その後担当医師と相談の結果、経管栄養は長期間続けるのは無理があり、自力で食事のできない人は胃に穴を開けて、そこから栄養を取り込むという方式が採用されます。それを「胃ろう(漊)」といいますが、そのためには手術が必要になります。その胃ろうの手術を行ったのです。
手術は胃カメラで内側から、外側からはメスをあててトンネルを開通させるような形で行うようです。もちろん局部麻酔をかけますが89歳の年寄りには体力を消耗して、厳しいものがあります。時間は1時間ほど要しました。事前に医者から「高熱を発するなどのリスクが生じるかもしれない」と言われていましたが、それはありませんでした。
胃ろうの手術を行うことについて、賛否両論があります。手術を行ったことが結果的に親のいのちを縮めた、という友人もいます。しかしやらざるを得なかった、というのが実情です。なぜなら、手術を拒めば母を自宅介護しなければならなくなるからです。母の今の状態は、治療の手順でいえば次は胃ろうの手術ということになるようです。その手順を踏まなければ、医療行為は〝終了〟することになり、自宅あるいは施設に戻らざるをえないことになります。
経管栄養を施した状態で入れてくれる施設はほとんどありません。入れてくれる施設がないということは、自宅に引き取るということになります。それはわが家も含めてほとんどの家庭で不可能でしょう。だとすれば、消去法でいけば胃ろうの手術にOKのサインをするしか道はない(なかった)のです。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
郵便貯金の限度額2000万円へ引き上げ。国債発行時の買い手の懐が膨らむことになるなー。
にもかかわらず国は被害者を放置したままです。何のための法律だったのか、疑問は募ります。財源が救済を遅らせる理由とも言われていますが、この問題は法律に沿って国が被害者に償うという当たり前のことを求めているだけです。交通事故に言い換えれば、当て逃げした犯人が被害者に補償することを拒むという現象と同じで、許されない事態です。
B型肝炎訴訟は全国で419人が提訴しているといいます。おそらくこれは今後も増えるでしょう。私の友人の息子はC型ですが、訴訟には加わっていません。「人に知られたくない」ということが最大の理由のようですが、このような人はたくさんいると思うからです。日本ではC型肝炎のウィルス保持者は推定で150万人( Wikipedia)とも言われているそうで、実態は深刻です。
その患者を救済するために、福岡地裁は和解勧告を出したのです。この勧告は肝炎患者への「早期救済」を促すもので、国は真摯に受け止めるべきです。「いのちあるうちの救済」は、じん肺患者も同じことでいのちの問題として、国は対応すべきです。
同じ日に札幌と東京の裁判所が被災者救済の判断を示しました。これは決して偶然ではなく、普天間基地問題をはじめマニフェストに違背するような政策を打ち出している民主党政権への、司法からの「鳩山内閣、なんとかしろ」というメッセージではないのか、そんな気がしてなりません。
★脈絡のないきょうの一行
国公法堀越事件、東京高裁で逆転無罪。旧態依然の法律にもムチ。当たり前だが遅すぎる。
先週の3月26日に札幌と福岡の両地方裁判所で、特筆すべき判断が示されました。札幌地裁は、「新北海道じん肺」の判決、福岡地裁は「B型肝炎訴訟」に対する和解勧告がそれです。双方に共通するのは『生きているうちに救済を』という、原告らの悲痛の叫びに真摯に応えたことです。
札幌地裁に提訴された新北海道じん肺の〝争点〟は時効問題でした。この裁判は国に対する損害賠償を請求したもので、国側は時効(3年)を理由に責任はないと主張していました。この問題について裁判所は時効の起算点について、「原告らが被告に損害賠償請求が可能だと認識した時点」が相当である、と判じたのです。
この判決は当然の判断だと思います。民間人どうし(であっても個人的には時効は不要だと思うが)の争いならいざしらず、国に対する損害賠償に関する訴訟で「時効」が存在すること自体がおかしいと思うからです。行政が時効をタテに逃げられるとしたら、「やったもの勝ち」になってしまうではありませんか。時効は政治の無責任さを助長することになりかねず、これは廃止すべき対象です。
最近、殺人事件について時効をなくすべきだという議論があります。私はこの意見に賛成です。殺人を犯し、一定の時期逃げおおせれば〝無罪〟になるというこのシステム、やはり変です。「殺し得」を許さないためにも時効は撤廃すべきです。その延長線に、地方も含めた行政に対する損害賠償に対する時効も撤廃すべきだと思います。
福岡地裁のB型肝炎訴訟の和解勧告も画期的でした。そもそもB型肝炎訴訟は2006年に最高裁が国の責任を認定し、判例としても確立されているものです。にもかかわらず国は損賠請求をしりぞけ、裁判になっているのです。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
朝青龍のいなくなった大相撲、人気が復活しつつあるのでは。いいことだ。
早立ちは山登りの鉄則です。奇しくも前日の動きだしと同じ4時55分に小屋を後にしました。まだ薄暗くヘッドランプをかざしながらの前進です。岩場はまだ続いており、暗がりの中を慎重に、道を間違えないように、丹念に踏み跡を確認しながら進みます。
40分程度で明るくなりだしましたが前日同様ガスがかかり、まだ乳白色の世界です。口の沢のコルに近づいたあたりで、ガスがあがりはじめたとき、一瞬でしたが五竜岳が姿を現しました。大きい。その大きさは神々しさすら放っています。今度は、その大きな五竜が目標となりファイトを駆り立てます。
五竜岳の基部に着くと、その大きさはより大きなものとなってのしかかってきそうでしたが、それを堪えて急登に挑みます。上から下りてくる10人ほどの集団とすれ違うのに結構時間をとられました。道は狭く、動かないほうが安全だからです。最後のジグザグ道がやけに長く感じられましたが、ついに山頂です。
北方に唐松岳、白馬鑓(しろうまやり)ヶ岳、白馬岳がたたずんでいます。唐松山荘が思ったより大きく見えます。その右手から真後ろ南側の鹿島槍ヶ岳あたりまでの180度はガスがかかり、八ヶ岳のアタマの部分以外は同定できません。鹿島槍ヶ岳から右手は立山、剣岳が連なった形で大きな塊となっています。下界からはこの方向は五竜岳などが邪魔をして、見ることはできません。これは贅沢で貴重な景色です。
山頂を後にして、五竜山荘で腹ごしらえをしてから遠見尾根に取りつきました。電車とバスの時間の関係もあり、少し急ぐ必要があり、ギアをちょっぴり上げて前に進みます。これが意外に効果的で、地図のコースタイムは4時間となっていますが、なんと3時間で歩いてしまいました。下りを苦手とする鋤柄さんもぴたりとついてきます。これは驚きのスピードでした。
*徒歩総時間/1日目・10時間00分、2日目・7時間40分
1日目・9月21日/扇沢(4:55)-種池山荘(8:40 9:05)-爺ヶ岳南峰(10:00 10:15)-冷池山荘・昼食(11:15 12:00)-鹿島槍ヶ岳(14:10 14:30)-キレット小屋(16:10)泊
2日目・9月22日/キレット小屋(4:55)-途中朝食休憩(6:00 6:25)-五竜岳(8:55 9:20)-五竜山荘(10:05 10:50)-ロープウェイ山頂(13:50)-ロープウェイふもと(14:05)-JR神城駅(14:25)
★脈絡のないきょうの一行
生方幸夫副幹事長の小沢一郎幹事長批判を端にした民主党の〝お家騒動〟、自民党みたい。
振り返れば、ガスがかかり始めた鹿島槍ヶ岳が佇んでいます。次なる目標はあれだ、と考えるとちょっとだけ気合いが入ります。爺ケ岳のピークである中峰はパスし、冷池山荘で昼食を済ませ水を補給し直して動きだします。山頂をめざしてひたすら前進です。同行の彼女は元気そのもので、登りはぐいぐい進んでいきます。日常的に水泳をやっているだけあって強い。脱帽です。
鹿島槍ヶ岳の山頂には5、6人が休んでいました。写真を撮って次なる目標へ前進です。山頂で一緒になった人に「これからキレット小屋をめざす」と話すと、一様に驚いていました。彼らはここから来た道を引き返すといいます。山頂からキレット小屋に行く人が少ないということなのでしょう。しかも進行方向にはガスが発生しています。これから先ストックはない方がよいと判断、短くしてザックにしまい込み、軍手をしっかりつけて難所にとりかかりました。
ガスが出て遠望が利かないのが功を奏してか、キレット状態の厳しいところは見えず岩場にはりつくようにしながら進みます。鹿島槍ヶ岳の北峰もパスして巻き道で小屋をめざしました。鎖場がいくつか出てきて、緊張感いっぱいで通過します。まさに土のひとつまみもない岩場の連続で、冒頭のように磊磊落落がぴったりの山道です。
小屋が視界に入るとほっとしました。動き始めて実に11時間15分で小屋に到着です。ほぼ予定どおりですが、やはり身体は疲れ切っていました。小屋は思ったとおり空いており、夕食時のビールと、出掛けにカミさんからもらったハワイみやげのレミーマルタンのうまかったこと。うまかったものといえばもう一つ、小屋で朝食に作ってもらった弁当があります。これがなんとウナギ弁当で量もあり美味でした。おすすめです。
★脈絡のないきょうの一行
自民党の貴方に投票した人のことを考えれば、離党の前に議員辞職が筋ですよ、鳩山邦夫さん。
深田久弥は空木岳のことを磊磊(らいらい)と表現していましたが、だとすれば、鹿島槍ヶ岳から五竜岳間のそれは磊磊落落(らいらいらくらく)という表現が似つかわしい、まさに岩場との戦いでもありました。鹿島槍ヶ岳の付け根部分に建つキレット小屋の夕食に同席した若者が話していましたが、「土のない登山道は厳しいですよ」というまさにそのとおりでした。
2002年9月21、22の両日この山にアタックしました。いつものことですが、またもや天気図とにらめっこです。(敬老の日が入ったため)先週に続く3連休は身体をウズウズさせます。天気が悪ければ、白砂山か女峰山、あるいは西丹沢の大室山にトライしてみようと考えていましたが、天気は安定基調に入っており以前から考えていた「鹿島槍と五竜」を決断しました。
そのことを何気なくメールで鋤柄さんに伝えたところ、同行したい旨の連絡。歩く時間は間違いなく10時間を超えますが、彼女の力量なら可能だろうとOKの返事を出しました。コースはもともと考えていたとおり、扇沢から種池山荘、爺ケ岳、冷池山荘、鹿島槍ヶ岳の山頂を踏んでキレット小屋泊り。翌日、五竜から遠見尾根で神城(かみしろ)に出て、電車とバスを使い扇沢に戻ることにしました。初日のキレット小屋までが時間的にも厳しいものがある、これを歩き切れるかどうかが今回のカギだ、そう決めて動き出しました。
真夜中に扇沢の駐車場に到着。そこで2時間ほど仮眠をとってまだ暗いうちから歩き始めます。長丁場になることははっきりしていますから、早めのスタートはセオリーどおりです。少々寝不足気味の身体は、思うように動いてくれません。30分歩いて休憩を繰り返しながら、なんとかごまかして種池山荘に到着。
山荘からいつか歩いた針ノ木岳が大きく見えます。足元に真っ赤なナナカマドが彩りを添えてくれており、そのみごとな赤は秋の到来を確実なものとしています。腹ごしらえを済ませてまず爺ケ岳をめざします。山荘から5分ほど歩いたところで、左手にどっしりした鹿島槍ヶ岳が目に入ってきました。特徴ある双耳峰が、青空に突き出しています。うん、やはり立派だ、と心の中でつぶやいていました。(次回につづく)
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鳩山内閣またしても支持率が下落(毎日新聞世論調査)。さもあらん。
二つの憲法というこの指摘、驚くほどズシッときます。まさに戦後日本の歴史はそうだったといえるのではないでしょうか。それも安保の方が優先されてきた、そう断言してもよさそうです。それをメディアが〝後押し〟していることも、摩訶不思議な現象です。
その典型ともいえるのが普天間基地移設問題です。沖縄県民の思いと、昨年の総選挙の民意は「普天間基地ノー」でした。それが外交にストレートに反映できない、不思議の国ニッポン。国民は普天間基地はいらない、といっているのですから政府はアメリカにそう伝えるだけのことではありませんか。
なぜそんな簡単なことができないのか。憲法より安保が優先されているからとしか考えようがありません。それをメディアが後押ししているこの現実を、どう見ればいいのでしょうか。不条理と非現実の地下世界の夢の中へと落ちていった、不思議の国のアリスはどう見るでしょうか。
翻って、この国は国内も密約だらけです。企業献金がその最たるものです。活字にならない(できない)密約があるからこそ、企業は政治家にカネを出すのです。〝一銭にもならないところへカネを出す〟経営者など、いるわけはありません。最近、かなりうやむや風になってきた、西松建設と民主党・小沢一郎幹事長の間にも、間違いなく密約があったはずです。核持ち込み密約や沖縄密約もさることながら、この西松・小沢密約問題にも国会はメスを入れてほしいものです。
この国は「密約大国」と言えそうですが、核や沖縄だけではなく、実はもっととてつもなく巨大な日米間の密約があるのではないか、私はそう疑ってやみません。これが杞憂であればよいのですが。
★脈絡のないきょうの一行
大雪のなかでも高知でサクラ開花の知らせ。春はすぐそこだぞー。
そして翌日の日曜日、お昼どきの食事中に誤嚥を起こしたらしくむせたそうです。この事態をみて、病院は誤嚥性肺炎の再来の危険があると判断し、食事の供与をストップしました。夜、この日二度目になりますが、私が病床にいったとき、声をかけるとうなずくだけでした。これは次なる段階に移らざるをえない事態を迎えていることになります。それは何か。病状の長期化を見込んで、療養型の老人病院に転院せざるをえないということです。
今の状態が続けば、特養ホームに帰ることはできません。それだけの設備と体制がないからです。それは母がお世話になっているところだけでなく、特養ホーム(以下、老人施設)全体に言えることです。病気がなければ寝たきり状態であっても、老人施設は基本的には受け入れてくれます。しかし、母のように腎臓機能が低下しており、肺炎を起こしたり呼吸困難を抱えた人への対応は、でき得ないのが現状です。
食事が取れなくなって、かりに胃ろう(口からではなく胃へ直接食物を注入する方法)手術を行った場合、その人を受け入れてくれる老人施設はかなり限定されます。それを行うのは医療行為になり、職員の数が不足しているからです。特養ホームなどの老人施設は、ある程度健康でなければ入れないし、一旦病気になったら戻ることすら困難になる、これが現実です。
病に臥した母の手をにぎりながら、そのぬくもりを感じつつ老人施設のあり方や、介護のあり方を改めて考えさせられています。折に触れて、母のその後を報告したいと思っています。
★脈絡のないきょうの一行
あさって12日は「10春闘勝利をめざす3.12千代田総行動」。いよいよ春闘本格稼動だ。
大正、昭和、平成と三つの時代を生き抜いてきた一人の女性が、89歳になって病床でたたかっています。声をかけても「うん、うん」としか言葉は返ってきません。白内障で目も見えづらくなっており、私の顔が識別できるかどうかも危ういものがあります。しかし、たたかっています。
貧しいくらしのなかで7人の子どもを育て上げた、ガンバリ屋の女でした。連れ合いのDVに耐えながら、子どもたちを守りたたかった母親でした。炭鉱にもぐり、石炭を掘りだす仕事をやったこともある、たくましい労働者でもありました。その母がいま、たたかっています。
私の手を握り返す温かいその手は、まだまだ力があります。痰の吸引のとき苦しくて暴れるそうです。医師は「大声を出したり、動くだけの元気があるほうがいい」と評価します。苦しくなったら、〝言葉帰り〟をして長崎弁で抗議します。覚えていないかと思えば、「暴れてごめんね」と看護師さんに謝る、心優しい母でもあります。
病床のかたわらで母の寝顔を見ていると、子どものように見えてきます。立場を違えて考えてみれば、かつて母は私(たち子ども)の寝顔を見ながら安堵の思いを抱いていたのではないでしょうか。ちょうど今の私と同じように。母の手のぬくもりを感じながらそんなことを考えている私です。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
日本航空で35歳以上の社員も特別早期退職者の対象に。有能な社員が去っていくぞ。
入院後の検査で、肺炎よりも腎臓機能の低下が深刻であることが判明しました。通常もっている腎臓の役割の1割しか働いていないといいます。もう少し数値が低下すると人工透析が必要となります。数値はぎりぎりのところで止まっており、母の腎臓は母の身体をかろうじて支えているようです。
担当医師から母の病状について前記のような説明を受けました。そのとき、当たり前といえばそうですが、延命治療の是非について問われました。母は不随意運動(脳内の小さな出血を原因とした無意識の頭の動き)があり、身体を長時間固定状態にしなければ透析はできないことから、透析治療は不可能に近いものとなっています。さらに、もともと肺機能が弱く痰がからんだり、呼吸困難に陥る危険性があります。その際、呼吸のためのパイプを通す手術が必要となります。
こういう事態が到来した場合、手術をするかどうかの医師からの質問でした。それはもう明らかに延命治療です。私は、自分でも驚くほど迷いませんでした。「手術は必要ありません」と答えたのです。
この問題を普段から考えているわけではありません。しかし私は、それしか選択の余地はない、と瞬時に考えていました。89歳になった母に、手術が耐えられるでしょうか。否、であります。その事態が起きた場合は静かに天命を待たせたい、そう思うのです。
病室の母は酸素吸入用の管を鼻につけ、栄養補給の点滴を受けています。その姿は痛々しいものがあります。呼吸は苦しそうです。私を見分けきれているのか疑問ですが、腕を伸ばしててのひらを広げてきます。それを握ってやるとしっかり握り返してきます。その手は温かく、遠い昔のことを思い出させるようでした。(次回に続く)
★脈絡のないきょうの一行
迷走から逆走に変わった観の普天間基地移設問題。しっかりしろよ、民主党。
村営宿舎より少し上にある、白馬山頂小屋の真ん中を抜けるような形で頂上をめざします。昼休みの時間を取りすぎてしまったのでしょうか、山頂は登っていた人の数より少ない感じでした。天気は雲が垂れ下がってきており、今にも降りだしそうな気配です。杓子岳の写真を撮りたいと思い待ちましたが、タイムアウトです。
下山は、雪渓のところまで順調でしたが、ここから突然と言っていいほど、激しい雨となりました。慌てて雨具をザックから取り出して身にまとったのですが、間に合わず、衣類はびしょ濡れ状態となりました。山の天気の変化の早さを学んだ瞬間でもありました。その豪雨状態のなかで雪渓下りをしたわけですが、筋肉が極限状態にきていることを感じていました。
白馬尻荘あたりで雨はやっと小康状態となり、小屋の中で一休みです。こういうときの小屋はありがたい。小屋を後にして林道にもどったあたりで、ニホンカモシカがたたずんでいるところに出会いました。
この雨の中を歩いてくるヒトなどいないと思ったのでしょうか。驚いたのは向こうも同じだったのでしょう、一瞬固まりました。じっとにらみ合いが続きました。とはいっても20秒程度でしょうか。にらみ合ったまま、写真を撮りたいと思いザックを下ろしながらカモシカに近づいていきました。が、向こう側がシビレを切らしたように、林の中に逃げていきました。八ヶ岳などで見るシカと違い、角に特徴のあるニホンカモシカ、なかなか立派でした。
駐車場にもどって、車の中で着替えました。が、前日の分はまだ乾いておらず予備も持っていなかったことから、次の空木岳を断念し帰路につきました。白馬岳は2006年10月にも、新潟県で一番高い小蓮華山(2,769M)に登ったときにもアタックしました。このときは猿倉とは反対の新潟県側の蓮華温泉から歩いています。
*徒歩総時間・9時間15分
猿倉駐車場(5:30)-白馬尻荘(6:30 6:45)-(途中休憩15分×2回)-村営頂上宿舎(11:15 11:55)-白馬岳頂上(12:35 12:50)-白馬尻荘(15:50 16:15)-猿倉駐車場(17:00)
★脈絡のないきょうの一行
奈良県でまたしても子への虐待殺人。5歳の子はどんなに心細かったか、それを思うと心が痛む。
当時はまだ南アルプスの広河原まで車が入れましたので、仙丈ケ岳から下山してきてマイカーに飛び乗り、中央高速道で豊科ICに出て白馬岳のふもとをめざしました。ICを降りたのは午後8時を過ぎており周辺は真っ暗、しかもすごい雨です。ワイパーをフル回転させてその雨を衝いて、とにかく走りました。白馬岳のふもと猿倉の駐車場に着いたのは11時をまわっていました。
夏の夜明けは早く、4時頃から明るくなります。人の声にも誘われるように目を覚まして準備です。空は少しだけですが青空が見えており、「いい天気になるのでは」と思ったのですが、これが大ハズレでした。
猿倉山荘の横を通り抜け、山道に入ります。さすが人気の山だけあって、前日の仙丈ケ岳より登山客は多めです。白馬尻荘で一休みしていると轟音を響かせてヘリコプターが飛んできました。何事かと思ってみていますと、ホバーリングしながら荷物を降ろして、ゴミでしょうか新たな荷物を引き上げています。その手早さに感心しきりです。
この山荘を過ぎて10分足らずで雪渓に到達しました。三大雪渓(針の木、剣、白馬)のなかではここが一番大きいといわれています。針の木はすでに経験済みで、2ヶ所目の挑戦です。持ってきたアイゼンを装てんして歩きます。夏の雪渓は気持ちいい。スプーン・カット状の場所を選んで進みます。しかし、気持ちいいと感じたのは30分程度で、うんざりしてきます。結局2時間半も雪の上を歩くことになりました。
やっとの思いで雪渓とお別れです。歩いてきた道を振り返ると、アリの行列のように登山者が列を作って登ってきます。少し優越感を抱きながら、アイゼンを外してお花畑を見ながら前進です。村営頂上宿舎の直下のお花畑は、広々としてみごとでした。この山で初めてウルップソウを見ました。可憐な花ですね。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
チリからの津波のスピードはジェット機なみだという。自然はすごい。