ヘボやんの独り言
08« 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30.»10
2008/09/29 [Mon] 10:08:16 » E d i t
 暴言問題で、中山成彬国交相が辞任しました。当たり前でこんな人物を大臣にした人の責任も免れません。国会論戦が楽しみです。しばらく休んでいた百名山の報告です。今回から本州に入ります。まず、東北からです。

 02年10月11日から13日までの3日間で、東北4名山(八甲田山、岩木山、八幡平、岩手山)の一気踏破――という目標をかかげました。同行は山仲間のOさんとMさんです。勇躍、10日の夜、車で東京を飛び出しました。夜中の東北道は車も少なく快適そのもの、交代で運転し突っ走りました。(※注・ちょうどこの時期、山野井泰史・妙子夫妻はギャチュンカンで遭難していたのです)

 まず、八甲田山から挑戦です。これはこの年の8年前、大雨で取りつくことさえ許してもらえず、涙を飲んで引き返しており、リベンジです。「千人風呂」で有名な酸ヶ湯の駐車場に着いたら朝食を済ませたあと相談の結果、バスで青森方面に若干もどり、ロープウェイを利用して赤倉岳から縦走しようということになりました。

 ところが、バスの発車時間まで1時間近くあり、目覚ましもかねて酸ヶ湯の千人風呂に入ろうということになり、なんと朝風呂から始まりました。歩く前の入浴というのは初めてです。風呂からあがったらバスに乗車です。バスの客はそのほとんどが登山スタイルで、縦走を考えることは同じのようです。ロープウェイの山頂駅から歩き出します。最初、ガスがかかっていましたが徐々に晴れ上がり、赤倉岳あたりになると、八甲田山のピークである大岳のどっしりとした姿が目に飛び込んできました。

 赤倉岳から井戸岳に向かう左手に、おにぎり型の高田大岳がやけに大きく見えました。井戸岳は環境保護のためピークへの道は閉鎖されており素通りし、一旦下って避難小屋の横から本峰をめざします。息を切らせながら一気に登り詰めると頂上に到着。広々とした山頂に多くのハイカーが休んでいました。振り返ると山頂からここまで歩いてきた道のりが、手に取るように分かります。ロープウェイを利用して縦走路を選んだことが正解だったことを改めて確認、山頂で記念写真を撮って下山開始です。(次回へつづく)
スポンサーサイト
2008/09/26 [Fri] 10:07:25 » E d i t
 山野井泰史の冷静さはやはりすごいと思います。まずクマとの出会いです。(私もきっとそうでしょうが)普通の人だったらそれだけで身体がすくんでしまい、パニックに陥ります。ところが彼は果敢にたたかいを挑みました。その〝攻撃的防御〟にクマはひるんで口を離したのではないでしょうか。

 たたかいながら、小グマが歩いている様子を観察しています。余裕がなければできません。自宅にもどってからも、保険証や現金、連絡先のメモなどを隣家に頼んでいます。出血が激しく、「いつ気を失うかわからない」状態下でそれらをできるというのは驚異的です。

 2002年10月にヒマラヤのギャチュンカン(7,952m)登頂に成功し、その下山中に、妙子さんと一緒に雪崩で遭難したとき、凍傷になることが分かっていてハーケンを打ち込む手懸かり場所を探すため、小指から順に使っていったという話しを聞きました。これも私たちには考えられない冷静な判断です。「そこまでやるか」という気持ちでした。その冷静な判断力が、世界の未踏の山に、それもソロで挑戦しつづける原動力なのかもしれません。

 泰史の両手足の指10本を凍傷で失うという代償を経て、夫妻はギャチュンカンから生還しました。そのことが評価され、翌03年の『植村直己冒険賞』が夫妻に授与されたのです。ヒマラヤで拾った生命(いのち)を、日本のクマに取り返されたのではシャレになりません。またしても冷静さと的確な判断によって、彼は救われました。もしかすると、「ダイハード」の本物の主人公は彼なのかもしれません。そうは言っても、ご両親の心配を誘う親不孝はいただけません。

 見舞ったとき病床で、「事件後、地元の猟友会が山狩りに入ったという報道があったよ」という話しをしたら、「見つかっても撃たないでほしいなあ」と彼はつぶやきました。山野井泰史はいのちを大切にする、どこまでも優しいホンモノの登山家であります。
2008/09/25 [Thu] 09:57:44 » E d i t
 自宅に帰り着き、泰史が考えたのは関係者への連絡の取り方です。メモの置いてある部屋に行こうとしましたが、立ち止まりました。畳やじゅうたんに血が落ちることを恐れたからです。そこで隣家に駆け込み助けを求めました。隣家を通じて自宅下の家の人にも、協力を依頼しました。確かに血痕は、板張りの廊下には落ちていましたが、部屋の中には落ちていなかった、と、妙子さんは笑っていました。

 隣家のご夫婦は、血だらけの泰史を見てびっくりしたそうです。こんなとき、男より女のほうが落ち着くようで、おじさんはパニック状態になり、ただうろうろするばかりでした。おばさんに健康保険証や現金、必要なメモを取ってきてもらいました。その上でこの日、取材を受けることになっていた関係先や、旅行中の妻・妙子さんの宿泊先、千葉の実家などに連絡してくれと頼んで、自宅から石段を自分で下り、道路で救急車の到着を待ちました。その石段は急で「タンカで運ばれるとき、あそこで落とされる危険があると思ったから道路まで歩いた」というのが本人の弁です。

 到着した救急隊はケガの状況を見てヘリの出動を要請、救急車はヘリポートが常設してある奥多摩町の消防署近くまで行き、泰史はそこからヘリで青梅市民総合病院に搬送されました。ヘリの病院到着は8時40分過ぎでした。クマと格闘したあと、実に1時間半程度で病院に運ばれたことになります。この連携プレーはみごとなものでした。千葉の実家や旅行先の妙子さんには8時前に事故の連絡が入っており、こちらもスムーズでした。

 病院では当然、ICUで手術を受けました。さいわいに鼻の頭を噛みつかれだけで、食いちぎられてはいませんでしたが、その縫合手術に時間がかかりました。クマの歯の衝撃で、骨折もしています。が、それらはあまり心配はなく、医者が恐れたのは相手が野生のクマだったことから、破傷風菌や雑菌感染でした。それを見極めるには、1週間程度の時間が必要だろうという診断でした。(次回につづく)
2008/09/24 [Wed] 07:55:43 » E d i t
 クマ出現の認識がせめて10秒前であったなら、泰史はきっと逃げ切れたと思います。なぜなら俊敏性ではクマより泰史の方がはるかに上だと思うからです。追いかけられたらクマのほうがスピードはあるかもしれませんが、逃げながら泰史は瞬時に対策を考えたことでしょう。

 クマは仰向けに倒れた泰史の鼻に噛みついてきました。そのとき、「ここであまり動くと鼻を食いちぎられる」と考え、顔は動かさず下から足でクマの体を蹴り上げ、さらに頭を両手で叩きました。そのとき、近くを小熊が歩いている様子が目に入り「親子クマだった」とはじめて気づきました。下から蹴られたクマは驚いたのでしょう、一瞬口を離しひるみました。泰史はその隙にクマの身体の下から抜けて逃げ出しました。したがって、クマと格闘した時間はほんの1分程度だったのではないでしょうか。クマは200㍍ほど追いかけてきました。

 ラッキーだったと思うのは、このクマは前足をあまり使っていないことです。泰史の身体には、噛みつかれたときにクマが動いたであろうと思われる引っかき傷が、お腹に少しついている程度でした。前足で顔を張り倒されたら、人間はそれだけで参ってしまいます。それがなかったことは不幸中の幸いだったかもしれません。もっとも、相手も子どもを守ろうとかなり興奮しており、噛みつくことしか念頭になかったかもしれませんが。

 泰史がジョギング中に走る道は、(前出のように、私も歩いたので知っていますが)シカを防御するための金網が広範囲に張ってあります。その防御ネットは山道のところでトビラ式になっており、ハイカーは自分でそれを開閉することになります。泰史はそのトビラを開けて、自宅に走り帰りました。自宅に向かいながら出血のひどいことが分かり、いつ気を失うかそれが心配でした。自宅に着いたのは7時30分頃でした。(次回につづく)
2008/09/23 [Tue] 08:54:12 » E d i t
 麻生太郎自民党総裁が誕生しました。恐らく史上最短命内閣になるであろう、そのことを書こうと思いましたが、あまりにもありふれ過ぎて面白みがなく、山野井泰史さんのことに切り替えました。

 登山家の山野井泰史さんが9月17日、いつもの山道をジョギング中、クマに襲われ大怪我をしました。20日にお見舞いに行ってきましたが、元気でした。そして話しを聞くにつれ、ああいう危機的状況下でよくぞそこまで冷静になれるものだと、つくづくこの男のすごさを感じたものです。そこでご本人には了解を得ていないのですが、この事件を軸に山野井泰史という登山家の『冷静さ』について考えてみることにしました(以下、敬称略)。

 その前に、山野井泰史と私(の仲間たちと)の関係を簡単に触れておきます。泰史の父・山野井孝有さんは毎日新聞社の大先輩で、労働組合の書記長を務めたこともあり、それを通じて泰史とは触れ合うことになりました。最近は毎年12月に「餅つき忘年会」と称して、奥多摩の山野井泰史・妙子夫妻の家で一日を楽しんでいます。20キロの餅をつきあげ、(夫妻はアルコールをまったく飲みませんが)夜は宴会、そして翌日は近くの山にハイキングに行ったりして交友を深めています。昨年は、グリーンランドの山の初登頂に同行したNHK取材班と、作家の沢木耕太郎さんも参加し盛り上がりました。今回、泰史がクマに襲われた場所は、数年前のこの「会」のときに案内してもらって歩いたところです。

 クマから襲撃された状態を、ご本人と周りの人の証言でドキュメント風に再現してみましょう。

 17日午前6時半過ぎ、自宅をスタートしいつもの山道を走りました。目的地まで行き、帰り道に突然クマが襲ってきたのです。走りながら黒いものがチラチラするのを目視しましたが、泰史はいつものようにシカだろうと思い何の警戒心も持ちませんでした。

 「クマだ!」と認識したのは飛びつかれる1、2秒前でした。7時10分頃のことです。敵は完全に戦闘態勢に入っていたものの、泰史は全く無防備だったのです。唸り声をあげるクマに飛びつかれた瞬間、泰史はとっさに防戦したのでしょう右腕でそれを受け止めました。その右腕に噛みついたクマは、それを振り回して泰史を倒し、今度は仰向けになった泰史の顔に噛みついてきたのです。相手を倒して噛みつく、というのは動物の本能でしょうか、〝喧嘩慣れ〟しています。(次回につづく)
2008/09/22 [Mon] 10:07:21 » E d i t
 米騒動によって1918年9月、政府はついに内閣総辞職に追い込まれました。当時の内閣総理大臣は、寺内正毅(てらうちまさたけ)でした。寺内内閣を受け継いだのは原敬(はらたかし)でした。原敬は爵位を持たない初めての総理大臣となり、「平民宰相」として民衆から歓迎されました。米騒動はこれによって落ち着くことになりますが、この経過のなかで忘れてならないものがあります。政府が言論弾圧を行い、これに抵抗した新聞各社から総スカンをくらって、米騒動の報道禁止令を撤回するという醜態を演じたのです。この頃は、民衆だけでなくメディアも元気だったのですね。

 翻って、平成のコメ騒動です。これは放置できません。国民の生命にかかわる問題だからです。先週の金曜日、「国民の食糧と健康を守る運動全国連絡会」と「農民運動全国連合会」が呼びかけて、『汚染米不正流通の真相究明を求める緊急中央行動』を展開しました。農水省前にはさまざまな団体ののぼりがはためき、原因究明を求めて交渉も行われました。このような行動がおこなわれたのは、1918年の米騒動とは大きな相違点です。

 少なくともあの時代よりモノが言える現代、汚染米の徹底究明がなされなければ米騒動の先陣を切った富山県の主婦たちに申し訳ない気持ちです。その方法は一つ、あの時代になかった普通選挙制度を存分に生かすことです。これは限りなく大きな〝武器〟です。この間少し状況は変わってきましたが、早ければ10月中に総選挙が行われそうです。そのときこそ、民衆の底力を見せてやりたいものです。

 そういえば、昨年の漢字は「偽」でした。今年は、毒入り中国ギョーザから始まり、汚染米、そして今じわじわと中国で広がっている汚染ミルク問題と、イヤなものが続いています。船場吉兆に代表される虚偽表示も忘れてはなりません。それらを考え合わせると、今年の漢字は「汚」、「毒」、「虚」がノミネートされそうです。それにしても不気味な漢字ばかりです。
政治問題 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2008/09/20 [Sat] 07:20:34 » E d i t
 白須敏朗農水事務次官と太田誠一農水大臣がつづけて辞任しました。当たり前のことですが、太田農水相のこの間の言動を見る限り、本人が自ら言い出したとは思えません。総選挙を控えて、外圧によるものと考えるのがごく普通ではないでしょうか。辞任によってこの問題に幕引きさせてはなりません。米騒動といえば、大正時代に富山の主婦から始まったそれが歴史に刻まれています。紐解いてみましょう。

 1918年7月22日の夜間、富山県下新川郡魚津町の魚津港に、北海道への米の輸送を行うため、「伊吹丸」が寄航。伊吹丸への荷積みを行っていた十二銀行の倉庫前へ魚津町の主婦ら十数人が集まり、米の船積みを中止し、住民に販売するよう求める嘆願がなされた。この時は巡回中の警官によって解散させられたが、住民らは集会をはじめるなど、米の販売を要望する人数はさらに増加していき、翌月8月3日には中新川郡西水橋町で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願した。
8月6日にはこの運動はさらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となった。住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させた。この件は地方新聞を通じ、全国の新聞に「越中女一揆」として報道された。米騒動の始まりであった。(ウィキペディア)

 当時のコメの高騰はすさまじいものがありました。一人が年間に食べるといわれる1石(10斗・150㌔)の値段は、大阪・堂島の市場の記録では1月/15円、6月/20円、7月/30円、8月1日/35円、8月5日/40円、8月9日/50円――と推移しています。8ヶ月間で3倍以上になっています。当時の平均的サラリーマンの月収は18円から25円だったといいますから、その負担は推して知るべしといえます。

 このコメ高騰の背景は、第一次世界大戦(1914年~1918年)の影響により、コメの輸入量が落ち込み、そこに投機が集中したためといわれています。売り惜しみ・買占めが横行し、あわてた政府は「暴利取締令」を出しましたが、ときすでに遅く収拾不能の状態でした。ちなみに、スナックやキャバクラなどで「ぼられた」という言葉を聞きますが、この取締令の「暴利」からきたそうです。歴史って面白いですね。

 富山県魚津市の主婦から始まった、コメよこせ運動はまたたく間に全国に広がりました。1道3府37県、369ヶ所で数百万人が参加したと言われます。歴史学者のなかには、この時代にしっかりした労働組合なり、共産党のような政党があったならば革命が起きたかもしれないという人もいます。日本共産党はこの米騒動に誘発されるように1922年7月に創設されています。(次回につづく)
政治問題 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2008/09/19 [Fri] 11:13:40 » E d i t
 昨日、毎月第3木曜日におこなっている消費税反対の宣伝行動が終わって、仲間たちと行きつけの居酒屋によりました。キープしてある焼酎のボトルを頼むと、真新しいものが出てきました。どうしたんだ、と聞いてみると「前のあの銘柄は、例のコメが使ってあり、問題はないというのですが全部取り替えました」といいます。ギョギョ、です。これで私はあのコメが使ってある焼酎を飲んだことが分かったのは3度目になります。

 こんなことが許されていいのでしょうか。たとえば、ここに毒の入ったお菓子があったとします。その菓子は見た目にカビが生えており、毒が内部に浸みこんだものもあります。常識的にはそれが見つかった段階で廃棄されます。ところが今回のコメ騒動は「工業用に使ってくれ」と、毒入りが分かっていて売ったヤツがいたのです。しかもお上が……。

 今回の汚染米問題の根源は、それが分かっていながら輸入したことにあります。通常の商取引では、返品してしかるべきだったのです。しかしこの国の政府は、受け入れてしまったのです。この事件で霞んでしまいましたが、中国の毒入り汚染ギョーザのときは、即座に返したではありませんか。コメにそれができなかったのは、アメリカが背後にいるからにほかなりません。

 その毒入りコメを買ったヤツもひどいものです。正気の沙汰とは思えません。儲けのためなら、汚染されたものでも売りつけるという、企業倫理もへったくれもないその神経は、自分がそれを口に入れさせられたからではありませんが、誤解を恐れずに言えば〝天誅〟ものです。怒り心頭、とはこのことです。しかも、三笠フーズのグループ2社が自民党の支部に献金していたというではありませんか。

 汚染米の広がりはとどまることを知りません。毎日のように新たな事実が発表されています。これはもう、平成のコメ騒動です。ときあたかも、自民党の総裁選挙中。22日に新たな総裁が決まり、その後(恐らく)史上最短命内閣がつくられ、解散・総選挙になるでしょう。国民の安心・安全を裏切ったあの人たちに、仕返しをするチャンスです。(次回につづく)
政治問題 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2008/09/17 [Wed] 09:53:24 » E d i t
 私の母は1921年(大正10年)2月20日、長崎県北松浦郡鹿町町(しかまちちょう)で生まれました。今年の誕生日で87歳になりました。父親は炭鉱夫をしており、上に1人の兄、下に2人の弟と1人の妹の5人きょうだいでした。兄はあの戦争中にフィリピンで戦死、すぐ下の弟は交通事故で、妹は病死し鬼籍に入っており残ったのは2人だけです(もちろん、両親も亡くなっています)。

 母の両親の実家は、同じ長崎県の小値賀(おぢか)島という小さな島にありました。母は子ども時代にここで生活したことがあり、大きなウミガメに乗って遊んだことを自慢げにはなしていました。母と父との出会いはなかなか語ってくれずヤミの中ですが、年齢が12歳も離れており結婚を親に反対され、駆け落ちをして結ばれたそうです。その連れ合いも親と同じように炭鉱夫で、酒を飲むと暴力をふるう(今でいうDV)ことがあり、苦労しました。

 戦時中は佐賀県伊万里市の炭住街に住み、出征した連れ合いの帰りを待っていました。その間、働き手のない家庭で、夫の代わりに坑内に入って石炭を掘ったといいます。もちろん戦中の国家政策の一環でもあったでしょう。そのときの仕事が原因かどうかは、はっきりしませんが、現在、ぜん息を患い日常的に酸素吸入器を使用せざるをえず、肺機能低下を理由とした障害者手帳を持っています。

 戦中に一人亡くしましたが、子どもを7人育てました。夫は組合活動をやる人で、レッドパージを受け、福岡・佐賀・長崎各県の小さな炭鉱を転々とし、生活は楽ではありませんでした。食べるものも事欠く生活のなかで、しっかり子どもたちを育て上げました。その努力は賞賛に値します。

 7人の子どもを育てたということは、大局的には日本の経済に貢献したことになります。私の母だけでなく、多くのお年よりがそうだったはずです。その年よりを大事にすることは、当たり前のことです。しかし現在の政治は、あまりにも高齢者に冷たすぎます。天につばするその行為に、いつか鉄槌が下されることでしょう。それにつけても、母が目に見えるように老いていく様子は、そうなることが分かってはいるものの悲しいものがあります。

 敬老の日をはさんで、高齢化問題を考えてみました。
2008/09/16 [Tue] 10:39:19 » E d i t
 介護士の労働条件の改善もさることながら、施設の増設も緊急課題です。私の母の介護が自宅であったなら、家族は、仕事はおろか家事すらたいへんなことになっていたでしょう。ところが多くの高齢者を抱えた家族は、そのなかで生活をしている訳ですから、その労苦は察して余りあります。

 最近、「老老介護」(年寄りが年寄りの介護をする)の割合が3割を超えた、という報道がありました。子どもが親を介護するのではなく、老夫婦あるいは高齢化したきょうだいのどちらかが介護を必要とする事態になり、それを相方がやっているということです。これは説明不要の深刻な事態です。

 08年度版の「高齢社会白書」(厚労省作成)によりますと、07年3月末現在で65歳以上の要支援・要介護の認定者は全国で425万人となっています。これに対して、(有料も含めて)特養ホームに入ったり、ヘルパーが来てくれたりの介護サービスを受けている人は345万人です。その差80万人は前述の老老介護や、施設入居のウェイティング状態になっているのです。これも深刻です。

 しかも、団塊の世代は2012年から65歳の高齢化を迎えることになり、亡くなって行く人を差し引いても年間100万人が増えるといいます(国立社会保障・人口問題研究所)。迫り来るその現実に比べて、特養ホームなど高齢者を受け入れる施設の増設はあまりにも貧弱です。まるで、年寄りは早く死ねと言わんばかりではありませんか。

 これは政治の貧困の証明でもあります。政治は弱者にこそ光を当てるべきである、というのが私の持論です。お年寄りや、障害者、子どもたちに厚みをもった政策をとるべきです。ところが現実はどうでしょうか。後期高齢者医療制度の例を引き合いに出すまでもなく、また若者の就職難や非正規雇用者の増大を見るならば、この国の為政者は逆走しているとしか思えません。そういえば、ずいぶん前のことですが東京都議会だったと思いますが、老人健保の無料化をめぐる論戦で、自民党議員が高齢者に対して「枯れ木に水をやるようなものだ」と発言し、大問題なったことがあります。(次回につづく)
2008/09/12 [Fri] 10:28:48 » E d i t
 母が現在住んでいる特養ホームには、介護保険がスタートした2000年4月に入所しました。介護保険がスタートするということで、あちこちに特養ホームが新設された時期ですから、母はこの施設の第1期生です。その意味ではラッキーだったと思っています。ここに入るまでは、老人病院を転々としていたからです。

 施設の職員のみなさんはよくやってくれています。たとえば、食事のありかたを見ていると入所者の状況に合わせてつくってくれます。母の場合は麺類が好きなこともあり、体調を崩したときなどはそれを中心にしたメニューになっています。これらには大変な手間がかかっていると思います。レクレーションの時間もあり、「夏まつり」や「敬老会」、「お誕生会」などもやってくれます。

 その介護の仕事に従事する人たちの賃金があまりに低く、退職する人が続出していることが社会問題化してきています。仕事はハードです。たとえば入浴の作業ひとつとってみても、力のいる仕事です。ベッドから起こす作業も楽ではありません。夜勤もあります。「福祉の仕事としてやっていきたい」という正義感も、低賃金でつづけられないという問題が生じているのです。母が入っている施設も例外ではなく、若い人が生活の展望を得られず辞めていくケースがあるようです。

 高齢化社会が進行するに連れて、遅からずこの問題は由々しき事態になるのではないかという懸念を私は持っています。つまり、介護士が不足して高齢者が見捨てられてしまうのではないか、「施設はあっても介護士不足で入れない」という状況がうまれるのではないか、ということです。

 医療の現場ではすでに同じようなことが起きています。看護師不足がそれです。ちょっとデータは古いのですが、2006年の厚労省の調査では、准看護師、助産師、保健師も含めて、現在仕事をしていない「潜在的看護師」は55万人に上っています。その復帰を求める声が大きくなっていますが、改善は見られません。労働条件の向上がないからです。介護の現場でも同じようなことが起きるのは時間の問題といえそうで、緊急の対策が求められています。(次回につづく)
2008/09/10 [Wed] 15:00:36 » E d i t
 前回、母との会話を詳細に記したのは意図があるからです。高齢になると少なくない人たちが、あのような状態になることを知っていただきたかったからです。とりわけ、よく言われる「昔のことは覚えているが、最近のことはさっぱり」ということがお分かりいただけると思ったからです。白内障でものが見えにくいというハンディはありますが、自分の子どもや孫の顔も名前も分からなくなってしまうのです。母のそういう状態が分かったとき、率直にいって私は戸惑いました。

 しかし、戸惑ったままでは物事は解決しない、そう自分に言い聞かせて正面に据えることにしました。すると、不思議なことに肩の荷が下りたと思えるほど気持ちが軽くなり、母が子どものように変化していく様子が、可愛くさえ見えるようになったのです。母だけでなく私自身が変化させられた、そんな気がしています。

 うちのカミさんは介護の仕事をしています。フルタイムではなく1日に3時間程度のヘルパーとして働いています。したがって彼女は仕事で日常的に高齢者と接しています。そのカミさんと『高齢者のボケは、死への恐怖から逃れるための本能ではないのか』という点で意見が一致しました。高齢化は彼岸への接近であることは誰にでも分かっていることで、ボケは間違いなくその恐怖から逃れられます。あなたは、どう思いますか。

 そしてもう一つ、「年を取る」ということの意味についてです。(これは私個人の見解ですが)ヒトの年齢は、個人差もあるでしょうが一定の歳に達すると、加算(たしざん)ではなく減算(ひきざん)になるのではないかと思ったりします。私の母の場合は80歳を境に1年ごとに10歳を取る、すなわち、先祖返り(若返り)をしており、87歳になったいま、7歳の小学生程度のような気がしてなりません。屁理屈だよ、と言われてしまいそうですが少なくとも私の母は、日ごとに幼児化しています。(次回につづく)
2008/09/09 [Tue] 12:46:23 » E d i t
 母の急激な変化について、兄弟のところに連絡しました。早速、茨城県つくば市に住んでいる妹が、自分の息子の車に乗せてもらって6日・土曜日、母にしてみればひ孫ちゃんたちを連れて面会に来てくれました。この時点で状態はかなりもとに戻っており、会話も成立するようになっていました。母の様子が事前に分かっており、連れ合いのおばあちゃんと母親を送った経験をもっている妹は、ちがう角度から会話を試みました。

 ★名前はいえますか/「ヤスコです」
 ★上の名前は/「ミズクボです」
 ★旦那さんはどうしていますか/「亡くなりました。昭和51年です」※注・これは事実。
 ★旦那さんが亡くなって寂しくないですか/「寂しくありません。暴力をふるう人だったからそれがなくなってよかった」
 ★子どもさんは何人いますか/「女の子が3人と男の子が4人。誰もここに来てくれません」※注・この数は正解。
 ★私(妹)が誰だか分かりますか/「知りません。どちらさんでしょうか」
 ★あそこに立っている男の人(母にとっては孫)は誰だか分かりますか/「知らないおじさんです」
 ★(私のことを指差して)この人は誰だか分かりますか/「ワタシの息子」
 ★息子さんのお嫁さんの名前はなんといいますか/「分かりません」

 誇張した会話ではありません。妹は「どちらさんでしょうか」と問われた経験があり驚かなかったようですが、自分のことを「知らないおじさん」と言われた孫(私にとっては甥)は少々ショックだったようです。母は自分の息子のことは少し理解していたようですが、一番回数多く顔を出しているうちのカミさんの名前を即答できなかったのは意外でした。しかし、しばらくして突然「マキコさんは、きょうはどうしているの。仕事かなー」と質問してきました。いつもの顔がどこかにストックされているのでしょうか。

 ベッドで横になっている母に、妹が持参してきた「スイカを食べるかい」と聞いてみると「食べる、食べる」と意気込みます。その様子はまるで子どもです。「それじゃ、起き上がってみて」と誘うと、自力で起きました。つい3日前は手を貸しても起き上がれなかった人が、です。食欲の力なのでしょうか。その様子をみて、妹一家は安心して帰っていきました。(次回につづく)
2008/09/08 [Mon] 10:01:11 » E d i t
 先週、急激に母の様子がおかしくなりました。食事を取らなくなり、いつもは自分でベッドから起き上がるのですが、それすらできなくなったのです。熱があるわけでも血圧が上がったわけでもありません。こちらが話しかけてもウワの空で、対話になりません。目もうつろで、焦点が定まっていません。特養ホーム(以下「施設」)の職員さんたちも心配してくれ、危機感と緊張感が走りました。

 寝たきり状態ですから排便も自分でできなくなり、オムツを当ててもらっていました。静岡県に住んでいる姉が心配して様子を見に来てくれましたが、それも理解できなかったようです。原因について思い当たるフシもあり、担当医と職員さんたちと相談し一時ストップしていた、精神科関係の薬の服用を再開してもらうことにしました。

 食事も取れないその様子はかなり深刻で、病院に連れて行くことを考えざるをえませんでした。もしかすると、入院という事態になる可能性もあります。どこの施設もそうでしょうが、入院が3ヶ月以上続くと『退所』しなければなりません。しかも入院中は部屋を空けて、デイサービスに利用されることになります。その施設の経営問題を考えれば、それもやむを得ない措置です。

 病院に連れて行くにしても、ベッドから起き上がれないわけですから、車椅子のまま乗れる車を手配する必要があります。病院も、認知症が進んでいる関係で精神科にするのか、内科的なものにするのかも迷います。施設の看護師さんは「精神科がいいのではないか」とアドバイスしてくれました。母の状態は87歳という年齢を考えると、かなり「危ない」という気持ちを払拭できませんでした。(次回につづく)
2008/09/05 [Fri] 11:53:45 » E d i t
 もうすぐ、敬老の日がやってきます。お祝いのはずですが、今年は、後期高齢者医療制度というとんでもない〝プレゼント〟があり、そんな気分になれません。私の身近に、87歳になる母と、92歳になるカミさんの母(私にとっては義母)の二人がいます。私の母は特養ホームで、義母は同じ練馬区内に義姉と一緒に暮らしています。敬老の日を前に、母を基軸に高齢化について考えてみたいと思います。

 母は私の記憶する限り、3年ほど笑ったことがありません。週に1回は特養ホームを訪ねるのですが、明らかに喜怒哀楽が消失しています。いわゆる認知症が進行しているようです。加えて、以前は自分の子ども(私の兄弟)や孫のことを必ずといっていいほど「大阪から連絡あるかい。愛ちゃんはどうしているか」など心配したものです。それも最近は全くなくなりました。母を見ている限り、喜怒哀楽の喪失は認知症の入口のような気がしています。

 面会のたびに果物やお菓子類を持参します。いつもそれらを美味しそうに食べます。しかしその食べ方は普通ではありません。味わう、ことはなくただひたすら、食べることに集中します。その間、会話はありません。その様は乳幼児が、母親のおっぱいにすがりついて「生きていくため」の行為として飲み続ける、あれと同じように見えます。先祖帰り、という言葉がありますが、その光景はそれそのものです。

 母は日常的にリハビリパンツを着用しています。きちんとトイレに行き用は足せるのですが、寝ている間に粗相をすることがあり、つけるようになったようです。当初、そのパンツ姿を見られることを嫌がっていました。息子に見られるのは恥ずかしいと思っていたのでしょう。私も知らないふりをしてきました。しかし最近では、それもなくなったようです。認知症がやって来ると、喜怒哀楽のみならず、羞恥心も喪失するようです。(次回につづく)
10098 通夜 
2008/09/03 [Wed] 14:23:32 » E d i t
 昨日、千代田九条の会の打ち合わせ会議があり、終了後「福田内閣の通夜」をやりました。お清めの酒はけっこう入り、盛り上がりました。「政治の世界は一寸先はヤミ」と言われますが、1年に二人も突然辞任を言い出すなど、闇どころかあそこはブラックホールに見えてなりません。

 政権を放り出した理由についてメディアはさまざまなことをいっています。政策に行き詰まった結果、だとか、公明党との関係がうまくいかなかったからだとか。笑ってしまうのは、あの人はもともと放り出しグセがあるらしいことです。官房長官のとき年金不払い問題が発覚したとたんに辞めてしまったのは記憶に新しいことですが、かつてゴルフをやっているときバンカーからボールを出せなくて、その日のゲームを中止したこともあるといいます。いろいろな分析がありますが、ホントのところは『わがまま』からきているのではないでしょうか。そんな人を総理大臣に持ったこの国が不幸でした。

 庶民の反応はどうでしょうか。高校生を持つ父親は「息子はバイト先で辞めるときは1週間前に言ってくれといわれている。だけど総理大臣はその日のうちに辞めてもいいんだと怒っていました」と。高校生君の意見が正しい。酪農家の人は「原油高の影響で飼料の高騰がつづき、経営がやっていけないけど、辞めるに辞められない窮状。簡単に辞めることができる首相がうらやましい」とやんわり。辞めたくても簡単に辞められないのが、まさにフツーであり、あの人がヘンなんです。

 通夜の席では次の総理大臣が誰になるのだろうか。民主党が政権を取ったらもっと悪くなるのではないか。公明党は民主党と連立を組むのだろうか――などなど、いろいろな意見がでました。が、次の政権は「選挙管理内閣」となることは間違いありません。「もしかしたら年内にもう1回、麻生内閣の通夜をやることになるかもしれないね」と言いつつ、帰路につきました。字余り。
2008/09/02 [Tue] 17:32:48 » E d i t
 小屋は(事前にインターネットで調べておいたとおり)はしごの階段を使った2階が入口です。襲ってくる寒さのためにアイゼンを取り外すのももどかしく、そこから入りましたが予想どおり誰もいません。小屋の中は当然寒く、じっとしていると震えがきます。小屋の使用料を箱に入れて食事の支度です。コンロの火が暖かく心地いい。Sさんが持参してくれたジャガイモ焼酎『北緯44度』のお湯割りは、身体中に活気を与えてくれました。

 就寝時間となりシュラフの上にさらにシュラフカバーを着けてその中にもぐり込み、さらにその上をツェルトで覆いますが、寒さは容赦しません。しかし不思議なもので、異常な寒さの中でも意外なほど、眠れるものです。Sさんはしっかり寝息すら立てています。さすが大物は違う。

 2日目、朝。外はゴーゴーと風の唸り声が聞こえます。ドアを開けてのぞいてみると、ガスで真っ白となっており何も見えないばかりか、小雪すら舞っていました。そう、吹雪です。これは天気予報どおりで「6時まで待って、ガスがあがらなかったら下山しよう」ということになり、パンとコーヒーで朝食を済ませてしばらく様子をみます。しかし山頂への再チャレンジはかなわず、下山にとりかかることにしました。

 一瞬のガスの晴れ間を見計らって、下山方向を確認しそちらへ歩を進めます。前日、小屋に入る前に下山ルートは確認してありそれに沿って下りていきます。前日の登山コースと違いますが、ここも急坂で厳しい。アイゼンが大活躍で、転んだ時の危険を回避するために、持って行ったザイルで二人の身体を繋ぎます。ピッケルがこのときほど頼もしく見えたことはありません。急斜面をジグザグに自分たちで道をつくりながら前進です。

 ゆるやかな斜面に出てきて、やっと前日自分たちが歩いた足跡を見つけザイルを解いてそれに沿って下っていきます。途中、スキーを履いた4人組みとすれ違いました。強風の山頂まで行くのだろうかと、天気の具合を見ていて少し心配になりました。車を止めた場所まで戻ってみると、ここにも4人組みが登山の支度をしていましたが、突然激しい雪となりました。大きなボタン雪でした。4月のボタン雪は本州では風情かもしれませんが、北海道では厳しいものでした。

*徒歩総時間/1日目・7時間30分、2日目・3時間15分
 1日目/登山口(9:00)-途中休憩1時間-羊蹄山外輪(17:00)-9合目小屋(17:30)
 2日目/9合目小屋(6:15)-登山口(9:30)
2008/09/01 [Mon] 15:24:44 » E d i t
 北海道にある「日本百名山」最後の山、9座目です。

 正式名は後方羊蹄山=シリベシヤマ=で、別名が羊蹄山=ヨウテイザン=。通称、ヨウテイザンですが、蝦夷富士とも呼ばれています。「後方」ということは、「前方」もあるのだろうと考えるのが人情ですが、実はあるのです。すぐ横の尻別岳がそれで、別名が前方羊蹄山なのです。しかもアイヌの世界では、羊蹄山を女の山、尻別岳を男の山として区別したといいます。尻別岳には同じ年の11月に登りましたが、羊蹄山のときと同じように雪に覆われていました。今回は百名山の報告ですから、尻別岳は省きます。

 04年4月23、24日、北海道の雪山の初挑戦です。想定どおりで、加えてすさまじいとも言える急斜面とのたたかいともなりました。同行はSさんです。前日、北海道入りしニセコのビジネスホテルに投宿、早めにチェックアウトし真狩(まっかり)登山口へ。このコースは羊蹄山の南側に面することから、少しは雪が溶けているだろうと考えたのですが、それは甘かった。登山口からすでに雪道です。踏み跡を慎重になぞっていきます。「2合目」の標識は確認できたものの、それ以降は足跡と地形だけが頼りとなりました。

 左手に小ピークが見えるあたりから、坂の勾配は厳しくなりました。天気は風もなく、青空が広がり上々です。振りかえれば、昆布岳のトンガリ帽子状が可愛いく天を突いています。洞爺湖も見えます。水際の向こう側に噴煙を上げているのは、有珠山でしょうか。眼下にはゆったりした、真狩の農村風景が心を落ち着かせます。

 かなり外輪まで近づいたと思われ、急勾配は厳しくなり時折一旦戻って違うルートに変える場面も。時間は確実に刻んでおり、少しだけ焦りが出てきます。暗くなると小屋が分からなくなる恐れがあるからです。やっとの思いで、眼前が開けた場所に出たところで(避難小屋の近くだろうと思ったが)、Sさんがいきなり「あんなところに小屋がある」と、叫びました。なんと、かなり下方に小屋が見えるではありませんか。

 そう、小屋の横を通るつもりが直接外輪山に到達したのです。途中、左手に見えた小稜線が夏場のルートで、私たちが歩いてきたところは積雪で直登が可能になっていたのです。外輪はさえぎるものが何もなく、さすがに風も強い。それはもう真冬の寒風そのものです。時計は午後5時近くになっており、外輪のピークまで歩くにはかなり難しい、と判断。相談の結果、明日天気が良ければそこまで行ってみようと決め、写真を撮ってカール状の氷結したルートを直接小屋に下りました。 遠くに日本海が見え、ちょうど夕日が沈む時間滞でその輝きは幻想的ですらありました。(次回へつづく)