ヘボやんの独り言
08« 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30.»10
2009/09/30 [Wed] 10:57:27 » E d i t
 鞍部からの妙高山への道は厳しいものがありました。ひたすら急登です。登山十訓のなかに「頂上をあおぐな」というものがありますが、それに従って足元に目を置いて一歩、また一歩と踏み出していきます。途中2度の休憩をとって鞍部から1時間20分で山頂に到着しました。このスピードはほめてあげていい記録と言えそうです。広々とした山頂で、先客たちが写真を撮ったり休憩したりしていました。

 山頂からはかなり遠くまで見えますが、北側に位置する日本海はガスで拒否されました。しかし、西側の北アルプスは白馬、鹿島槍ヶ岳の頭が見え、一瞬でしたがあの特徴ある槍ヶ岳と穂高岳の先端に対面させてもらえました。南東方向の眼下には野尻湖がしっかり横たわっています。四方が見渡せることは至福の時間で、「山頂を極めた者」だけに許される特権です。

 下山にとりかかると、この年の6月に登った高妻山の全容を見ることができました。なるほど、違う角度から見ても切り立った厳しい山であることがわかります。鎖場を慎重に降りて本格的な下りに入ります。登り返しはないのですが、長いだらだらとした下山もくたびれます。やっとの思いで駐車場に到着、間もなく黄金清水で遊んできたというMさんも合流。赤倉温泉の「野天風呂」をみつけ、そこで汗を流して帰路につきました。

 この山、今年の7月に2度目の挑戦をしました。前回とコースを変えて笹ヶ峰から登りはじめ火打山にアタック、高谷池ヒュッテに泊り、2日目に妙高山に登りました。今回は2日間ともに雨にたたかれ、靴の中も水に侵されびしょ濡れになって下山しました。雨のため登山客が少なかったのが良かった、と強がりを言ったものです。

 このとき妙高山から鞍部に下る途中、ヘリコプターがホバーリングしながら救助活動をしていました。遠目ですが、遭難者らしき人がロープでヘリ内に収容されるところを見ました。たいしたケガでなければよかったのですが。

*徒歩総時間・1日目・8時間55分、2日目・5時間00分
 1日目/燕温泉駐車場(6:10)-麻平(6:55 7:10)-黄金清水(8:50 9:15)-黒沢池ヒュッテ・昼食(11:15 11:55)-火打山山頂(14:10 14:50)-黒沢池ヒュッテ(17:05)泊
 2日目/黒沢池ヒュッテ(5:30)-燕新道分岐(6:25 6:50)-妙高山山頂(8:10 8:45)-天狗堂(9:45 10:00)-燕温泉駐車場(11:45)

★脈絡のないきょうの一行
JR福知山線事故調査報告書の漏洩問題、裁判官も被告も検察も同一人物と同じ構図だ。
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2009/09/29 [Tue] 11:17:06 » E d i t
 お花畑を過ぎると、次は「天狗の庭」と記した自然の庭園が出現しました。これもまた雄大な庭園です。人の力では到底作りえないみごとな〝作品〟です。この庭を過ぎていよいよ火打山へアタックです。その稜線は見るからに厳しそうで、Oさんはため息をついています。気合を入れなおして前進です。

 厳しい急登を登りきると、いきなり、という感じで山頂に飛び出しました。午後2時10分、歩きはじめてちょうど8時間です。先客たちは強い風を避けるように、山頂の草むらに寝そべったり、座り込んでいます。それに倣ってみます。これが気持ちいい。このまま眠っていたいという衝動を抑えるのに苦労です。

 10分ほど経ってOさんが、さらに30分ほどでMさんが山頂に到着です。山頂周辺はこの時間になるとガスが立ち込め、佐渡島はおろか日本海さえ見えません。明日の相手、妙高山も厚い雲が覆いかぶさり、カオを見せてくれませんでした。下山は、少しバテ気味のMさんを先頭に一気に黒沢ヒュッテまで下りました。

 ヒュッテはシーズンとあって込み合っていましたが、何とか一人一つの寝具を確保しました。炎天下を11時間も歩いたこともあり、夜は、バタンキューで寝入りました。

 2日目。

 天気は前日同様に青空が広がって快適です。朝食は前夜もらったレトルトの赤飯で済ませましたが、水の補給(小屋で水を買うのに)に手間取り歩き出しが遅れました。小屋で水を買わなければならないというのも不便なものです。行程はまず、大倉乗越までの急登から始まり、鞍部にいったん下り、ここから再度、妙高山頂をめざすことになります。

 大倉乗越に出たとたん、目の前に妙高山がデンと構えていました。これは大きい。ここに登るのかと思うと、身震いしそうです。鞍部まで下ったところで、遅れているMさんを待ちます。Mさんはかなりバテ気味で、相談の結果、巻き道で下山してもらうことにしOさんと私の二人だけが妙高にアタックです。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
谷垣自民党新総裁。火中の栗を拾えるかなー。
2009/09/28 [Mon] 18:13:26 » E d i t
 百名山の報告です。この山はお互いが近いこともあり、多くの人がセットで登るようです。どちらを先に登るかは好みによりますが、私たちは火打山を先に妙高山を後にしました。1999年8月7、8日にかけてのことです。ちょうど10年前です。

 MさんOさんとの3人組みです。この頃、Oさんも「百名山」踏破をめざしており、よく一緒に登っています。一緒だったのは百のうち、60山程度でしょうか、それにつけてもよくがんばりました。Oさんは私と同じ時期に全山踏破を果たしています。健闘を讃えあったものです。

 東京方面からの登山口は、このとき登った燕(つばめ)温泉からと火打山の南側の笹ヶ峰の2つがあります。私たちは燕口を選びました。天気は良すぎるほどでした。車を東京、埼玉、群馬、長野、そして新潟と5都県を走らせ、途中のPAで仮眠を取って登山口に着いたのが午前5時半過ぎ。コンビニで買い込んだサンドイッチをほおばり、スタートです。

 燕温泉から2時間半、黄金清水に着きました。2時間かけてここまで水だけを汲みに来る、という人もいるそうですが、なるほど、実にうまい水でした。ここで妙高山から下山してきたというグループと会いました。そのリーダーらしき人が「日本海と佐渡島が見えましたよ」という言葉に励まされます。

 この清水から稜線までの急登にあえぎました。そのせいでしょう、稜線の風が気持ちよく「生きた心地」を実感させてくれます。登山道にはクルマユリ、ヒメシャジン、アザミなどの花たちが心をなごませてくれました。この日泊るドーム状につくられた黒沢池ヒュッテで昼食とし、荷物を置かせてもらい、火打山へ急ぎます。

 Mさんが少々遅れ気味になりますが、激励しながら前進です。次のポイントの高谷池(こうやいけ)に着いてびっくり。高原の中の池、という感じで広々としており、爽快感いっぱいです。10分ほどで今度はお花畑です。愛らしいハクサンコザクラの群落が大歓迎してくれました。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
優勝は朝青龍だったが、白鳳の5場所連続14勝以上の新記録が報道されないのはなぜ。
2009/09/25 [Fri] 11:25:30 » E d i t
 唯一の被爆国として道義的責任を果すために、核廃絶の先頭に立つ――。国連安保理における鳩山首相の発言を大歓迎します。同時に今までの自・公政権との落差に戸惑いすら感じています。その中でもとくに、平和の党として売り出したはずの公明党は、みごとなまでに霞んでしまいました。政権が代わると、こうまで景色が違うのかという思いは私だけではないでしょう。

 私が生まれて初めて街頭で署名活動を行ったのは高校生のときでした。御茶ノ水駅前で、クラスメートを広島の原水禁世界大会に代表として送り出すための、核廃絶とカンパを訴えました。初めての経験で足が震えたものです。今でも同じ駅前で核廃絶を訴えつづけていますが、あれから45年余、その願いがやっと緒についたという思いです。

 「核なき世界」は、人類の悲願でもあります。広島と長崎の「原爆資料館」を訪ねたことのある人は、一様にそう思うはずです。無辜の市民や幼い子どもたちが、一瞬のうちに灰にされた原爆。生き残っても、原爆症で未だに苦しみから解き放たれない人々。狂気の沙汰と言い切ってしまうにはあまりにも酷い仕打ち。人間が人間としてやってはならないことが強行された歴史は、断じて繰り返してはなりません。

 核兵器は人類にとって不要です。不要なものを廃棄するのは当然のことです。その運動がある意味、鳩山発言で本格的に市民権を得たのではないでしょうか。いや、逆かもしれません。これまでの私たちの長い核廃絶の運動が、世界を動かし、やっと日本の首相を動かしたとも言えます。道のりはまだまだ続きます。たたかいをゆるめてはなりません。そして私は、「核なき世界」のあとに「戦争なき世界」が到来することを願っています。

★脈絡のないきょうの一行
八ッ場ダム建設推進に熱心な人がいると思ったけど、やはり利権がねー。
2009/09/24 [Thu] 10:26:20 » E d i t
 9月22日に八ツ場ダム建設現場に現れた公明党・山口那津男代表は、前原誠司国交相の「ダム建設中止」発言について、「個別の状況をよく検討した上で判断すべきだ。中止ありきでは意見交換はできない」と述べています(毎日新聞)。この人は公党の代表としてふさわしいのか、「小さな親切、大きなお世話」といわれても、マジに心配してしまいました。

 具体的に申し上げましょう。いま評判の悪い障害者自立支援法や、生活保護の母子加算と高齢者加算の廃止、後期高齢者医療制度などなど、公明党は個別の状況をよく検討したのでしょうか。まともに検討したのであれば、導入の判断はできなかったはずです。そのことをタナに上げ、自らの失政で奪取された鳩山政権の政策にイチャモンをつけるそのやり方、子どもがダダをこねる姿とオーバーラップし、嗤ってしまいます。

 この山口代表の発言、角度を変えて見れば「建設するときは個別の状況をよく検討する必要はないが、中止するときは状況をよく検討すべきだ」と読み取ることができます。これはもう自己中心的で支離滅裂です。政党としての体をなしていないと思います。もっとも宗教団体であれば、勝手に思い込むのは自由ですが。

 そしてもう一つの「中止ありきでは意見交換もできない」というこの発言も、全く道理に合っていません。政治というのは一つの政策を決めて、それを論議した上で決定し実行に移すというのが筋です。そもそも八ツ場ダム建設も計画段階ではそうだったはずです。まず、建設ありきからスタートし賛成派や反対派の意見を聞いて(いや、反対派の意見は聞くふりをして)、強行したのは誰だったのでしょうか。前述の「タナに上げる」というのは二重の意味において言えそうです。

 今回の件でいえばまずダム建設中止を決めた上で議論をする、というのが政治の世界では当たり前のことです。そのことを批判したこの人は、政治家といえるのか疑問を禁じえません。立場が逆だった場合、公明党は「八ツ場ダムの建設を中止したいのですが、みなさんいかがでしょうか。賛成ですか、反対ですか」と意見を聞いた上で、中止を決めるのでしょうか。これでは公明党ならぬ、乞迷党になってしまいます。

 そういえば、自民党サイドからはさすがにこういう理不尽な発言は聞こえてきません。政党政治の成熟度の違いがあるように思うのは、私だけでしょうか。

★脈絡のないきょうの一行
鳩山新首相、コペンハーゲンのIOC総会に行くらしいが、失点になるのでは?
政治問題 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
10294 争議支援を!④ 
2009/09/18 [Fri] 10:59:27 » E d i t
 明治乳業のたたかいは、賃金差別の是正です。たたかわない労働組合を批判し、職場から労働運動をつくろうとがんばった仲間たち。ところがそれを嫌った会社は、「赤組」「白組」のレッテルを貼り、活動家への嫌がらせをしました。挙句の果ては、昇格・昇給をさせないという賃金差別を行ってきたのです。

 これを不服として始まったのが、明治乳業の賃金差別反対のたたかいです。ところがこのたたかい、24年目に入りました。争議団に参加する仲間たちのほとんどは定年を迎え、年金生活者となっています。労働委員会でも負け、裁判も今年2月17日に最高裁は上告不受理の決定を下しました。

 この最高裁の不受理決定は、東京高裁判決が確定したものですが、争議団の仲間たちにとっては重要な事実認定をしているのです。つまり、高裁は争議団の賃金差別は認めなかったものの、「控訴人らの主張を妥当するとみる余地はある」と結論づけたのです。つまり、会社による不当労働行為性を認めたのです。しかし、判決は原告らの敗訴になってしまいました。こういう事態を私は「結論の誤謬」といっています。

 最高裁で判断が下ったのは、明治乳業市川工場で働いていた人たちを中心とした事件でした。ところがもう一つ、このたたかいには「全国事件」というものがあります。東京だけでなく、明乳では会社のやり方に反対する人が全国にいました。この人たちをも会社は差別したのです。このたたかいは今、東京都労働委員会の場で争われています。証人尋問などが行われていますが、ぜひ注目いただきたいと思います。

 会社は昨年秋から準備を始め今年4月1日に、明治製菓と経営統合を行いました。これによって持ち株会社として「明治ホールディングス」が生まれました。この明治HDがこの争議の当事者となります。この新しい会社、要請行動に行っても警備会社に対応させ会うことすら拒否しています。自ら起こした事件を警備会社に後始末をさせようとしており、許しがたい対応で批判は高まっています。支援強化をぜひお願いいたします。

★脈絡のないきょうの一行
新政権、自公政治がつくった国民いじめの政策転換に手をつけ始めた。楽しみだ。
10293 争議支援を!③  
2009/09/16 [Wed] 10:38:08 » E d i t
 先週、9月11日の「争議支援行動」は、昼休みに国鉄の1047名(すでに52名が死亡)の解雇問題の解決を求めて、国交省に移動しました。国鉄が分割・民営化されて22年、国労をはじめ解雇された仲間たちは厳しいたたかいを余儀なくされています。

 その仲間たちは要求を3つに絞り込みました。①雇用②年金③解決金――がそれです。「解雇撤回はどうするんだ」という声があります。確かに、労働者の生命線とも言える「解雇」に触れないことは忸怩(じくじ)たるものがあります。しかし、仲間たちはそれを乗り越えて大論議の末、経営側から少しでも解決の可能性を引き出すために「解雇撤回」を敢えて取り下げ、要求を3本に絞ったのです。

 雇用は、JRだけでなくその関連企業にまで広げて対応してほしい。年金問題は、22年という長きにわたり60歳を過ぎた人たちにとっては緊急・切実な課題となっています。解決金は、裁判所のいう〝慰謝料〟ではなく、解決金として支払ってほしいというのです。雇用問題では、これが実現したら事実上〝解雇撤回〟を勝ち取ったことにもなります。

 これらの要求は、「政治決着」を図るためのぎりぎりのものです。先の総選挙によって、きょう民主党、社民党、国民新党による連立政権が誕生しますが、国鉄問題はその成否を試されることになります。今年4月に国鉄闘争の解決をめざす集会が、千代田区内の「星陵会館」で開かれました。このとき初めて公明党の代表が参加し発言しましたが、民主党からの来賓は現在の鳩山代表でした。「早期解決に全力をあげたい」という発言は、当事者と支援者に力を与えました。新政権に期待したいものです。

 争議支援行動は昼食休憩のあと、明治乳業の賃金差別の解決を求めて、中央区の明治ホールディングスに集結しました。この会社、明治乳業と明治製菓が合併して誕生したもの。このたたかいのカギを握るのは持ち株会社である明治ホールディングスである、として集中的な抗議行動を展開しています。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
いよいよ〝自民党による戦後政治〟の総決算を行う内閣が誕生する。監視を緩めてはならない。
10292 争議支援を!② 
2009/09/15 [Tue] 10:04:32 » E d i t
 新国立劇場のたたかいは、労働者性を争っていますが、労働委員会の決定が裁判所によって覆されたことに私は憤りを感じます。確かに、裁判を起こす(受ける)権利は、法人であっても個人であっても保障されています。しかし、労働委員会で労働者側の主張が認められたものが裁判で覆されるのは、どうしても納得できません。

 もともと労働委員会は「労働者救済」の機関です。従って、使用者側から救済の申し立てはできない仕組みになっています。ここに労働委員会の特徴があるのです。その労働委員会が審議し、労働者の訴えにもとづいて救済したものを裁判所が覆すということは、「救済機関」としての労働委員会の役割を否定されたことにほかなりません。「裁判所よ、おまえは何様だ」といいたい気分です。

 そこで私は無理を承知で、以下のようなことを考えています。

 労働委員会は「二審性」ですが、中労委で労働者救済の命令が出たら、事業主はこれに従い裁判を提起できないという拘束力を付議すべきではないかということです。逆に、労働者が負けた場合は、「救済」が実現できない訳ですから、裁判所に訴えができるという規定は成り立つと思います。

 言い換えましょう。労働委員会で労働者救済の命令が出たら、事業主はそれを不服として裁判に訴えることはできない。しかし、労働者の主張が却下された場合は、裁判に訴えることができるという規定をつくり、労働委員会が本来の労働者救済期間として(使用者側に対する)権限を強めるべきだと思うのです。そのためには法的整備が必要になるでしょう。解雇制限法など労働者保護規定をつくり、使用者側への規制をもっと強める必要もあるでしょう。

 こういうことを考える論拠に、命令を書く場合のスタンスの問題があります。ご承知かと思いますが、労働委員会は三者委員で構成され、命令はそのなかの公益委員(ちなみに三者委員とは、公益委員、労働者側委員、使用者側委員のことをいう)が担当することになります。この公益委員が命令を書く際に「裁判に耐えられるか」ということが機軸になっているといいます。つまり、その事案が不当労働行為であるかどうか、ということより命令が裁判に耐えられるかどうかを考えて命令を書く傾向が強い、というのです。もしそうだとしたら、「労働者救済機関」が泣きます。

 新国立劇場の解雇撤回闘争は、こんなことを考えさせられています。がんばれ、八重樫節子さん。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
すごいぞイチロー、9年連続200本安打。野球はアメリカの国技から日本の国技に?

10291 争議支援を!① 
2009/09/14 [Mon] 10:22:58 » E d i t
 先週金曜日・11日、解雇や賃金差別、セクハラなどでたたかう人たちを支援する「争議支援総行動」が終日展開されました。主催は東京のローカルセンターである東京地評。26団体がエントリーし、相互支援の行動となりました。私もその一部に参加しました。その中のいくつかのたたかいを以下、紹介したいと思います。

 まず『東和システム』です。これは以前にも小ブログで紹介しましたが、名ばかり管理職問題で会社は東京地裁で敗訴し、東京高裁に控訴しました。その意趣返しでしょうか、裁判を起こした電算労の組合員3人から仕事を取り上げ、〝仕事をさせない〟という嫌がらせを行っています。組合はこの嫌がらせは組合介入の、不当労働行為であるとして、是正を求めて東京都労働委員会に救済を申し立て、裁判所と労働委員会の両方でたたかいがすすめられています。この会社、不当労働行為のデパートといっても過言ではなく、〝どげんかせんといかん〟企業です

 二つ目は『新国立劇場』の争議です。この劇場は国立ですから、国の管理下にありその運営は〝天下り族〟によってなされています。この劇場はオペラを中心に上演する劇場となっています。オペラといえば、合唱団はつきものです。この合唱団員が組合に加盟し、待遇改善を要求したところ女性組合員が解雇されました。これを不当として団体交渉を申し入れたところ、劇場側は「合唱団員は労働者ではないから団交に応じる義務はない」として拒否してきたのです。

 労働組合はこれを不当労働行為であるとして、東京都労働委員会に救済を申請し都労委は、合唱団員は労働者であることを認めました。これを不服として劇場側は中央労働委員会に不服審査を申し立てましたが、中労委はこれを却下したたかいの場は裁判所に移りました。ところが、東京地裁は労働委員会の決定を覆し「合唱団員は労働者ではない」という判決を下したのです。

 この国の裁判所の下品さは目をおおいたくなります。委託契約とはいえ、劇場から賃金を受け取っている合唱団員が労働者ではないという論理は、どんな角度から見てもおかしなことです。しかも合唱団の人たちは年収300万円程度のギリギリの生活を強いられているのです。裁判所は高裁も地裁判決を踏襲し、現在、最高裁での争いとなっています。この新国立劇場問題は「労働者性」をめぐる典型的なたたかいといえ、注目していく必要があります。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
デルタ、アメリカン。日航をターゲットに航空業界の国際的再編の動き。安全は大丈夫か。
2009/09/11 [Fri] 16:05:51 » E d i t
 この山はスキー場の方が有名です。雪質が良く設備が整っており、それを目当てに別荘が立ち並んでいることもあるからでしょう。97年8月6日、ヒロシマに原爆が落とされた「その日」に登りました。

 スキー場のリフトが居並ぶダートな道を、車に無理を強いて走らせ一番上の駐車場まで前進です。ここから歩き始めました。間もなく、ヤナギランの群生地に出会いました。ピンクがかった紫色の花びらは愛らしく、この花が好きになりました。登山道は前夜降った雨によってぬかるんでいます。

 そのぬかるみに悪戦苦闘しながら、「下の芝」、「中の芝」から「上の芝」へと登り詰めていきます。上の芝で昼食を取ったあと、一気に神楽ヶ峰まで進みます。ここからコルへ少し下っていよいよ苗場山頂へアタックです。コル周辺にはさまざまな高山植物が、百花繚乱状態で目を楽しませてくれました。なかでも、ナデシコは妙に記憶に残っています。

 コルから山頂への急登は、雲取山の三條ダルミから頂上へのそれと似ており、厳しいものがありました。その急登を登りきると、木道が現われます。ガスが立ち込めており、それが切れる合間に山頂の様子が目に飛び込んできます。広い。山頂とは思えないほど高原状で広い。あちこちに池塘があり、湿地帯そのものです。平ヶ岳にも高所の湿地帯がありましたが、それよりもはるかに広く池の数は正確に分かっていないそうで、なかなか神秘的です。

 山頂はどこになるだろうと探していると、やっと小屋が見つかり、その前に山頂を示す標柱が立っていました。普通の山は登り詰めたら山頂ですが、ここは探さなければ迷ってしまうという不思議なところでもあります。ここよりも向こう側の方が高いのではないか、と錯覚するほどの山頂の広さでしたが、写真を撮ったら下山です。ぬかるんだ道は下山の方が厳しいものがありました。

*徒歩総時間・8時間00分
 登山口駐車場(9:00)-和田小屋(9:30)-下の芝(11:00)-上の芝・昼食(12:00 12:50)-神楽ヶ峰(13:05)-苗場山山頂(14:20 14:40)-神楽ヶ峰(15:50 16:00)-下の芝(17:00 17:10)-登山口駐車場(18:30)

★脈絡のないきょうの一行
法人企業の役員報酬の公表が義務化へ。遅すぎるがいいことだ。
2009/09/10 [Thu] 10:02:26 » E d i t
 前回の若干のおさらいをすれば、明治維新のことを「明治革命」と称しなかった意味がわかりました。明治維新は、地方藩が中心になって徳川幕府を倒して、天皇中心の政治を作り上げたものでした。すなわち、地方の権力が中央権力を倒して封建政治に終止符を打ったのです。その意味では、被支配者が支配者を倒したものではなかったのです。その考え方を踏襲すると、今回の選挙結果は自民党政権の崩壊は「急激な変革」とは言えず、「政治の体制が一新され改まること」と理解するほうが賢明で、やはり維新です。

 その延長線上で考えれば、終戦の1945年8月15日は「昭和維新」と言ってもいいのかもしれません。戦後はまがりなりにも(象徴として残ったが)絶対的天皇制は廃止され、国民主権が謳われる憲法が制定され、「政治体制は一新」されたからです。しかしこれを「昭和維新」という位置づけはありません。理由ははっきりしています、国民が動いて起こした変化ではなかったからです。維新は(一部であっても)国民の手によって変化が起こされたときに使われる言葉だと理解していいのではないでしょうか。

 ところで、ここに面白い結果があります。明治維新の主役であった薩・長・土・肥の人々は、変化を嫌ったようです。今回総選挙の選挙区の当選結果を見てみましょう。▼鹿児島県(薩摩)・自民3、民主1、国民新党1(注・国民新党は民主が支持し候補者を立てず当選)▼山口県(長州)・自民3、民主1▼高知県(土佐)・自民3、民主0▼佐賀県(肥前)・自民1、民主2――となっています。

 民主が勝っているのは唯一、佐賀県だけで総数で見ると『自民10対民主・国民5』という割合になり、4年前の総選挙の比率に近い状態です。これは面白い。土佐の「いごっそう」や「はちきん」などは、変化を嫌ったようです。明治時代の革新派は、平成時代においては保守派になったのでしょうか。それとも、もともとの気骨がそうさせたのでしょうか。

 とりとめもなく、「維新」を考えてみました。すみません、紙数を無駄にして。そういえば、私は肥前・佐賀県伊万里市(鍋島藩)の生まれなんですよね。カンケイないか。

★脈絡のないきょうの一行
民社国の三党による連立政権誕生。ただし、この政権の賞味期間は来年の参議院選挙まで?
政治問題 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2009/09/09 [Wed] 15:38:15 » E d i t
 総選挙の開票後、わたしはこの結果を「平成維新」と記しました(8月31日)。この問題、少し掘り下げてみたくなりました。

 維新=①物事が改まって新しくなること。政治の体制が一新され改まること。②明治維新の略。(広辞苑)――ということになります。この意味からみれば、今回の選挙によって自民党政権から民主党政権に政治体制が変わった(一新された)わけですから、「維新」と呼ぶのが妥当のようです。

 維新と同じような意味を備えた言葉で「革命」があります。これはどういうことを指すのでしょうか。広辞苑は(①②は略)「③イ・従来の被支配者階級が支配階級から国家権力を奪い、社会組織を急激に変革すること。ロ・急激な変革。ある状態が急激に発展、変動すること。」となっています。言い換えれば、政治体制が変わるという意味では双方同じですが、激変が「革命」で、そうでもない緩やかな変化を「維新」と理解してもいいのではないでしょうか。その立場から見ても、今回の選挙結果は「維新」と言えましょう。

 それを前提にここで考えたいのは、明治維新と今回の平成維新の違いです。すでに大方はお分かりだと思いますが、明治維新の場合は薩・長・土・肥をはじめとした地方藩の権力者が中心になって起こしたものでした。維新の三傑といわれるのは、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允のことですが、彼らは薩摩藩と長州藩の重臣であり現代でいう体制側、つまり力を持った地方官僚というところでしょう。

 ところが今回の維新は、(多くが被支配者側の)国民が国会議員を選ぶという憲法に基づいた手法で起きたもので、明治維新とはその原動力と質が違います。ここが大きなポイントだと思うのです。維新の起こし方が明治維新の場合は地方権力が主軸で、平成維新は国民・大衆によってなされたものと考えられそうです。50年ほど後の歴史学者が今回の政変をどう表現するか、興味のあるところです。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
外交、中でも沖縄問題の扱いで民主党と社民党に温度差あり。がんばれ社民党。
政治問題 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2009/09/08 [Tue] 13:34:41 » E d i t
 登山口から、小さな川の流れるゆるやかな高原を歩き始めます。禁漁区の成果でしょう、川にはイワナが悠然と泳いでいます。意地きたなく、「塩焼きにしたらうまかろう」などとふとどきなことを考えていました。そんな気持ちも、登りに入ったら吹き飛びました。急登で息が切れ頭の中が白くなりそうだったからです。それに耐えて進むうちに、体調は戻りました。歩き始めて40分程度だったでしょうか。

 このコースは沢を一つだけ渡ります。荒菅沢です。ここで休憩とし、宿で作ってもらった朝食の弁当を開きます。温泉の水を使って炊いたというごはんは、黄みがかっていましたがおいしくいただきました。沢から雨飾山を見上げると、立派です。三角錐の岩が山をガードしているようにも見えます。実はここから見えるのは雨飾山の手前で、山頂ではありません。その様はジャンダルム(衛兵)のようです。

 朝食を済ませて前進です。地図にあるとおり厳しい急登がつづきます。稜線に出たとたん、雨飾山が現われました。深田久弥の言う「旧恋」、「愛する山」がこれかと思うと感慨も深まります。山頂は、人の山でした。「屋上屋」ではありませんが、山の上に山を重ねたような感じです。山頂を示す標識の前は、写真を撮る人の列ができています。同じワッペンを着けたツアー登山者がたくさんおり、込み合う理由に納得です。人気の山の宿命なのでしょうか。

 10月も半ばだというのに、紅葉はまだでした。サクラでいえば1分咲きというところでしょうか。この年は遅くまで暑い日がつづき、そのせいだといわれていましたが、自然界の変化に不安な心を残しながら、帰路につきました。

*徒歩総時間・6時間30分
 雨飾山登山口(6:10)-荒菅沢(7:45 8:30)-雨飾山山頂(10:15 11:00)-荒菅沢(12:15 12:45)-雨飾山登山口(14:00)

★脈絡のないきょうの一行
改憲問題で方針の違う社民党と民主党。連立が可能なのか、疑問だ。
2009/09/07 [Mon] 10:38:38 » E d i t
 雨飾山(あまかざりやま)――。情緒のある名前です。百名山のなかでもう一ついいな、と思うのは早池峰(はやちね)山です。それぞれが地名や歴史に由来しているのでしょうが、この2つ、私は好きな山名です。

 だからというわけではないでしょうが、「日本百名山」の中で、著者の深田久弥が『愛する山』と表現しているのはこの雨飾山だけです。それは火打岳の項で『焼と金山の間には、わが愛する雨飾山がつつましく姿を現していた』(※注・「焼」は焼山のこと)と記しています。深田はこの山に登るにあたって、荒天に遭いやっと3度目に成功しています。それゆえでしょうか、山頂に立ったとき『旧恋の頂に立った』とも書いています。

 しかも、『山は心をあとに残すほうがいい、と言った人がある。一ぺんで登ってしまうよりも、幾度か登り損ねたあげく、ようやくその山頂を得たほうがはるかに味わい深い。私にとって雨飾山がそれであった』としています。恐らくその思いが募って、雨飾山に対して「愛する」という表現になったのではないでしょうか。それとも単にペンがすべったのでしょうか。

 この山は長野県と新潟県の県境に位置しています。したがって、かなり深いところとなり、私は長野県の小谷(おたり)から取り付きました。車で東京から300キロほどあります。99年10月9日、前夜、小谷温泉に泊まって早朝からスタートです。10月らしくさわやかな天気で、登山日和です。3回目にしてやっと登ることができた深田久弥には申し訳ないくらいです。午前6時前に登山口の駐車場に着いたのですが、やっと2台ほどが止められるスペースしか残っていませんでした。さすが、人気の山です。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
石破茂農水大臣、国会答弁は分かりづらいが、自民党の首班指名への対応発言は正論。
2009/09/04 [Fri] 10:08:04 » E d i t
 前夜、東京をスタートし谷川岳ロープウェイ乗り場近くで仮眠。早朝、天神平までロープウェイで上がりここで朝食です。天気もよくシーズンとあって、天神尾根は山頂まで数珠つなぎ状態です。この年からだったでしょうか、学校は第二土曜日が休みとなり、子どもたちの姿も目立ちます。いわお新道の分岐を過ぎたあたりから、道は傾斜角度を増し厳しくなります。それをしのいで山頂に着いたら、写真を撮るのに順番待ちです。

 この山は耳(ピーク)が2つあります。地元では「耳ふたつ」とも呼ばれており、見る位置によっては確かにウサギのように目立ちます。高いのは「トマの耳」で、そこで写真を撮って次の「オキの耳」に進みます。さらに一の倉岳をめざす途中で、Oさんが足に痛みを覚え、昼食休憩にしました。食事をした場所から一の倉沢で遊ぶ人が豆粒ほどに見えて、高さを実感させてくれます。

 食事はカップ麺にお湯を注ぎ、おにぎりをほおばります。実にうまい。元気の証拠です。食事が終わったところでOさんの足の具合を聞いてみると、調子が良くないといいます。『無理はしない』という山登りの鉄則どおり、下山を決めました。それも天神尾根ではなくもう一つの、厳しい西黒尾根をつかってです。途中、肩の小屋でトイレタイムを取りましたが人出が多く、女性の方はなんと45分もかかりました。結果的にこの長時間の休みが良かったのでしょうか、Oさんは調子を取り戻し、無事に下山しました。

 ところがそのあとが大変でした。宿泊場所を決めていなかったため宿探しに手間取り、周辺の水上温泉をはじめすべてが満室で、結局、沼田駅まで出てビジネスホテルで泊ることになりました。これが意外とラッキーで、外で食べた焼肉はうまかった。翌日は時間が余った関係で、吹割りの滝を見学したあと、伊香保温泉の「ベルツの湯」で汗を流してのんびり帰りました。

 帰ってから撮ってきたフィルムをDPEに出しましたが、紅葉は最盛期のはずですが赤色がすっきりしていません。沼田のホテルの女将さんによると、霧が多かった年は赤色の出が悪いということで、どうもそれが原因だったようです。夏場、寒暖の差が大きいほど秋になるといい色が出ると聞いたことがありますが、木の葉たちも条件を選ぶのでしょうね。

*徒歩総時間・6時間25分
 天神平(7:55)-いわお新道分岐(8:35 8:45)-谷川岳肩の小屋(10:30 11:15)-トマの耳(11:25)-オキの耳(11:35)-途中休憩・昼食(11:50 12:30)-肩の小屋(12:55 13:40)-ラクダのコル(14:30 14:50)―ロープウェイ乗り場(17:00)

★脈絡のないきょうの一行
選挙区は47%の得票率で74%の議席を獲得した民主党。選挙制度のために民意が歪んだ典型。

2009/09/02 [Wed] 09:54:41 » E d i t
 総選挙の余韻がまだ冷めません。総裁選びで自民党のドタバタ劇場の第一幕が開けたようです。そのあとの二幕、三幕が楽しみです。小池百合子総裁かなー、なんちゃって。

 やっと百名山報告の30番目です。記録が残っていないのではっきりしませんが、私の記憶によるとこの谷川岳に最初に登ったのは1976年だったと思います。このときは男女半々の8人で、西黒尾根で登りました。その際、メンバーのうちの一人の女性が鎖場などに怖がって時間がかかり、グループを2つに分けて前進し、肩の小屋についたのは暗くなってからで危うく遭難騒ぎになるところでした。それから19年後の1995年9月14日に2度目、さらに04年11月3日にもチャレンジし、3回にわたって山頂を踏んでいます。ここでは95年のときのものを報告したいと思います。
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 谷川岳の標高は2,000mにも満たないが、急峻な岩壁と複雑な地形に加えて、中央分水嶺のために天候の変化も激しく、遭難者の数は群を抜いて多い。1931年(昭和6年)から統計が開始された谷川岳遭難事故記録によると、2005年(平成17年)までに781名の死者が出ている。この飛び抜けた数は日本のみならず世界のワースト記録で、ちなみにエベレストのそれは178人となっている。(ウィキペディア)
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 このデータで見る限り恐ろしい山ですが、西黒尾根は少々厳しいものの、天神尾根を利用すれば、山を歩き慣れた人であればOKです。死者が出ているのは岩登りの人たちです。この山の岩壁は複雑な地形をしており、それゆえに多くのクライマーがチャレンジし、いのちを落としているのです。1960年には、ザイルにぶら下がったまま死亡した人をライフルでザイルを切断して遺体を収容するという事件が起こり、この山の怖さをみせつけました。

 もちろん私たちは、ザイル不要の登山コースで歩きました。ロープウェイで天神代平まで上がり、そこからスタートです。同行は4人、季節は9月のいい時期で天気はピーカンでした。山頂から富士山の姿をとらえることができたほどです。当初の予定は、谷川岳から一の倉岳・茂倉岳を経て蓬ヒュッテで泊る予定でしたが、同行のOさんの足の具合が思わしくなく、その日のうちに下山しました。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
公明党の選挙区全敗の原因は、都議選〝異動〟の失敗だったりしたら笑うね。