略称・全国災対連)が1999年10月に結成されたのです。
全国災対連は、関係団体が集まってはいるものの全労連が中心となりました。全労連内部には「新しい共闘組織はつくらない」という〝合意〟はあったものの、大屋さんの熱意に押されるように、災害被災者支援の運動と組織の必要性から結成にこぎつけたものです。いうまでもなく大屋さんはここでも、その中軸にいました。
災対連が結成されて以降、災害被災者支援の取り組みはかつてなく広がりました。地震による被害だけでなく、豪雨や台風による被害者支援にも取り組みました。そして、この災対連づくりの運動過程の1998年5月に「被災者生活再建支援法」が制定されました。これは議員立法ではありますが、それまで行政がかたくなに取ってきた「災害被災者個人には補償しない」という方針を転換させたのです。災対連はこの法律の充実をめざして国会行動や署名活動に力を注いでいます。
「災害は、弱者ほど被害が大きい」「被災者支援は人間性を取りもどすたたかいだ」――。大屋さんの口癖でした。その大屋さんは昨年3月、鬼籍に入りました。その大屋さんを偲ぶ会が1月22日に開かれました。親しい仲間たちが集まりましたが、「彼を越える人物はもう出てこないのではないか」というのが一致した意見となりました。
★脈絡のないきょうの一行
93年の「ドーハの悲劇」が一転、「ドーハの歓喜」に。がんばったネ、サッカー日本代表。
この中央民災対は、総評を中心に災害問題に関連する全建労、全気象、全日農、民医連などの労働組合・団体で構成され、社会党、共産党の政党も入っています。以降、総評に務めていた奥さんの和恵さんがこの中央民災対の事務局員になり、大屋さん自身も国民救援会を辞め、この運動の専任となっていきました。さらに、62年には災害問題の研究者の組織化として『国土問題研究会』が結成され、その運動の中軸となっていきます。
これらの運動の推進役となった大屋鍾吾さんは、日本における災害被災者支援運動と防災研究活動のさきがけでもあったのです。被災者支援だけではなく、ダム建設反対の運動にも取り組んでいます。そして、革新都政の防災対策への協力、防災都市づくりの研究や都市計画にもかかわっていきました。しかし、奥さんの和恵さんが76年に死去し、中央民災対の活動が事実上ストップ、中央民災対は自然消滅の道を歩みました。
それでも大屋さんは災害被災者支援の取り組みを止めませんでした。そして、1991年6月3日に雲仙普賢岳は大火砕流を起こし、43名の死者・行方不明者を出す大惨事が起きました。この事件は私にとっても他人事ではありませんでした。犠牲者のなかに当時勤めていた毎日新聞労働組合の組合員がいたからです。そして私自身が長崎県の出身であることから、被災者支援の運動にかかわりはじめ、大屋さんと出会ったのです。
このとき、大屋さんは68歳、私は44歳で言ってみれば父親みたいなものです。大屋さんの口から出てくる防災関連の専門用語に戸惑いながら必死にくらいついたものです。雲仙普賢岳被災者を支援しようと、東京に住む長崎県ゆかりの人たちに声をかけ、大屋さんらの専門家の協力を得て「雲仙普賢岳の被災を考え、支援するネットワーク」を立ち上げたのです。その代表に大屋さんに座っていただきました。
この運動は急速に広がり、有楽町・マリオン前の宣伝行動や、島原の特産品を売って支援しようと「わかめ」の販売などに取り組みました。わかめは、千代田争議団の協力を得てなんと2トンも販売するという快挙となりました。さらに、翌年には「現地に行こう」ということでバス1台分の仲間を集めて、現地調査も行いました。それらの活動の中心に、大屋さんは必ずいました。
そして、95年1月17日に阪神・淡路大震災が起きたのです。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
「公約変更なら総選挙」(公明党)。正論である。
大屋さんは1923年11月に京都市で生まれました。戦中は海軍予備生徒として訓練を受け、1945年に少尉として千葉県木更津基地に赴任。しかし戦地に赴くことなく戦争は終わりました。戦後、旧制第三高等学校(現・京都大学)に入学し、ここで社会運動に目覚めたといいます。
1956年に国民救援会中央本部の事務局長に就任し、後述する「60年安保闘争」で樺美智子さんが亡くなったとき、検死に民主運動側の医者を立ち合せることも実現しています。一方で、1959年に起きた伊勢湾台風の被災者支援にも取り組み、災害問題のいわば専門家になってきました。私が大屋さんとお会いしたのは、1991年6月の雲仙普賢岳の火砕流による被災者支援の運動でした。以来、おつき合いをさせていただきました。その大屋さんが「自分史」のなかで、樺美智子さんのことを以下のように記述しています。
◇=◇=◇
翌日慶応病院で検死が行われ、樺夫妻も来られた。検死は慶応病院中舘教授、中山博士の司法解剖、立会いは医博の坂本昭参議院議員と医博中田友也代々木病院外科部長であった。(略)検死の結果の公表は窒息死で扼殺の疑いが強いとされたが、その原因については曖昧であった。
(略)この寺に来て驚いたことに、其処に掛けられていた故人の遺影が私の以前から知っている顔であった。それは数年前目黒区駒場の東大教養学部から勤評闘争などのお手伝いに来ていた女子学生の顔であったのだ。彼女は以前、私たちには竹田と名乗っており、私達と同じ目黒区内で真面目に地道な活動をしていた。私の妻は女子学生の後輩として特に目をつけ可愛がって、その学生もしばしば私の家で食事なども共にしていたのであった。そして、彼女が本郷の東大に行ってからもメーデーで会ったこともあった。その竹田が樺美智子であったことで、その死は私達夫婦にとってはより一層忘れがたいものとなった。
◇=◇=◇
家族ぐるみで食事をしていた女の子が、安保闘争の犠牲者であったことに大屋さんには大きな驚きだったようです。その子が「竹田」と名乗っていたことは、彼女がいわゆる活動家であったことを物語っています。そして、大屋さんの奥さん・和恵さん(故人)は当時、総評の書記をやっていました。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
鳥インフル蔓延のきざし。文字通り天からの落し物。人間の力ではどうにもならないのか。
福ちゃん荘から5分足らずで富士見山荘の前に出ます。ここからは名前のとおり富士山がよく見えます。思ったより大きく立派です。「富士山はこんなに大きかったのか」と思わせるほどの大きさです。恐らく、日の出や日没の太陽が大きく見えるのと同じように、周辺に低い山が比較対象物になっているからでしょう。堪能してみてください。
ゆるやかな登り坂を歩きます。ここは時間がありますから、あえてゆっくり歩きます。そういえば、97年の4月に登ったとき、介山荘に近くで遠くに白い花が見えました。季節柄、サクラだろうと思って近づくとそれは霧氷でした。氷に彩られた木々は、神秘的な光を放っていました。介山荘は大菩薩峠に建っています。ここで一休みして、ピークをめざします。
途中の「賽の河原」には朽ちかけた小さな小屋がありました。その小屋は休憩舎として昔は使っていたようですが、今では残骸だけです。その周辺はちょっとした広場になっており、テントを張るにはいい場所です。そのうち実現したいと思って、18年が過ぎました。
そこから雷岩まで一登りして3分ほどでピークに到着です。山頂は標柱が立っているだけで、展望はありません。期待して行くとはずれます、ご用心。山頂の写真を撮って雷岩に戻り、急斜面の下山道で福ちゃん荘に戻りました。
*徒歩総時間/1時間50分
福ちゃん荘(8:25)-大菩薩峠・介山荘(9:00 10:05)-大菩薩嶺(10:45 10:50)-福ちゃん荘(11:25)
*参考/94年6月11日登山/2時間55分
上日川峠・長兵衛山荘(13:40)-福ちゃん荘(14:00)-大菩薩峠・介山荘(14:40 14:50)-大菩薩嶺(15:40 16:00)-上日川峠・長兵衛山荘(17:05)
*参考/97年4月16日登山/2時間30分
福ちゃん荘(9:20)-大菩薩峠・介山荘(10:10 10:20)-大菩薩嶺(11:10)-福ちゃん荘(12:00)
*参考/03年6月15日登山/3時間00分
上日川峠・長兵衛山荘(7:15)-(途中休憩20分)-菩薩嶺(9:20 9:45)-上日川峠・長兵衛山荘(11:00)
★脈絡のないきょうの一行
昨日、第177国会が開会。消費税、TPP、政治倫理……いつまで持つか菅内閣。
この山も昔から数多く登っている山です。かつてはふもとのバス停から歩いて大変でしたが、最近では上日川峠、その先の福ちゃん荘まで車が入れるようになり、手軽だということと、中里介山の小説、「大菩薩峠」の影響があるからかもしれません。この間の登山記録によると、93年7月25日、94年6月11日、97年4月16日、そして03年6月15日――に登っています。これらはピークまで登ったもので、峠まではさらに数回行っています。いうなれば、山のホームグランドみたいなものでしょうか。
正直に告白します。こんなに何回も登っている山ですが、その全容を遠くから眺めたことがなかったのです。せいぜい、黒川鶏冠山に登ったとき目の前の大菩薩嶺を見て、「ピラミッド型をしたいい山だ」という印象しかありませんでした。ところが、今年最初の登山となった雪の笠取山(かさとりやま)の途中、小屋で休んでいるとき、目の前に立派な山がたたずんでいました。「あの山は何?」と同行のKさんから聞かれ、一瞬戸惑いました。
この周辺の山はほとんど登っているし、この笠取山も(最初のときは雨でしたが)2度目です。記憶にあるはずですが、出てきません。形は御正体山に似ていますが、富士山が近くにあるはずで、それではなさそうです。慌てて地図を引っ張りだしました。すると、な、なんと、それは大菩薩嶺ではありませんか。いつもの登山口はJRの駅でいえば「塩山(えんざん)」ですから、山容全体を見ることはできません。JR中央本線からも、中央高速道路からも山頂を見ることはできず、そのせいだったのです。
笠取小屋から見る大菩薩嶺は立派です。ピラミッド型をして裾野も広く、大きな塊になっています。これで富士山が見えればもっと栄えるかもしれません。深田久弥は百名山を選ぶ基準に「高さ、歴史、山容」をあげていますが、うなずけるというものです。改めてこの山のよさを知った思いでした。
ここでは、一番古い93年7月のときのものを紹介します。
前日、甲府の湯村温泉で泊まりこみの会議をやり、台風が接近中で仲間たちの「無謀だ」という声を無視して、上日川峠までマイカーで進みました。もちろん一人旅です。車の中で寝たものの、小枝が落下してくるなどで安眠を妨げられました。朝、目が覚めると風も弱まり前夜の喧騒がウソのように静かでした。
これはラッキーと思いつつ、批判をあびながらの山行ですから、慎重になります。前夜、上日川峠で仮眠した関係で時間が早かったため、福ちゃん荘まで車で入り、そこから歩き始めました。この山は、それ以前にも何回か登ったことがあり地図は不要です。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
政倫審、国会招致議決見送り。つまるところ、民主党は小沢一郎さんを切り離せないんですね。
1年目に訪ねたときは、地元で復興のためのボランティア活動をしている、かねてからの知り合いAさんに案内していただきました。後片付けもままならず、倒れたままの家屋もありました。仮設住宅も見せてもらいました。Aさんは、復興のためのプロセスを熱く語ってくれました。ところがこのAさん、2005年4月25日に死者107人を出したJR福知山線脱線事故で、奥さんと実の妹さんを亡くすというアクシデントに巻き込まれたのです。彼はいま、あの事件の真相を求めて毅然とたたかっています。この件の話しは、別の機会にゆずりたいと思います。
10年目は1月17日の当日、神戸を訪ねました。今年も行われましたが、早朝は市内を見下ろせる諏訪山公園の法要に参加しました。神戸にしてはめずらしく、小雪が舞う寒さのなかで〝その時間〟を待ったものです。10年が経っても「震災未だ終わらず」状態はつづいており、この国の災害被災者への冷たい仕打ちを見る思いでした。そして16年目のいま、まちの風景は変わったものの、被災者、とりわけ高齢者や障害者の復興は出来ていないのが現状です。
ところがこの大震災をきっかけに、一つだけ運動面で前進したことがあります。結成は大震災から4年後の1999年10月でしたが、「災害被災者支援と災害対策改善を求める全国連絡会(略称・全国災対連)」が誕生したことです。以降、三宅島災害をきっかけに東京災対連が、中越地震をきっかけに新潟災対連などが結成され、被災者支援の運動はそれまでと比べて飛躍的に広がっています。
この災対連結成に尽力されたのが、大屋鍾吾(おおやしょうご)さんでした。耳慣れない「国土問題研究会」や「日本科学者会議」などにも所属し、防災や被災者支援、まちづくりの運動に参加されてきました。大屋さんはその生涯を防災と災害被災者支援運動に捧げたといっても過言ではありません。国会でも参考人として発言したこともありますし、「災害からの復興は人間性を取り戻すことだ」というスローガンを唱えたのも大屋さんでした。
大屋さんは60年安保闘争の頃、国民救援会中央本部の事務局長をやっていました。その関係もあり、あの闘争で亡くなった樺美智子さんの司法解剖時に、廊下で一晩を過ごして〝立ち会った〟人です。翌朝自宅に帰ってから新聞で樺美智子さんの写真を見て、自分の知っている女の子であったことに驚いたといいます。そのことについて残っている手記もあり、そのうちご紹介したいと思います。すみません、横道にそれました。
災対連は、「自然災害による個人補償はしない」という行政の〝鉄則〟を打ち破り、阪神・淡路大震災以降の自然災害の被災者支援に大きな役割を果しました。その組織づくりに全力をあげた大屋鍾吾さんは、昨年春、86歳で鬼籍に入りました。大屋さんは私にとっては、オヤジのような存在で、学んだことは少なくありませんでした。「震災の日」が来るたびに大屋さんを思い出しますが、今度の土曜日・22日に「大屋さんを偲ぶ会」が開かれます。
★脈絡のないきょうの一行
こんな寄せ集め内閣では、「不一致」で問題が噴出するのは時間の問題かもしれない。
1995年1月17日午前5時46分52秒、淡路島北部から明石海峡周辺を震源として、マグニチュード7.3の地震が発生、震源地近くでは震度7の激震を記録しました。この地震による被害は▼死者:6,434名、行方不明者:3名、負傷者:43,792名▼避難人数 : 30万名以上▼住家被害 : 全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟▼火災被害 : 住家全焼6,148棟、全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯▼その他被害 : 道路10,069箇所、橋梁320箇所、河川430箇所、崖崩れ378箇所▼被害総額 : 約10兆円規模(Wikipedia)――となりました。
気象庁はこの地震を「兵庫県南部地震」と命名。しかし毎日新聞が「阪神大震災」と報道しこれが定着。のちに淡路島も被害が大きかったことから「阪神・淡路大震災」という名前が閣議で了承されるという道をたどりました。
あれから16年。神戸市民の3分の1が震災の経験をしていない、という報道がありましたが忘却の彼方に置かれそうな気配です。しかし「震災未だ終わらず」というのが現地からの報告です。仮住まいを追い出されそうなお年寄りがいて、この寒空に放り出される危険が迫っています。自宅の再建もままならず、神戸に戻って来れなかった人も数多くいます。商売をやめた人も少なくありません。
私は、災害発生10日後に現地に入りました。交通網は遮断されており、大阪港から船で神戸に渡り、バスでさらに三宮まで出ました。1フロアが押し潰された水道局ビル、傾いたそごうデパート、今にもネオンが落ちてきそうな繁華街、そして食事を待つ人の列。被害がおおきかった「長田」駅まで歩きました。焼け焦げた臭いが鼻をつきます。崩れかけた家屋に住んでいる人もありました。危険だと分かっていても行く場所がないといいます。
焼け跡のあちこちに花束が置いてあります。恐らくその場で亡くなった人のためのものでしょう。途中、焼け跡でテーブルを並べそこでコーヒーを出している女性がいました。聞いてみるとその場所でスナックを経営していたといいます。「自宅はもう少し八甲田山よりにある。地震が起きて店に行ってみようかと思ったけど危ないと思ってやめた。その代わりと言っては変だけど、店に電話をしてみた。すると、早い時間は呼び出し音がしていたが、途中からそれがしなくなった。火事になったからだと思う」と当時の状況を語ってくれました。
災害に負けず、このようにがんばっている人がいることに安堵感を覚えたものです。被災の様子を写真に収め、それから1年後と10年後に改めて三宮から長田まで歩きました。が、様相は一変していました。空き地がたくさんできていたのです。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
菅直人第三次改造内閣発足。1年足らずで2回の改造もめずらしい。問題はいつまでもつかだ。
ヨンピョン島砲撃事件で、尖閣諸島とビデオ流出問題がメディアから消えた。面白いね。
2010/12/03
日本航空の子会社が、経営危機下で自民党に政治献金。労働者を犠牲にしてひどいね。
2010/12/06
諫早湾潮受け堤防の開門、佐賀地裁判決同様に福岡高裁も命令。さあどうする民主党政権。
2010/12/08
芸能人の喧嘩釈明会見にメディア・スクラム。平和といえば平和だが、何だかヘン。
2010/12/10
きっこのブログに「海老蔵は歌舞伎界の暴力装置」という記述があった(笑)。
2010/12/13
茨城県議選でも民主党は事実上の惨敗。いま総選挙をやれば下番確実。
2010/12/15
諫早湾干拓事業の潮受け堤防排水門の「開門」をやっと首相が決断。いいことだが遅すぎ。
2010/12/17
取手駅で早朝通り魔事件発生。秋葉原事件を思い起こさせるが、ヘンだぞこの国は。
2010/12/20
小池百合子さん、鳩山前首相のことを「ハトではなくサギ(詐欺)だった」発言。すごいね。
2010/12/22
自民党の意見と同じなのが面白くないけど、小沢一郎さん、やはり国会喚問でしょう。
2010/12/24
年末解雇通告を出した日本航空経営者。道徳的にも人道的にも許してはならない。
2010/12/27
東国原宮崎県知事が東京都知事選に出馬報道。これはもう政党政治の危機ではないのか。
2010/12/28
「派遣村」のないこの年末、懸念の声が出ている。ボランティア任せでいいのだろうか。
2010/12/29
小沢一郎さん、偽証罪の罰則規定のない政倫審を選んだね。うまいねー。
★脈絡のないきょうの一行
与謝野馨さん、あっち行ったりこっち行ったり、まるで酔っぱらいの千鳥足だね。
環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)は国を壊すもの。推進派は何を考えているのか。
2010/11/02
裁判員裁判で初の死刑求刑判決は、無期懲役に。市民の冷静な目が作用したか。
2010/11/04
米・オバマ民主党、中間選挙で歴史的大敗。似てるなー、どこかの国と。
2010/11/05
中国漁船が日本の巡視艇に衝突した「尖閣ビデオ」流出事件。日本も欧米化してきたのかなー。
2010/11/08
国会証言拒否の小沢一郎さん、混迷を深めるだけ。民主党がぶっ潰れるよ。
2010/11/11
流出ビデオのコピーしたものが、「ユーチューブ」に海外から流入。見てネ。
2010/11/12
明日13日、大田区産業プラザで「東京9条まつり」。ぜひご参加を。
2010/11/15
横浜で開かれたAPEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議、成果ゼロじゃないかい?
2010/11/17
大相撲69連勝のカベは厚かった。白鳳よ、再挑戦せよ。
2010/11/19
ミナマタ東京訴訟の和解、前進だが全ての被災者救済には道は遠い。
2010/11/24
韓国軍の訓練射撃を、攻撃と〝勘違い〟したらしい北朝鮮の報復攻撃。いつか来た道、危ないぞ。
2010/11/25
北朝鮮の砲撃で韓国の民間人も犠牲に。いまこそ人間の叡智を集めて平和的解決を。
2010/11/26
北朝鮮による韓国・ヨンピョン島への砲撃事件。誰が一番得をしたか、考えてみよう。
2010/11/26
沖縄の県知事選挙、歴史の転換点になるかと思ったが残念。
★脈絡のないきょうの一行
「いまどきは 菅直人より 伊達直人」いいねぇー。がんばれ、タイガーマスク!
尖閣諸島は歴史的にも日本の領土であることを、日本政府は内外に知らせるべきではないか。
2010/10/04
09年度で年収200万円以下のワーキングプアーが1099万人に。強まる貧困化、どうする。
2010/10/06
ほらね、辻元清美さんが民主党会派に入ったでしょう。彼女も大臣病に冒されてるね。
2010/10/07
閉塞状況のなか、ノーベル賞受賞は明るい話題。鈴木章さん、根岸英一さんありがとう。
2010/10/12
大臣の国会内写真撮影より、雇用や尖閣諸島問題で時間を取って議論してほしいなー。
2010/10/13
「自分を最後にしてくれ」――。地下で救出を待つチリ鉱山の労働者33人全てが言ったという。資本家には言えない、これが労働者の優しさだ。
2010/10/15
おい、おい、オバマさん、未臨界実験強行だってね。ノーベル平和賞、返してよ。
2010/10/18
那覇市の不発弾処理騒動、戦後が終わっていない証。県民は米兵だけでなく、爆弾にもおののく。
2010/10/20
プロ野球パリーグのCS戦、「這い上がる」の典型を見せたロッテ。すごいね。
2010/10/22
8月の日刊新聞の発行部数、前年比で121万部の減(ABC協会調査)。すごいねこりゃ。
2010/10/25
北海道衆院5区補選、「政治とカネ」への断罪だ。有権者は見抜いている。
2010/10/27
民主党、企業献金容認へ。そういう体質なんだろうが、節操がないね。
2010/10/29
「レアアース」、喰ったことはないが、使ったことはあるらしい。何者?
★脈絡のないきょうの一行
巷では「カンけり」が流行っているらしい。〝カラカン〟だから軽くて飛ぶんだろうなー。
2010/09/01
代表選挙が分裂の始まりになったとしたら、世界の笑いものになりますよ民主党さん。
2010/09/03
日替わり首位争い。いま、プロ野球パリーグが面白い。
2010/09/06
利益剰余金など、大企業の内部留保が09年に11兆円増えて244兆円に。ほんとに不況か?
2010/09/08
酷暑一転、風水害の恐れ。日本海から太平洋に抜ける台風9号の監視と対策強化を。
2010/09/09
鈴木宗男衆議院議員、有罪確定で議員失職し収監へ。裁判8年間に2度の選挙で当選。変。
2010/09/10
民主党代表選挙で菅さん、しきりに「雇用」を言うが派遣法の抜本改正に触れないのは何故?
2010/09/13
公選法の適用のない民主党代表選挙、カネのあるほうが勝つのかなー。
2010/09/15
再任される菅直人首相、「基地ノー」の名護市議選の結果を政策にどう反映させるのか。
2010/09/17
第2次菅内閣、片山博総務相だけは許容範囲か。
2010/09/24
中国の圧力すごいね。やること、言うことがダイナミックで大陸的だね。いや大国的かな?
2010/09/27
過払い返還が業績を圧迫し、武富士が会社更生法申請だって? 過払い返還を止める方便では?
2010/09/28
沖縄県議会、28日に尖閣諸島沖の衝突事件をめぐり日中両政府に抗議。良識である。
2010/09/30
3515本、日米両国とはいえイチローの安打は大リーグ歴代5位に。文句なしの大記録だ。
★脈絡のないきょうの一行
民主党の江崎孝参院議員、2009年8月、300人収容会場に2000枚のパーティー券を販売(朝日新聞ウェブ)。ホントなら自民党顔負けだね。
車を考えてみましょう。国内でつくっても海外でつくっても同じ価格であれば、工賃の安いTPP参加国で製造したほうが利幅はおおきくなることは当然で、生産の拠点が海外に移される可能性が大きくなります。もしそうなれば、日本の労働者の仕事がなくなることになります。もちろん、自動車部品関連の中小企業も不要になり大量の失業者を生み出します。同時にそれは、技術の海外流出ともなります。
このような問題は、アパレル業界ですでに起きているではありませんか。日本で布地を作ってそれを輸出、海外で縫製して再輸入するというやり方は関税がある現在においても行われています。関税がなくなれば、さらにこの動きに拍車がかかります。製本業界でも同様のことが行われており、日本の労働者の仕事が奪われつつあります。
そしてもう一つは日本からの輸出がやりやすくなるという問題です。関税がかからないのですから、TPP参加国には日本と同じ価格で販売することができます。経団連、経済同友会、日本商工会議所の財界三団体が「TPPに参加せよ」と大合唱しているのは、市場としてのアメリカをイメージしているのでしょうが、うなずけるというものです。
ところがこの大合唱の背景に、かくされた落とし穴があることを見ておく必要があります。結論的に言えば「グローバル化に対応するための賃金引き下げ」と「雇用破壊」がそれです。前述の生産拠点の海外進出問題にあるように、「海外だと安い工賃で作れるのだから、日本国内の賃金を引き下げる必要がある」という大資本側からのキャンペーンが張られるでしょう。同時に、あの人たちは「雇用の国際化」(派遣法は「雇用の流動化」を言いながら強行した)などと言って、賃金を安くできる外国人労働者を今以上に雇用する道を開くであろうことは目に見えています。
このように、TPP参加問題は「開国」どころか、農民と労働者、いや国民全体とっては「亡国」にほかなりません。昨年12月に行われた東京春闘共闘の討論集会で、私はこの問題について、「死語となっている『労農同盟』をいまこそ再構築すべきではないか。TPP問題は千載一遇のチャンスだ」ということを提起しました。唐突だっただけに結構、笑いを取りましたが私は真剣です。
そういえば過日、ある労働組合から「いま、パナマ運河の拡幅工事が行われています。大きな船でも運航できるようにするためです。韓国ではハブ空港はできていますが、それに加えて釜山港をハブ港にしようという動きがあるそうです。これらはTPPをイメージしたもので、すでに動き出していますよ」という報告を受けました。これもまた、軽視できない動きではあります。
★脈絡のないきょうの一行
出直し阿久根市長選挙がスタート。リコールされた人が再び選ばれたらどうなるの?
このTPPとは何者か。少し復習してみましょう。正式名称は「環太平洋戦略的経済連携協定」ですが、最近のメディアは「環太平洋パートナーシップ」という表現をするところが多くなっています。
内容は「アジア太平洋経済協力会議(APEC)に参加する国を中心に、すべての物品について原則として関税を撤廃する自由貿易協定(FTA)。2006年にシンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイの4カ国による協定が発効。現在は米国、オーストラリアなども参加を表明し、計9カ国で交渉中。米国は11年11月に同国で開催されるAPEC首脳会議までの妥結を目指しているとされる。」(西日本新聞)としているように、いわゆる自由貿易協定です。
世界地図と参加国を見比べていただければ分かりますが、太平洋に隣接する4カ国から始まった経済協定で、ここにアメリカが参加を表明したことにより、にわかに脚光をあびることになったのです。そのアメリカの意向を汲み取って日本は参加の検討を始めた、というお決まりの「アメリカ追随コース」です。
それでは実際にはどうなるかコメを例に見てみましょう。現在、コメの関税は778%となっています。これだけだとピンとこないのですが、たとえば1キロ100円のコメの場合、関税は778円かかることになり消費者のところに届くのは888円となります。実際には、これに手数料や運搬費用が加わりますのでもう少し高くなるはずです。この関税によって輸入米は高くなり、日本のコメは守られているのです。
TPPに参加すれば、この関税がゼロになります。安いコメが入ってくることになり、コメ農家は壊滅的な打撃を受けます。もちろん逆にTPP参加国に対して、日本からの輸出は関税ゼロとなります。そこに目を付けているのが財界・大企業で、「TPPに参加せよ」という大合唱となっているのです。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
「政治生命を賭して消費税増税をやる」とテレビで菅首相。その前にやるべきことがあるぞー。
アメリカの新聞王といわれた、ジョセフ・ピュリッツァー(1847年~1911)をご存知でしょうか。コロンビア大学が管理する「ピュリッツアー賞」はこの人の名前を冠したものですが、彼はジャーナリストに対して以下のような言葉を残しています。そしてピュリッツアー賞選考の基準もまた、この言葉に拠っています。
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常に進歩と改革のために戦い、不正あるいは腐敗は黙視せず、いかなる一党にも組みすることなく、常にあらゆる党派の扇動家と戦い、貧しき者への同情をいささかも忘れることなく、常に特権階級および公共の略奪者に反対し、常に公共の福利に貢献し、単にニュースの供給に満足せず、常に厳正なる独立を守り、貪欲なる金権政治によると、あるいは貪欲なる貧困によるとを問わず、およそ不正を攻撃するにいささかも恐れることなし。
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今年はピュリッツアー没後100年(10月29日)ですが、100年以上も前にジャーナリズムの規範といっても過言ではない、そんな提起をしていることに驚きです。この言葉を現代日本のメディアに置き換えてみたらどうなるでしょうか。最近では大阪地検のデータ改ざん事件や、地道な調査報道ともいうべき「無保険の子」救済キャンペーンなど、特筆すべきことがないわけではありません。しかし、相対としてみるならばピュリッツアーの提起に程遠いといわざるをえないと思うのです。
ジャーナリズムの問題になりましたが、私が申し上げたいのは〝戦争前夜事態〟が強まるなかで、「メディアよ、がんばれ」ということなのです。なかでも新聞はその役割を果たすべきです。活字離れ、新聞離れが言われて久しくなります。詳細は別の機会にゆずりますが、「活字離れ」は起きていない、というのが私の持論です。もしそうであったならば、ネットはここまで発達しなかったはずです。なぜなら、ネットも「活字」だからです。
そして「新聞離れ」――。新聞離れ状態は、国民・読者が起こしているのではなく、新聞社自らが起こしている問題だと私は考えています。ピュリッツアーが提起したようなジャーナリズムが本来あるべき姿から新聞社が外れたところに、新聞離れが生じていると断言できます。つまり、新聞は確実な『情報』と、反権力をはじめとした『言論性』がウリのはずです。ところが情報はそれなりに遂行されているものの、もう一方の言論性は置き去りにされていると思います。だとしたら「新聞はいらない」という声は当然です。
民主主義の問題から、ジャーナリズムの問題になってしまったようで、すみません。ピュリッツアー没後100年を考えつつ、日本がいつかきた道を歩き始めていることに不安を抱きつつ……、21世紀11年目を迎えました。改めて、今年もよろしくお願いいたします。
★脈絡のないきょうの一行
昨年末、40年つづいた労使紛争が解決したと昭和シェル労組から着信。みんなで喜び合いたい。
その戦争の1年前、国鉄三大ミステリー事件といわれる下山事件(1949年7月5日)、三鷹事件(1949年7月15日)、松川事件(1949年8月17日)が発生しています。当局はこれらの事件に共産党と労働組合が関与したとして捜査を行い、関係者を逮捕し「世論作り」をすすめました。その上で、前述の国会議員と中央委員を追放したのです。このやり方、国鉄の分割民営化のとき「カラスの鳴かない日はあっても、国鉄職員のヤミ・ポカ報道のない日はない」と言われたことに似ています。昔も今もあの人たちは同じことをやっているようです。
ドイツの国会議事堂放火事件(1933年)といい、日本の三大国鉄ミステリー事件といい、それを理由にして共産党弾圧を行い、そのあとに戦争が起きたことは歴史の事実です。「共産党弾圧は戦争前夜」という、蜷川虎三さんの言葉はそこから出発したものでした。
そして現在、50年代とは違う形のレッドパージが進行しています。衆参両院国会議員の比例定数削減問題はその典型です。民主党は、衆議院の比例定数を現在の180から100に減らすという方針を掲げています。自民党も同様に削減をかかげています。その理由は、議員が多すぎるというものですが、この主張はもう破綻(はたん)しています。小ブログでも紹介しましたが、人口比でみた場合、先進国のなかで日本はアメリカに次いで国会議員数は少ないのです。
議員の比例部分が削減されると、はっきり言って選挙区で議席を獲得できない共産党には打撃です。社民党や公明党にとっても同じです。しかしこの策動のねらいは少数意見の抹殺のみならず、共産党を排除することにあることは明らかです。なぜ共産党を目の仇にするのか。それはその歴史が「反戦・平和」を貫いてきたし、現実政策のなかでも大資本にとって都合の悪い部分がたくさんあるからです。今年、この問題が最大の政治問題になる可能性があります。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
東洋大・柏原竜二選手、また箱根駅伝に新たな記録。閉塞感の世相に明るい光。すごいね。
いつの間にか、21世紀も10年を過ぎました。月日の流れの早さに驚くばかりですが、みなさんはどんな思いを持ちながら新年をお迎えでしょうか。昨年のこのコーナーは①貧困②沖縄普天間基地移設と日米安保③核兵器廃絶④環境――をテーマにしました。
今年は平和と民主主義の問題について考えてみることにしました。
ドイツでヒトラーが台頭したとき、それに抵抗しなかったことを悔やんだ牧師がいます。マルチン・ニーメラさんがその人ですが、彼は以下のような一文を残しています。紹介しましょう。
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共産党が弾圧された。
私は共産党員ではないので黙っていた。
社会党が弾圧された。
私は社会党員ではないので黙っていた。
組合や学校が閉鎖された。
私は不安だったが、関係ないので黙っていた。
教会が弾圧された。
私は牧師なので立ち上がった。
そのときはもう遅かった。
はじめに彼らはユダヤ人を逮捕した。
私はユダヤ人でないから黙っていた。
次に彼らはコミュニストを逮捕した。
私はコミュニストでないので、黙っていた。
それから彼らは労働組合員を逮捕したが、
私は労働組合員ではないので沈黙していた。
そして彼らは私を捕らえたが、
もう私のために声を上げてくれる人は一人も残っていなかった。
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かつて、京都府で革新自治体の象徴としてがんばって来られた蜷川虎三(にながわ とらぞう・1897年-1981年)さんは、「共産党弾圧は戦争前夜である」と言いました。マルチン・ニーメラのこの一文とオーバーラップするではありませんか。(次回につづく)
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日本航空、大晦日に退職勧奨に応じなかった165人を解雇。人道的にも許せない。