ヘボやんの独り言
09« 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30. 31.»11
2009/10/30 [Fri] 10:11:55 » E d i t
 食事を終わらせて周辺を散歩していたら、小屋から南側に少し上った地点から高妻山の山頂が見えました。立派です。が、楕円形をタテにしたような山容は、頂上直下が急登であることを物語っており、翌日、その予想は的中しました。

 2日目。

 雲が邪魔して日の出は見せてくれませんでしたが、歩くにはまあまあの天気です。朝食を済ませて、荷物を最小限にサブザックにまとめて、5時半にスタート。五地蔵岳の手前でニッコウキスゲの群落に出会いました。人の手の届きそうのない急斜面に、ここぞとばかりに咲き誇っていました。しばし見とれたものです。

 五地蔵岳から5つほどの小ピークをやり過ごしたら、前日見た急登です。そんなにあるわけはないのですが、45度はあるのではないかと思うほどの厳しさです。休憩を繰り返し、視界が広がったところから5分ほどで山頂に着きました。頂上には朽ちかけた山頂を示す標柱があるのみで、他の百名山と比べると見劣りです。途中から出てきたガスは上がることはなく、この日は結局、展望を得ることは出来ませんでした。

 何枚かの写真を撮って下山を開始。途中、小屋で一緒だったご夫婦連れ、さらに小屋に泊らずに登ってきた5組ほどの登山者と出会いました。意外に登山者が多いことに驚きです。百名山の〝集客力〟なのかもしれません。小屋に戻って、荷物を整理しなおして牧場まで一気に下りました。この山行は、「毎月登山」8年目の記録でもありました。

*徒歩総時間・1日目・1時間55分、2日目・5時間45分
 1日目/戸隠牧場駐車場(14:45)-不動避難小屋(16:40)泊
 2日目/不動避難小屋(5:30)-五地蔵岳(6:15 6:25)-高妻山(8:10 8:25)-五地蔵岳(9:35)-不動避難小屋(10:20 10:45)-戸隠牧場駐車場(12:05)

★脈絡のないきょうの一行
国立大学が独自にやっている奨学金、応募が5年間で10倍に増加。鳩山政権、どう見るか。
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2009/10/29 [Thu] 13:42:28 » E d i t
 百名山35座目の報告になります。この山も百名山では、あまり知られておらず目立たない存在ではないでしょうか。探すのは大変ですが、一度覚えてしまえば簡単です。戸隠山といえば多くの人が知っていると思いますが、そのすぐそばにあります。この山には1999年7月にチャレンジしました。

 戸隠もそうですがこの山、信仰の山です。不動小屋という無人小屋がありここに泊って翌日アタックしましたが、その途中に「五地蔵」「六弥勒」「七薬師」「八観音」「九勢至」そして山頂近くには「十阿弥陀」という小さな標柱が建っていました。この山に登る人たちはこの標柱を目標にがんばっているのでしょう。深田久弥の百名山には「一不動、二釈迦、三文殊、四普賢があり、高妻山から先は十一阿しゅく、十二大日となり乙妻山(注・戸隠山から行けば高妻山の先)山頂には虚空菩薩があった」と記しています。

 宗教的なちょいロマンのあるこの山です。99年7月10日土曜日、前日飲み過ぎて最初予定していた八ヶ岳をやめて、この山にしました。いつもは暗いうちから家を出るのですが、この日は午前9時半に車でスタートです。登山口の戸隠牧場に着いたのが午後2時半、こんなに遅い時間に登山を開始したのも初めてです。というのもこの日は2時間ほどで山小屋に到着することが分っていたからです。

 まず牧場のなかを歩きます。無人小屋泊りですから食糧などでザックは当然、重くなります。荷物が肩に食い込み少々つらい。不動滝手前から急登になりあえぎます。突然、という感じで滝が現われました。さほど大きな滝ではないのですが、五地蔵岳を背景にしてどっしりしています。その滝を巻くような形で鎖場がつづき、慎重にそこを歩いて滝の上部に到着。ここから小屋までがまたしても急登です。

 ほうほうの体(這うような様子からきた言葉)で、小屋に到着。その周辺には大学生らしき若者たちのグループが2張りのテントを構え、夕食の支度をしていました。小屋の中は夫婦らしきカップルと男性一人だけで、計4人の〝貸し切り〟です。小屋に到着と同時に水の補給行動から始まりましたが、これが遠かった。往復30分ほどかかり、小屋にもどってきたら学生たちは食事を済ませていました。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
4日目に3人救出の漁船の遭難。よくぞ助かった、の一言だが行方不明者が気になる。

2009/10/28 [Wed] 15:48:27 » E d i t
 災害が発生したあと、被災者の生活をどう再建するかが重要な課題の一つです。岩手・宮城内陸地震の場合もそうでした。急がなければならないのは、住む場所の確保すなわち住宅問題です。この地震による住宅被害は、建物全壊・23棟、建物半壊・65棟、建物一部損壊・1,090棟となっています。

 調査団は荒砥沢ダムを見た後、全壊した住宅を建て直したというお宅を拝見しました。国と県からの補助金によって、新しい家が建っていました。山の中の一軒家ですが、震源地に近かったこともあり崩壊しました。さいわいに人的被害はなかったものの、住める状態ではありませんでした。早速、栗原市の市議らが応援にかけつけ、短期間で自宅再建ができたのです。

 この例はいい方です。たとえば、今年8月に近くまで行った関係で、中越沖地震(07年7月)による柏崎市の仮設住宅を見てきましたが、そこにはまだ人が住んでいました。阪神・淡路大震災(95年1月)は来年で満15年となりますが、未だに仮設住宅に住んでいる人がいるのです。この被災者の住宅問題、いや住宅に限らず被災者支援全般の政治のあり方が問われていると思います。私は、その国の政治の良し悪しをはかるバロメーターとして①お年寄りの扱い②子どもの扱い③災害被災者の扱い――すなわち、社会的弱者の扱いがどうなっているかを知れば分る、と主張してきました。あなたはいかがでしょうか。

 以上、岩手・宮城内陸地震の調査報告ですが、この災害問題、じっくり考えてみたいと思います。私は、この問題をライフワークとしてとらえています。きっかけは雲仙普賢岳の大火砕流災害(91年6月)でした。この火砕流で当時勤めていた毎日新聞社の関係者が犠牲となり、私自身が長崎出身ということもあり、被災者支援に乗り出したのです。有楽町の数寄屋橋で義援金募金を呼びかけたり、支援のためにワカメの販売なども行いました。

 以降、災害問題にかかわりながら防災やまちづくりの専門家、さらに地質や気象、建築などの専門家の友人を得ています。北海道西南沖地震(93年7月・死者230名、行方不明者29名)で被害に遭った奥尻島のみなさんと行動をともにしたことがあります。最近では、中越沖地震のときに、4日後に現地に入りました。柏崎刈羽原発近くの道路に大きな亀裂が入っている状態を見ながら、恐ろしさを感じたものです。「災害列島」といっても過言ではない日本。自分がいつでも被災者になる恐れをもったこの国。被災者の生活再建は、人間性の復活でもありその立場から運動をすすめているつもりです。

★脈絡のないきょうの一行
長文の鳩山新首相の所信表明演説。後期高齢者医療制度はもとに戻す、と言えば高得点だったが…。
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2009/10/26 [Mon] 11:49:51 » E d i t
 先週の金曜日、モデムの具合が悪くなりネットの接続ができなくなってしまいました。どこに不具合が生じたのか分かりません。サーバーの電話相談オペレーターのいうとおり操作してみたのですが、結論的にモデムに原因があることになり、交換が決まりました。不便なことに、新しいものが届くのに時間がかかるということで、それが届いたのがきょうの午前。やっとこのブログも〝オンエアー〟することができました。すみません。

 モデムが故障した先週金曜日・23日は、中越地震が起きてちょうど5年目。あの地震で衝撃的だったのは車に閉じ込められた親子3人の救出劇でした。道路の崩落により乗用車が土砂に押し潰されており、その車の中に生存者がいることが確認されました。東京消防庁の特別レスキュー隊がかけつけ、救出活動が展開され女の子と母親は残念ながら亡くなりましたが、幼い男の子が助け出されました。テレビカメラはその模様を逐一伝え、救出の瞬間、恐らく国中に拍手が沸き起こったことでしょう。

 各地に災害が起きた日にメディアがいろいろな角度から取り上げていますが、これはいいことだと思います。その災害を忘れないということと同時に、地震災害の怖さを改めて確認し防災意識を高めるきっかけにもなるからです。災害には地震、風、水、火、交通、労働などさまざまありますが、なかでも怖いのは地震です。予告なしにやってきますし、大きなものになれば被害は甚大だからです。

 岩手・宮城内陸地震もそうでした。日本列島は「火山国」であり、太平洋プレートが居座っており、いつ大地震が起きても不思議ではありません。震源地に近かった荒砥沢ダム周辺は、地形が変わるほどのエネルギーが加わったのです。そのダムを放置しておいては、二次災害の恐れがあり、修復作業が進められていました。土石を運ぶダンプカーが忙しそうに走り回っていました。ダム湖は水抜きをして、底に当たるところにはショベルカーが持ち込まれ、次々と到着するダンプに土石が積み込まれていました。

 同時に水没するだろうと思われる場所には、金網のようなもので土留め作業がすすめられていました。それらの作業が終わった後、問題は148㍍も崩落した場所をどうするかです。崩落した面全体に金網を張りめぐらすことはかなり大変です。いろいろな議論があるようですが、その一つに観光資源として活用してはどうか、というものもあるそうです。私はこの意見、少しですが乗ります。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
新政権、普天間問題をどうする。沖縄県民のこころも、国民の心も「廃止」しかない。
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2009/10/21 [Wed] 12:26:29 » E d i t
 調査はまず、荒砥沢ダムから行われました。栗原市役所から車で1時間程度ほどです。このダムは前述しましたように、山の崩落により大量の土砂がダムの水がめに流れ込み、深刻な事態は免れたものの大きな爪痕を残しました。現場近くまで入ることができず、ダムのえん堤近くから少し上がったところから見えるというので、そこに案内してもらいました。

 その高台からダムと崩落現場が一望できます。これはすごい。むき出しになった山肌が地震エネルギーのすごさを誇示しているようでした。一番大きな崩落が起きた場所の手前に、樹木が残る塊(かたまり)が見えます。この塊、もともとは小高い山の頂上だったといいます。ところが150メートル近く落ち込んだことにより、残った樹林帯のほうが高くなってしまいました。

 この説明は少し難しいのですが、ドンと落ち込んだ部分が、前述のように300㍍移動したのです。その結果、動いた土石がダムの水を押しやり津波を起こしました。さいわいに津波は人的被害をもたらす大きさではありませんでした。それにつけても、すさまじいエネルギーです。左右1kmはあるでしょう。それが最高148㍍に渡って、いわば陥没したのです。

 この地震は防災科学技術研究所によりますと、加速度で4000ガルを記録し、これは国内最高だといいます。しかも断層近くでは4G(重力加速度の4倍)を超える大きな地震動を観測しています。従って、もし震源地が市街地に近いところであったらどうなったか、被害が広がったであろうことは想像に難くありません。

 私には加速度単位がいかほどのものかよく分りませんが、1ガルは1秒に1㎝毎秒の加速度の大きさと定義されています。これを上記に当てはめてみますと、1秒間に4000㎝、つまり40メートルの加速度が加わったことになります。そのエネルギーがどの程度のものか、いま一つイメージがわかないのですが現場の状況はやはり、すさまじいエネルギーがかかったことを納得させてくれました。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
西山善文郵政社長、辞任へ。KY(空気が読めない)人種の典型を作った〝功績〟は大。
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2009/10/19 [Mon] 17:21:26 » E d i t
 昨、2008年6月14日(土)午前8時43分頃、私は東京の自宅で揺れを感じました。普段より少し長めの揺れは、どこかで大きな被害が起きているのでは、と思わせるほどでした。その予感は的中し、岩手県内陸南部を震源地とする岩手・宮城内陸地震が起きていたのです。

 この地震は仙台市の北約90kmで発生した、マグニチュード 7.2(気象庁暫定値)のやや強めのものでした。東京からは北北東約390kmとかなり遠方地点となりますが、もしや、と心配するほどの揺れを感じたものです。この地震は、岩手県奥州市と宮城県栗原市において最大震度6強を観測し、両市を中心に被害をもたらしました。被害の特徴として、同じ規模の地震と比較して、建物被害が少なく土砂災害が多いことがあげられています。

 気象庁のまとめによると、被害は2009年7月1日現在で①死者・行方不明者23名②負傷者・448名③建物全壊・23棟④建物半壊・65棟⑤建物一部損壊・1,090棟⑥火災・4件 ――となっています。火災が少なかったのは、震源地近くは山林が多く住宅密集地が離れたところだったことによるものと思われます。

 しかし、栗原市の山中に位地する荒砥沢(あらとざわ)ダム上流で大規模崩落が起こりました。その最大落差は148mに達しており、この崩落地の中で土砂が水平距離で300m以上も移動したといいます。それらは、地震のエネルギーがいかほどのものだったかを見せつけています。崩落により荒砥沢ダムには津波が発生しましたが、崩落土砂の量が少なかったことや、梅雨入りを前に貯水量を下げていたこともあって、津波がダムの堤体を越えることはなく、「第二のバイオントダムとならずに済んだ」(※・注)と研究者が語っています。

 ※バイオントダム/イタリアのヴェネト州ピアーヴェ川の支流バイオント川の深い渓谷に作られた、アーチ型のダム。1963年に大規模な地すべりを起こしてダムとしては放棄された( Wikipedia)。

 この岩手・宮城内陸地震の現地調査と、被災者のみなさんたちとの交流集会が10月17、18の両日行われ、参加しました。その報告をしながら、災害問題を考えたいと思います。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
米軍普天間移設問題、まず、日米合意の見直しからだろう。どこまでやれるか、新政権。
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2009/10/16 [Fri] 10:34:57 » E d i t
 地元の人たちはこの問題をどう考えてきたのでしょうか。経過的にはすでに述べましたように、多くの住民が反対し「建設反対」派の町長が誕生したこともありました。しかし、長い年月を経るなかで切り崩しもされ、当事者のみなさんも年をとり行政の方針に従わざるを得ない状況に追い込まれていきました。そのあたりについて、地元の建設反対グループ「八ッ場ダムをストップさせる会」のブログは以下のように訴えています。

                      ◇=◇=◇=◇
 見出し/八ッ場ダムは由緒ある温泉街をズタズタにしてきました。ダムのために苦痛の日々を送り、疲弊してきた50年の歴史。
 八ッ場ダムの話しが浮上してきたのが1952年、その後、吾妻川の酸性問題で一時立ち消えになりましたが、東京オリンピックがあった64年に中和工事が完成し、ダム問題が再燃しました。地元の人々は長い間、ダム反対の姿勢を堅持しました。しかし、それは精神的にも肉体的にも大変な苦痛を伴うものでした。ダム起業者の手段を選ばぬ切り崩しに対抗するため、対策会議と抗議行動に追われる日々が続きました。何をするにもダム問題が関係し、片時もダムのことが頭から離れることのない日を送ることを余儀なくされました。やがて、疲弊した人々はダム建設を容認せざるをえなくなりました。
                      ◇=◇=◇=◇

 決して気負いのない淡々とした文章ですが、当事者のみなさんの気持ちが表れていると思います。自分の生まれ育った場所を守ろう、ふるさとを守りたい、ここに住みつづけたい、景勝地を残したい、という思いは半世紀の長いたたかいで、間違いなく疲弊したのです。その気持ちを私たちは理解しなければならないと思います。

 苦渋の決断によってダム建設を容認した。しかし、鳩山内閣になってそれが中止になるという憤りは理解できます。「今さら中止はないだろう」という心情は痛いほど分かります。この思いを、国、とりわけ前原国交相は真摯に受け止めるべきです。こういう事態をつくったのは自民党政権だ、と言ったところで解決する問題でないことははっきりしています。住民のみなさんとの血の通った対話こそが求められています。

 その上で生活再建問題にも手をつけながら、解決の道筋をつくってほしいものです。決して、「強引にダム建設を進めたのだから、強引に中止してもいい」ということになってはなりません。それでは自民党政権と同じです。今まさに「住民が主人公」の温かい政治が八ッ場に求められています。政治とは「①まつりごと。②人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。権力・政策・支配・自治にかかわる現象。主として国家の統治作用を指すが、それ以外の社会集団および集団間にもこの概念は適用できる。」(広辞苑)ものなのですから。

★脈絡のないきょうの一行
90兆円を超える過去最大の概算予算。財源論争に引火だ。
2009/10/14 [Wed] 10:56:59 » E d i t
 10月10日、共産党の主催で群馬県前橋市内において「いま改めて科学的・大局的に検証する八ッ場ダム問題学習会」が開かれています。この会には300人が参加、意見交換がなされ発言者とその内容について、12日付けの同党機関紙「赤旗」が掲載しています。その中に「八ッ場ダムをストップさせる市民の会」の連絡会代表の嶋津暉之さんが、『中止で高くつくのは誤解だ』という発言をしています。この問題、確かにメディアは正確に伝えないばかりか間違った報道をしているように見受けられます。以下、「赤旗」に掲載されたその一部を転載させていただきます。

                         ◇=◇=◇
 八ッ場ダム建設をめぐっていくつかの誤った情報があります。検証してみましょう。
 一つは「中止したほうが高くつく」という誤りです。同ダム事業費は4600億円(残りは1390億円)としますが継続すれば増額が予想されます。
 遅れている代替地や付け替え国道など関連事業の進行状況を考えれば、予算の追加は必至です。さらにこれから行う地滑り対策と東電への減電補償をあわせると、さらに1000億円ぐらいの増加が見込まれます。これに残った事業費1390億円を足すと2390億円が必要です。
 一方中止した場合、国交省が示す生活関連の1390億円の残事業費のうち770億円です。これを比較した議論をすべきです。
 (略)
 次は「大渇水が来た時に八ッ場ダムがなかったらどうするのか」という話です。
 大渇水が来るかは分かりません。しかし渇水の恐れがある夏場に果す役割が、同ダムは非常に小さいのです。同ダムは夏場になると洪水に備えて、28メートル水位を下げます。そのため貯水量は2500万立方メートルしかありません。
 一方、利根川にある11基のダムの貯水量は4億5000万立法メートルです。八ッ場ダムが出来てもたった5%増えるだけ。同ダムの過大評価といえます
 (略)
                          ◇=◇=◇

 嶋津さんのこの発言、説得力があると思います。建設費については、工事の進捗状況との関係でみればもっとかかるであろうことが予想されますが、この問題を除外してもさらに2390億円が必要だといいます。これはもう無駄遣いです。膨らむ建設費用と〝必要性〟だけをとってみても、八ッ場ダムは中止すべき対象です。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
自衛隊のインド洋での給油活動、期限切れを待つ前に撤収あってもいいのでは。
2009/10/13 [Tue] 10:23:04 » E d i t
 前回は、ダム建設をこのまま進めた場合の費用問題について述べましたが、今回は自民党を始めダム建設推進派の「建設は必要である」という主張について、本当にそうなのかを考えてみたいと思います。

 このダム建設の目的は、もともとは「治水」でした。この項の最初に述べましたように、カスリーン台風被害が建設への引き金になっています。その後、首都圏で水が不足する事態も生まれ、「利水」も目的のなかに入りました。従って治水と利水がこのダム建設の大きな目標となったのです。

 ということは、治水と利水の両方とも必要なくなれば八ッ場ダムは不要ということになります。実はそうなのです。治水も利水も下流部では必要なくなっているのです。まず、治水で見てみますと、カスリーン台風以降この計画が出された50年余の間に、利根川の堤防強化工事はすすめられました。その結果、少々の大型台風や大雨にも対応できるほどになっているのです。しかも最近の護岸強化技術は進んでおり、専門家も太鼓判を押すほどです。

 利水はどうでしょうか。この間、利根川水系をはじめそのほかのところに小規模ダム建設がすすみ解決されてきました。しかも一番深刻だと言われた東京都は、地下水の利用によって大幅に緩和されました。しかも、人口減(少子化)傾向もあり、水の量そのものも少なくて済むようになっているのです。

 つまり、客観的データは「八ッ場ダム不要」を無言のうちに語っているのです。その現実を無視して、推進派は遮二無二なってダム建設へと走っているのです。ダム建設の理由となった治水も利水も事実上不要になったにもかかわらず、「すでにお金を投入し工事もすすんでおり、移転した人も多数いるから」というふうに論旨が変わってきているのです。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
鳩山内閣の外交、日・中・韓、アフガン、パキスタンとやりますねー。対話外交はOKだ。
2009/10/09 [Fri] 11:33:45 » E d i t
 台風18号は信越、関東、東北地方を縦断し去っていきましたが、被害はなかったでしょうか。何人かの犠牲者が出たことは残念でした。災害問題もそのうち、じっくり考えてみたいと思っています。さて前回、八ッ場ダムの建設費全体がもっと膨らむのではないかということを指摘しました。改めて「八ッ場あしたの会」がまとめたものを再録・整理してみます。

 ①付替え国道は工事進捗率と事業費執行率から見て、事業費がかなり不足
 平成20年度末までの付替国道の事業費執行率はすでに89%に達しているが、完成区間は6%にすぎず、残り11%の事業費で完成させるのは至難のことである。さらに、付替国道は4車線の計画であるのに、2車線の工事しか行われておらず、4車線にするためにはかなりの追加工事費が必要となる。

 ②東電への減電補償が数百億円になる
 八ッ場ダムに吾妻川の水をためるためには、東京電力㈱の水力発電所に現在送られている流量の大半をカットすることが必要である。八ッ場ダムの貯水による影響はダム周辺の発電所から利根川合流点の発電所まで及ぶので、減電補償額は数百億円の規模になると予想される。

 ③試験湛水後、地すべりが頻発で大滝ダムのように数百億円以上の対策工事が必要
 八ッ場ダムの貯水池周辺では22箇所も地すべり危険箇所があるので、ダム本体が完成して試験湛水をはじめれば、大滝ダム以上の規模で貯水池周辺において地すべりが発生し、その対策工事に何百億円という事業費が必要となることが予想される。

 ということになります。①は字義通りで残り11%の資金ではとうてい予定どおりにはいきません。②ついていえば全く補償交渉は行われていません。従ってその多寡がどうなるのか不明です。しかも補償期間は一時期なのか、永久なのかも不明です。このダム、東電を儲けさせるためのものでは、と疑念を持ちたくなります。この問題では2週間ほど前しんぶん「赤旗」が問題を指摘していました。③は想像を絶します。ダムは大量の水を蓄えるわけですから、周辺に影響を及ぼすことは当然です。きちんとした対応をしなければ、新たな災害(人災ですが)が発生することも考えられます。(次回につづく)

 ※お詫びと訂正/この間の記述で「川原湯」が「河原湯」になっていた、というご指摘をいただきました。ご指摘にお礼を申し上げ、訂正させていただきます。

★脈絡のないきょうの一行
生活保護受給者が171万9971人になり、170万人を超えたのは45年ぶりという。うーん。
2009/10/08 [Thu] 11:46:39 » E d i t
 それでは、94年以降、道路工事が始まったダム建設の進捗状況はどうなっているのでしょうか。水没予定の国道145号線のバイパス工事と、県道が建設中です。この道路は8割近く完成しているという報道も見かけますが、実際は今年3月末で6%が完成しているに過ぎない(「八ッ場あしたの会」※注)といいます。JR吾妻線の付け替え工事も進んでいます。ダム本体の工事については、最近よく写真で見かけますが基礎部分のほんの一部が完成したばかりです。

 道路の付替え工事は雨に弱い145号線が強化され、JR吾妻線もトンネル区間が多くなり、災害対応で改善されるという意見もあります。このような有利な面を評価して、観光客が増えるのではないかという期待感があります。しかしその対極に、川原湯温泉の水没で観光客が減るという見方もあり、評価は分かれています。

 このダム建設費は何故か増え続けています。最近取り沙汰されている建設費・4600億円は04年に2100億円から修正されたものです。なんと、倍以上になっているではありませんか。この事態に対して、ダム建設反対派は起債の利息を含めると8800億円になるという試算を示し、日本のダム建設では歴史上最高額になると指摘しています。ダム推進派は「すでに建設費の7割を使っているから、ここで中止する訳にはいかない」と主張していますが、道路の整備とダム本体の柱部分だけで7割を使ったとしたら、あとの3割で出来上がるとは到底考えられず、建設費がさらに膨らむであろうことは容易に想像できます。

 それに加え、「八ッ場あしたの会」は①東電への減電補償が数百億になる②ダムに水が入った場合周辺部に地すべりが起きやすくなり、その対策工事に数百億円の工事費が必要になる――ことをあげています。この問題はのちほど詳しく触れますが、この問題についてメディアがほとんど取り上げていません。何やら変です。(次回につづく)

 ※注・「八ッ場あしたの会」/2006年10月、八ッ場ダムを考える会会員有志らによる東京でのコンサート「加藤登紀子と仲間たちが唄う 八ッ場いのちの輝き」を出発点として、2007年1月発足しています。目的の一つに「半世紀前より水没予定地とされてきた『八ッ場』と周辺地域の苦悩に深く共感し、地元を尊重しながら八ッ場に持続可能な暮らしを取り戻す支援活動を粘り強くすすめる」を掲げています。

★脈絡のないきょうの一行
生活保護の母子加算復活へ動きが始まった。もう一つ、高齢者加算も復活してほしい。
2009/10/07 [Wed] 13:27:09 » E d i t
 ダム建設反対派を「説得」し反対運動の沈静化を狙って、行政側は川原湯温泉をはじめ地域の生活再建策を打ち出しました。そのための法律的措置の一つとして、「水源地域対策特別措置法」が制定(73年)されています。この法律は受益者である吾妻川の下流の地方公共団体にもダム建設費の一部を負担させようというものです。この法律に基づいて東京都も拠出し、あの石原都知事が「ダム建設を中止するならカネを返せ」と主張する根拠となっています。

 さらに建設省は吾妻峡の保存のためにとして、ダムの建設場所を600㍍ほど上流に移動させることも表明しました。その結果、吾妻峡の4分の3は残ることになりました。このような一種の懐柔戦略により、1990年の長野原町長選挙でダム建設推進派が選出され、92年に長野原町、群馬県、建設省との間で建設推進を前提とした協定書が結ばれたのです。この協定に基づいて94年にダム建設の最初の工事として工事用道路の建設が始まり、2001年に長野原町内のダム工事用地を買収する際の補償基準が成立しました。

 この補償基準が決まって以降、住民の流出が始まり2005年末時点で、当初の半数以上の世帯が転出しました。さらに2006年4月現在では、全水没地区である川原湯・川原畑では代替地への移転希望世帯は50世帯あまりと、当初世帯の5分1以下になってしまったといいます。

 これはつまり、地域外に8割の世帯が移転したことになります。その理由は、①移転代替地が完成するまでに時間がかかりそうだということ②代替地予定地の価格が住民の希望したものより高すぎたこと③移転の希望をもっていた人たちが町内外のほかの土地を選択したこと――などが上げられています。これは結果的に国の思うツボだったといえます。いや、移転代替地の完成の遅れや価格の高さは、住民を諦めさせる役割を果たしており、私流的に言わせていただければ〝未必の故意〟だったと疑わずにはいられません。

 移転代替地は、「現地再建方式」と呼ばれる方法が採られ、ダム湖より上の山腹部(将来的には湖畔と呼ばれる部分)に建設されることになっています。このやり方は「ずり上がり方式」とも呼ばれていますが、これが分譲価格を引き上げる原因となっています。それが事前に分かっていながら、工事を進めてきた国の責任は免れません。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
足利事件で菅谷さんは、「検事の初調査の日は否定、翌日自白」(下野新聞)。取り調べのあり方に疑義。
2009/10/05 [Mon] 17:51:31 » E d i t
 1952年にダム建設計画が発表されましたが、吾妻川上流の白砂川や万座川の水質が強酸性だったため、この解決策が急がれました。強酸性水はダムを建設した場合、当時の建設技術では鉄骨やコンクリートの腐食が早まるというダメージが大きく、この解決策が求められたのです。強酸性を証明するかのように、白砂川の上流にある「尻焼温泉」の河原は、酸化して真っ赤になっています。ぜひ行ってみてください、ここの温泉もいいですよ。

 横道にそれますが、この白砂川の名前の由来となっているのが、前述の尻焼温泉から車で20分ほど先の、野反湖に登山口を持っている白砂山(しらすなやま)です。この山は「日本200名山」の一つに数えられ、新潟県、長野県、群馬県の三県にまたがっており、いい山で、おすすめです。ついでにもう一つ山の紹介。野反湖を見下ろす位置になる「八間山」というのがあり、ここのふもとに地元の子どもたちが育てている高山植物の女王「コマクサ」の群落があります(今もあるはずです)。道路からすぐで、ハイヒールでも行けます。コマクサを見たことのない人は、7月中旬にぜひどうぞ。

 強酸性の水を中和する工事(「吾妻川総合開発事業」)が進められ、改善を見ました。そのことにより、1967年に現在の予定地にダム建設が決定されたのです。しかし、この計画への反対運動が起きました。一つは、名湯として名高い「川原湯(かわらゆ)温泉」が水没し、340世帯が移動しなければならなかったからです。そしてもう一つはこの地域の名勝である「吾妻峡」の中間部にあたることから、ここも水没の憂き目にあったからです。

 さらにこれも大きな問題になったのですが、ダム建設によって固定資産税が水没地を擁する長野原町ではなく、下流の吾妻町(現・東吾妻町)に落ちることになったためです。これは町政にとってゆゆしき問題です。加えて、「首都圏に住む人たちのために、水没地域に住む人たちがなぜ犠牲にならなければならないのか」という純粋な疑問も沸き起こりました。

 長野原町議会は「建設絶対反対」を決議し、町全体を巻き込んだ反対運動が盛り上がったのです。その反対運動の影響は、長野原だけでなく利根川本川の「沼田ダム計画」にも飛び火し、これは頓挫してしまいました。河原湯温泉街では建設省職員が街を歩くと、鐘や太鼓で追い返されるという事態がつづいたといいます。70年代に入ってからは、74年に建設反対を唱える町長が誕生し、建設のめどはさらに遠のくことになります。この頃、ダム建設が進捗しない代名詞として「東の八ッ場、西の大滝」という言葉が生まれたといいます。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
中川昭一元財務大臣、最後まで不摂生がたたったのではないだろうか。合掌。
2009/10/02 [Fri] 11:15:04 » E d i t
 前回のカスリーン台風に関連したエピソードを。一つは、利根川の大規模な堤防破壊現場に、今でもカスリーン公園(大利根町)として残っているそうです。そしてもう一つは、埼玉県の被害にあった市町村では、市街地の電柱に当時の浸水深度を示す赤線が引いてあるそうです( Wikipedia)。幸手市や春日部市にお住まいの皆さん、チェックしてみてください。

 八ッ場ダム建設予定地は、群馬県吾妻郡長野原町で利根川の支流である吾妻川(あがつまがわ)の中流部に位置します。JRでは吾妻線、国道は長野原から沼田までの49.8kmの145号線沿いになります。この道は沼田から行く場合、草津温泉、白根山麓を経てスキーのメッカ・志賀高原方面へ、さらに別のルートを利用すれば軽井沢へ抜ける道ともなっています。私は山に登るときに何回か利用しています。

 この国道、今年9月の連休(シルバーウィーク)中にかなり混雑したそうです。そうです。話題になった八ッ場ダムの建設現場を見ようという野次馬の車によってです。八ッ場ダム工事関係者によると「通常の休日はせいぜい1日300人くらいだが、この間は連日1300人が押し寄せた」(J-CASTニュース)といいます。人が集まれば地元にお金が落ちると思われがちですが、軽井沢や草津方面に行く人が立ち寄っただけで、ただ混雑を招いただけだのようです。

 いよいよ本題に入りますが、このダムの建設計画は1949年に、経済安定本部(※注)の諮問機関である治水調査会の答申に基づいて手がけられた「利根川改訂改修計画」の一環として、カスリーン台風規模の水害から東京および利根川流域を守る、という目的で1952年に発表されました。ここから、現在にいたる動きが出てくるのです。(次回につづく)

 ※注・経済安定本部/1946年(昭和21年)8月、経済安定本部が設置され、戦後の経済再建のための緊急対策の企画立案、総合調整などを行うこととなりました。経済安定本部は、内閣総理大臣が総裁、国務大臣が総務長官になることとされました。

★脈絡のないきょうの一行
景勝地「鞆の浦」(とものうら)の埋め立てはまかりならん、の地裁判決。やっと文化国家に。
2009/10/01 [Thu] 11:10:11 » E d i t
 10月に入りました。朝夕は秋らしさが漂い、夏布団では寒さを感じます。暑がりの私はまだ半袖ですが、通勤電車をウォッチングしてみましたら、9割が長袖になっていました。この季節は風邪を引きやすく、新型インフルの恐怖もありますのでお互いに健康には留意したいものです。このブログも300回目を迎えました。多くのみなさんの激励があったからこそ、ここまで来れました。引き続いて応援をお願いします。

 今回から八ッ場ダム問題について触れてみます。歴史的な経過などもありますので、少し長くなるかもしれませんが、おつきあい下さい。もちろん私は、建設断固反対の立場です。

 このダムを作ろうということになったきっかけをご存知でしょうか。話しは相当古くなります。1947年といいますからなんと、私が生まれた年のことです。この年の9月に大型台風が日本に接近しました。先週の土曜日、メディアで「伊勢湾台風から50年」ということが取り上げられていましたが、1947年のこの台風は「カスリーン台風」と名づけられていました。

 今では台風の呼称は「第○号」などといいますが、当時は連合軍の占領下にあり女性の名前がつけられていたといいます。第○号という言い方をしますが、被害が大きかったものは「洞爺丸台風」や「狩野川台風」のように固有名詞や地名を冠する場合もあります。伊勢湾台風もその一つです。日本のこの扱いとは別に、台風には「アジア名」というものもありこれは140種類で、順番に名前がつけられる仕組みになっています。

 カスリーン台風は9月15日から16日にかけて、紀伊半島の南部から房総半島南端をかすめ、三陸沖に走り抜けました。その間、関東地方に大量の雨を降らせました。特に群馬県の赤城山麓や足利市はひどかったといいます。大量の雨は利根川や荒川の堤防を決壊させ、東京東部を含む広範囲で家屋浸水が発生しました。

 そしてその犠牲者は死者・1077名、行方不明者・853名、負傷者・1547名を数えたのです。戦後間もないこともあり、防災対策がしっかりしていなかったことも被害を大きくしたと言われています。このカスリーン台風を教訓として、1949年に国の治水調査会は「利根川改訂改修計画」を策定し、その一環として1952年に初めて八ッ場ダム建設計画が登場したのです。(次回につづく)

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1票の格差裁判で「選挙制度見直し必要」と最高裁。解決策は簡単。全国1区の比例制度だ。