ヘボやんの独り言
12« 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30. 31.»02
2009/01/29 [Thu] 10:53:12 » E d i t
 2月1日、千代田区長選挙の投票日です。現職区長に新人が挑戦し、一騎打ちです。挑戦側は「千代田から日本を変える会」という確認団体をつくり活動しています。現職は2期8年の〝実績〟を売りものに3選をめざしています。

 ところがこの実績、食わせ物です。①「都市再生」のもとで超高層ビル建設を推進。その結果、住民が減少し環境と景観を破壊②8年間に300人の区職員を削減。住民サービスが低下③区民集会室の使用料値上げなど区民の負担増④図書館の民営化につづき保育園にも手をつけようとしており行政の責任放棄――など、枚挙にいとまがありません。

 8年やってきてこれですから、このあと4年やらせたら大変なことになるのは目に見えています。これはやはりチェンジ(交代)しかありません。

 千代田区労協は、この区民軽視の区政にストップをかけようと立候補した、挑戦者の下田武夫さんを支持することを決めました。山形県知事選挙のように、現職が敗れるという新たな情勢も生まれています。区労協としては法定ビラのポスティングなどに協力することになっています。ぜひあなたの力を貸して下さい。投票日まであと3日、チェンジのチャンスを生かすために。

★脈絡のないきょうの一行
消防自動車が出払ったあと、消防署で小火(ボヤ)を出したそうで、消火はどうしのだろう。
スポンサーサイト
政治問題 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2009/01/28 [Wed] 19:05:04 » E d i t
 日本のみならず、世界的に経済は度し難い状況に陥っています。それは世界の人々の雇用とくらしを直撃し、生きていくことを否定する事態となっています。日本でも年末から年始にかけて展開された、「年越し派遣村」のたたかいはその深刻さを浮き彫りにしました。4月1日以降は「2009年問題」といわれる雇用不安はさらに広がります。

 非正規雇用労働者が切り捨てられ、そのあと正規雇用労働者が切られ、新卒採用の取り消しが社会問題化するなど社会状況は明らかに不安定で、流動的な事態を迎えています。かつて日経連が派遣労働制度を導入したとき、「雇用の流動化を図る」ことを目玉にしていましたが、それはいまや〝世情の流動化〟を生み出す皮肉な結果となったとしかいいようがありません。

 さてそこで、革命のチャンスのはなしです。現在は、過去の3回のチェンジのチャンスのときと、社会状況や経済状況が似通っている、と言えるのではないでしょうか。その中身は敢えて言及しませんが、チャンスを推進する3つの「力」は前回ここで述べたとおりで、それぞれがしっかり「蓄え」を持っています。

 しかも、今年は麻生さんがどんなにイヤダといっても、衆議院選挙は避けられません。麻生内閣の支持率は10%台に落ち込み、惨憺たる状況となっています。このこと一つをとってみても政権交代は間違いなく起きるでしょう。それを真の「政権交代」となし得るかどうか、3つの「力」の出番、ということになります。

 しかし、あの人たち(支配者)は簡単にそれを許してくれません。政界再編、大連立など間違いなくさまざまな仕掛けをしてきます。これらの攻撃に国民が反撃する、その力も間違いなく蓄えられています。そのことに自信を持てば、「チェンジのチャンス」は現実のものに出来る、私はそう思います。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
派遣法って、労働者をいじめる法律じゃなく派遣事業者を取り締まる法律なんだってね。

政治問題 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2009/01/27 [Tue] 14:58:18 » E d i t
 チェンジ=革命にはパワーが必要です。マルクス的にはそのパワーを発揮するのは、革命政党であり、労働者階級だということになります。私は、現代においてはそれに「市民運動」も加えていいと考えます。環境団体しかり、女性団体やNOPなど幅広い〝力〟が横たわっているからです。たとえば、地域の女性団体のすばらしさは、ご承知のとおりです。

 それらを個別に見てみましょう。まず政党です。1918年の米騒動のときにはありませんでした。ロシア革命はその前年、1917年であり海外には革命政党はありましたが、日本で共産党が誕生したのは1922年でした。 1929年の大恐慌のときは、共産党は非合法化され表だった活動はできませんでした。小林多喜二が、地下活動中に特高につかまり虐殺されたのは1933年だったことはご承知のとおりです。終戦直後、共産党は再建に力を注いでおり十分な力を発揮できませんでしたし、GHQによる「追放」で活動が事実上ストップした時期がありました。

 次に、労働組合はどうだったでしょうか。日本では最初の労働組合として1912年に「友愛会」が誕生しましたが、労使協調路線を採っており米騒動のときは組織としての体はなしていなかったようです。大恐慌のとき労働運動は禁止されており、まともな対応はできませんでしたし、終戦直後は政党と同じように、まだまだ力不足でした。同時に共産党員をはじめとしたレッドパージにより、活動家が放り出され力が弱まりました。

 市民運動体は、過去の三つの革命のチャンスのとき皆無でした。
 
 さてそこで、現代です。「三つのパワー」は健在です。それゆえに私は、今こそこの国の近代における「4度目のチェンジのチャンス」ではないのか、と疑ってやみません。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
あれの本質は、ばらまきだけど納税者には還付金じゃないの?
政治問題 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2009/01/23 [Fri] 17:33:48 » E d i t
 日本における過去のチェンジ、すなわち私流の革命のチャンスの第一は、1918年7月に富山県の小さな漁村の主婦たちからはじまった「米騒動」のときだったと思います。コメの急騰に耐えられなくなった主婦たちが、「コメ寄こせ」の大闘争を起こしました。これはまたたく間に全国に広がり、200万人が参加する運動となりました。「このとき、日本に共産党があったら革命が起きたかもしれない」という歴史学者もいるくらいです。

 第二のチャンスは、それから10年ほどあと1929年の世界大恐慌です。いまの金融・経済危機状態は「100年に一度」と言われますが、このことを指しています。日本への影響は、翌年1930年から始まります。現在と同じように就職難となり、「大学は出たけれど」という謳が大流行したのはこのときです。そしてこの年、小林多喜二のあの小説「蟹工船」が発表されています。

 そして三つ目は、終戦直後です。この説明は特に必要ないでしょう。戦争が終わり、まがりなりにも天皇制の恐怖政治から逃れ、日本国民の上に歴史上初めて自由と民主主義が降臨したといえます。しかしそれは、産業革命を基点にすれば東欧諸国から遅れること、100年でした。終戦直後のこのとき、日本国民が一定の意識を持ち動いておれば、もしかしたら革命が起きていたかもしれません。しかしそれはアメリカによって抑えつけられたのは歴史のとおりです。

 以上、三つのチャンスのときにはなかった(あっても微力だった)が、現在には存在する、「三つパワー」があります。労働組合と市民運動と政党がそれです。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
真冬、深山で満天の夜空を見れば、きっとあなたも病みつきになる。
政治問題 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2009/01/21 [Wed] 10:26:41 » E d i t
 この国の100年あまりの歴史のなかで、チェンジのチャンスは3回あった、と私は考えています。その3回を説明する前に、「チェンジ」をどう訳するかを考えておかなければなりません。

 今年のキーワードのひとつは「チェンジ」であることはご承知のとおりです。この言葉は、(日本時間の)きょうの未明、アメリカ大統領に就任したバラク・オバマが選挙中に発言したことから世界に打電され、〝メジャー化〟したものです。さてこの言葉、どう訳しましょうか。

 野球で言う「チェンジ」は攻守交代です。政治の世界では、一番使われるのは「改革」です。しかし私はこの言葉、嫌いです。なぜならこの10数年、日本国民はこの言葉に騙され続けてきたからです。「改革」というのは本来ならばいい意味、つまり今より良くなることを前提にしていたはずです。ところがこの国の「改革」はみごとなほどまでに逆でした。

 たとえば「政治改革」。政治家の腐敗をただすために、という理由のもとに鳴り物入りで導入されたこの制度、たんなる小選挙区制導入の方便でした。結果は大政党を有利にし、自公政権を成立させ、無茶苦茶な国民いじめをやってきました。そのひどさは「行政改革」、「構造改革」、「税制改革」など枚挙にいとまがありません。

 そこで私はこのチェンジ、敢えて「革命」と訳させていただきます。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
オバマ演説、「新しい責任」という言い方がちょっと気になる。新しい無責任にならなければいいが。
政治問題 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2009/01/19 [Mon] 17:05:42 » E d i t
 この項、前回で終わるつもりでしたがどうも座りが悪く、もう1回おつきあいください。

 あの頃、貧乏の子沢山のわが家は食べるものにも事欠く有様でした。ついに米櫃(こめびつ)は空っぽになり、父と二人で裏山にイモを盗みに行ったことがあります。子どもの中で一番年上だった私が〝手伝い〟するしかなく「仕事」は、見張り役でした。怖かった思いは今でも忘れられません。

 そんな貧しい暮らしでしたが60年代の貧困は現代とは違って、まだ希望があったように思います。しかし現代のそれは、這い上がりきれない構造的なものがあります。その根源は新自由主義だろうと断定できます。

 新自由主義は、弱肉強食の思想です。グローバル化という名の下に、弱者を平然と切り捨ててきました。小泉「構造改革」はまさにその典型です。具体的には派遣法制定がそれですし、後期高齢者医療制度もまたしかりです。

 本来なら「改革」という言葉は、いまより良くなることのイメージを持っています。しかし、この国の為政者が行うそれは、国民の目をごまかすための言い回しにしか聞こえません。「構造改革」「政治改革」「税制改革」「行政改革」例をあげれば枚挙にいとまのないこれらは、新自由主義を根拠にしたものにほかなりません。この問題にメスを入れない限り、貧困問題を解決することは出来ないのではないでしょうか。

★脈絡のないきょうの一行
1÷1、0÷1、1÷0、0÷0、この割り算の解答は全て違う。


 1月21日、午後6時半から市ヶ谷のエデュカス東京の地下会議室で、千代田春闘共闘の旗開きが開かれます。参加費3000円、豪華商品の当たる福引もあります。ぜひ参加を。
未分類 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2009/01/16 [Fri] 10:28:15 » E d i t
 赤貧の生活から抜け出そうと、父は必死でした。上二人の娘を奉公に出し、5人の子どもを育てるのですから大変だったと思います。その父の顔を1ヶ月ほど見ないことがありました。不思議だと思っていましたが、理由が分かりました。朝、私たち子どもが目を覚ます前に仕事に出かけ、私たちが眠ってから帰ってきていたのです。今でいう長時間労働です。

 このことを学校で作文にしたことがあります。これが、県のつづり方教室のコンテストで、なにやらの賞を受賞したことがあります。賞状はどうでも良かったのですが、賞品の鉛筆が嬉しかった。私は子どもの頃から文章を書くことが好きだったのかもしれません。

 仕事には熱心な父でしたが、酒を飲むと母に暴力を振るう人でした。今でいうDV(ドメスティック・バイオレンス)、家庭内暴力です。中学生になって、その父に私は一度だけ手を上げたことがあります。背丈も同じくらいに成長し、喧嘩しても同等になっていました。力が入り過ぎたのでしょう、父の前歯を折ってしまう事態になりました。以降、父は暴力を振るうことが少なくなりました。

 貧困と暴力の因果関係は分かりませんが、理由を問わず暴力はいけません。このような貧しい生活でしたが、希望がなくなることはありませんでした。しかし、現代の貧困は希望を見出そうにもできない、私が経験した昔のそれとは質的に違うように思います。その解決のためには、政治の根本的転換なくしてはありえない、そんなふうに考えています。

 父は67歳で鬼籍に入りましたが、生きておれば昨日、100歳の誕生日でした。鬼籍に入る2年前、孫(私の娘)と自分の誕生日が同じだ、と喜んでいた姿を今でも思い出します。その子は34歳になりました。「筑豊のこどもたち」という一冊の写真集は、私の原風景であり、忘れてならないものを思い出させてくれました。感謝、です。

★脈絡のないきょうの一行
カラスの鳴かない日はあっても、殺人事件の報道のない日はない。
未分類 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2009/01/15 [Thu] 12:00:11 » E d i t
 前回からの続きです。私が「ボタ拾い」をしなければならなかったのは訳がありました。わが家は貧乏の子沢山の典型のように、7人兄弟で私は3番目の長男だったことと、母の健康が思わしくなくボタ拾いをできる状態ではなかったからです。加えて3番目とはいっても、上二人の姉は中学校をまともに卒業できないまま、奉公に出され私が年長だったからです。

 ボタ拾いは必要なことでした。それがなければ燃料が不足したからです。冬は寒かった。今のように軍手などはなく、寒空の下、素手で作業をしたことは忘れられません。シモヤケとひび割れの指先は厳しいものがありましたが、この〝仕事〟はそんなに苦ではありませんでした。

 それよりもいやだったのは、学校の給食の時間でした。

 私が小学高学年の頃は、すでに学校給食は始まっていました。しかし、私の家は給食費を払うことができず、弁当を持参していました。クラスに3~5人はいたでしょうか。麦やイモの混じったごはんに、おかずは塩コンブと梅干というさびしいメニューでしたが、まだいいほうでした。なぜなら、その弁当を持っていけない日もあったからです。そんなときは、給食の時間だけそっと教室を抜け出したものです。妹や弟たちも同じ思いをしたはずです。

 写真集「筑豊のこどもたち」では、弁当を持っていけない子どもが給食時間に本を読んでいる様子が撮影されています。これは私の原風景そのものです。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
雇用破壊、雇用被災者、雇用難民、雇用被害者……雇用自殺が起きなければいいのだが。
未分類 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2009/01/13 [Tue] 10:22:20 » E d i t
 死語になってしまいましたが、「ボタ拾い」という言葉をご存知でしょうか。石炭を掘り出すとき、石炭以外の岩石も一緒に掘削しなければなりませんが、その不要な岩石を「ボタ」といいます。そのボタは外部に捨てられることになり、日月とともに堆積していき、そのうちに山のようになります。それが、「ボタ山」です。いま上映中の「怪人20面相」のなかで、親を失くした子どもたちが生活していた場所がそのボタ山の下だったことは、知る人ぞ知る、かもしれません。

 ボタは専用のトロッコで〝山頂〟まで巻き上げられて捨てられますが、捨てられたものの中にほんの少しですが石炭が混じっています。この石炭を拾うことを「ボタ拾い」というのです。その所有権は本来なら事業主にあるのでしょうが、「ボタという不要なもの」ということからでしょう、拾った人の所有として認められていました。このネーミング、庶民の知恵を感じます。

 しかし、ボタ拾いには危険が伴います。トロッコから捨てられたボタは勢いよく斜面を落ちてきますので、直撃を受ける可能性があるからです。上の方から「捨てるぞー」という声が聞こえてくるとあわててその場から離れます。新しいボタが落ちてくると、石炭が入っている可能性が高くなり、われ先に拾いにいきます。

 拾った石炭は自宅の燃料になったり、グループで拾いに行って売ることもあったようです。ボタ拾いは危険な面とともに、楽しみもありました。岩石の中に化石をみつけることがあったからです。木の葉や貝類の化石はあまり珍しいものではなく、アンモナイトのそれを見つけたときは嬉しくて学校に持って行き、クラスメートに見せたものでした。

 この経験は私が小学校高学年になってから始まりました。「筑豊のこどもたち」の写真集にはその様子が切々とつづられています。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
最近、消費税増税問題の報道がやたら多い。〝慣れさせ〟が始まったか?
未分類 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2009/01/09 [Fri] 10:06:23 » E d i t
 土門拳(1909年-1990年)の写真集、「筑豊のこどもたち」(築地書館)を手に入れました。この本は私にとって原風景のようなもので、60年代の後半に買い求め大事にしてきたのですが、いつしか引越しなどで失くしてしまいました。なんとか欲しい、と思っていましたら新装版として77年に再発行されていたのです。昨年12月中旬に「アマゾン」を利用して申し込んだところ一昨日、届きました。

 届いた本は、「2006年6月19刷」となっています。この写真集の初版本の発行は1960年ですから、実に長い間親しまれてきたことになります。かつて私が持っていたものは、土門拳さんの意向もあり、確かざら紙でした。が、今回届いたものは写真用のりっぱな紙で作られています。

 1960年は、ご承知のとおり日米安保条約反対闘争と三井三池闘争が展開された歴史的な年です。三井三池闘争は、エネルギーを石炭から石油に代える国策とのたたかいでもありました。その時代に筑豊の炭住街に住む子どもたちは、貧しさの中にもたくましく育っていました。そこにスポットを当てたのがこの写真集で、世相を反映したものである、ということから第3回日本ジャーナリスト(JCJ)会議賞を受賞しています。

 当時私は小学6年生で、父は炭鉱夫として働いており長崎県佐世保市の小規模炭鉱の長屋に住んでいました。このときのくらしぶりは、「筑豊のこどもたち」の主人公たちとまったく同じでした。その意味で、冒頭に述べましたようにこの写真集は私の原風景そのものなのです。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
45年間、通勤電車の利用者だが、混雑具合は同じでも昔は今ほどギスギスしていなかった。
未分類 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2009/01/07 [Wed] 16:02:01 » E d i t
 日比谷公園の「年越し派遣村」は5日に〝閉村〟されたあと、そこに集まった人たちは中央区の2ヶ所をはじめ新たな場所へ移動しました。さらに生活保護の申請も行いました。申請の手続きは千代田区で行われましたが、なぜ千代田区かというと、居住地の定まっていない人は前夜泊まった場所の自治体に申し込む、という規定があるからだそうです。知らなかった。

 私が千代田区役所にかけつけた時は、70、80人程度が手続き中でした。郵送する人もあり最終的には270人程度になるという見通しのようでしたが、この方式、当たり前だと思います。憲法で保障された「最低限の生活」を維持するための、当然の権利だからです。この手続きの対応は千代田区だけでは難しいということで、東京都からも応援が来たそうです。

 派遣村に集まった人に対して、「まじめに働こうとしている人か」という坂本哲志総務大臣政務官の発言は顰蹙(ひんしゅく)を買っています。これは言い換えれば、地震などの災害に遭った人に「本当に災害に遭ったのか」と批判することと同じで、その精神を疑いたくなります。生活保護の申請に対応するため、普段はとんでもない発言で物議をかもす、石原慎太郎都知事のほうが、都の職員を送っただけ、まだまし、というところに皮肉を感じます。

 この「年越し派遣村」の運動、政治を動かし始めました。5日の日比谷公園からの国会請願デモで、主催者があいさつしていましたが「動けば変えられる」状況が間違いなく生まれているのではないでしょうか。

 そしてもう一つ、この運動を底辺から支えていた人たちがいたことを忘れてはなりません。「もやい」の皆さんをはじめ、ナショナルセンターなかでも、全労連はその役割を発揮したと思います。そして手弁当で駆けつけた自由法曹団の弁護士のみなさん、さらには某新聞社の新聞記者も走り回っていました。「日本の善意」が1000人を超えるボランティアに象徴された、画期的な取り組みでした。が、課題は山積しておりこれからが本当のたたかいなのではないでしょうか。許すな雇用破壊、救え雇用被災者を!

★脈絡のないきょうの一行
山登りは前進するより撤退する方により勇気がいる。
政治問題 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2009/01/06 [Tue] 10:35:50 » E d i t
 年越し派遣村が設置された日比谷公園には、たくさんのボランティアが集まりました。最終的な登録数は1000人を超え、若者の姿が目立ったことが印象的でした。31日の昼食時間に、食料が足りないということで若い人たち3人と一緒に、日比谷公園から近い霞ヶ関から虎ノ門界隈のコンビニ5店をわたり歩き、おにぎり200個を買い占めました。若者たちは生き生きと協力してくれました。

 この日、事務局のテントを訪ねてきて「一市民ですが」と言って20万円のカンパを置いて行った人がいたそうです。他人の苦しみを思いやる心が息づいていることに安堵感を覚えました。農民連(農民運動全国連絡会)の仲間たちも駆けつけ、コメや野菜、果物の準備をしていました。それらを一つのテント内に整理しながら、農民連の事務局長が語ってくれました。「コメだけできょう(31日)までに700キロを超えました。もういい、と言っても次から次へと全国から送ってくれました。野菜や果物や乾物もそうです。嬉しい悲鳴です」と。

 高齢者のボランティアも目立ちました。なかにははっきり言って、この人を救う必要があるのでは、と疑問を覚えるような人もいました。女性の姿も目につきました。なんと4日には台湾から宗教者の人たちがナベ、カマ持参で駆けつけたそうです。それらの姿は真剣そのものです。阪神淡路大震災と中越沖地震の直後、現地に入りましたがあのときと同じ光景が展開されていました。

 村に助けを求めて来た一人が、テレビのインタビューに答えて「人のぬくもりを感じた。いつか私も恩返ししたい」と語っていました。これを聞いて私は、この取り組みに参加した仲間たちへの感謝の気持ちとともに、国民の貧困化を助長し続ける大企業と、それを見てみぬ振りを押し通そうとする行政に、改めて怒りが起きていました。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
〝金融本位制〟を野放しにしてきた世界の政治の責任は重い。中でもアメリカとニッポンは。
政治問題 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2009/01/05 [Mon] 10:10:58 » E d i t
 新しい年が始まりました。が、「めでたさも 中くらいなり おらが春」(小林一茶)という気分を通り越して、この国の未来への暗雲に気が重くなります。昨日の今年最初の記者会見で、麻生首相は「安心活力」と色紙にしたためましたが、国民の目にはその暗雲を象徴するかのように「不安無力」と映ったのではないでしょうか。

 昨年の大晦日、日比谷公園に開設された職や住居を失った人たちを救出する、「年越し派遣村」(12月31日から1月5日まで)にでかけました。千代田区内で行われるこの取り組みに、千代田春闘共闘が黙視するわけにはいかない、と、緊急の連絡にもかかわらず、小林秀治議長を先頭に9人の仲間たちの協力を得て、120人分の温かいおでんを提供しました。当日は〝開村〟初日であり昼食の準備が遅れ、温かいものはおでんだけしかなく大変喜ばれました。

 この「村」を運営する事務局の一人は、期間労働者や派遣労働者の切り捨ては「雇用災害だ」と強調していました。まさにそのとおりだと思います。日比谷公園に集まってきたのは最終的に300人を超えたといいますから、これはもう災害被災者と同じです。

 この災害は明らかに人災です。人災であるならば、その原因をつくった者が責任を取るのは当たり前です。第一に大企業ですし、第二に未必の故意を決め込んだ行政です。厚労省は2日になってやっと「庁内の講堂を宿泊所として提供する」ことを決めました。遅きに失した観は免れませんが、これは運動と世論の成果です。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
金融は経済を活性化するためのもので、その金融が経済を従えたことが悲劇の始まりであった。
政治問題 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △