ヘボやんの独り言
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2008/07/30 [Wed] 10:32:02 » E d i t
 1983年7月15日、35年前に熊本県人吉市で起きた強盗殺人事件の犯人として最高裁で死刑判決を受け、刑が確定していた、免田栄さんの再審無罪の判決が出ました。マスコミは一斉に「死刑台からの生還」と書きたてました。

 しかし、このカベも厚いものがありました。この判決が出るまでに、一度は再審開始を得たものの検察側の即時抗告で取り消され、実に第6次請求で再審が開始されたのです。この事件もそうですが、自白偏重による判断が人の一生を狂わせてしまったのです。もし仮に、死刑が執行されていたら、取り返しのつかないことになっていました。

 以降、香川県財田川村で起きたヤミ米ブローカーの殺人犯として死刑判決を受けた、財田川事件の谷口繁義さん。静岡県三島市で6歳の女の子が殺され、三島事件の犯人として死刑判決を受けた赤堀政夫さん。そして、宮城県松山町で一家4人が殺害され、松山事件の犯人として死刑判決を受けた、斎藤幸夫さんらは、再審によって無罪を勝ち取ったのです。

 死刑判決だけでなく、刑期終了後も再審請求を行い、無罪をかちとった例も少なくありません。殺人事件の共犯者として無期懲役を言い渡され、再審で無罪となった加藤老事件は62年という長きにわたりました。徳島ラジオ商殺し事件では、家族が遺志を継ぎ本人が亡くなってから無罪を実現しています。そいうなかで、再審請求の現在進行中のもので一つだけ特異な事件があります。「福岡事件」がそれです。(次回につづく)
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2008/07/28 [Mon] 10:16:47 » E d i t
 村上国治さんのたたかいのエネルギーはどこにあるのか、という私の質問に事件前から村上さんと活動をともにしていた金川三郎さんは事もなげに「農民出身、それも貧農だったからだよ」と答えました。これにはびっくりでした。堅固な思想的背景があるのではないかと考えていたからです。しかし、そう言われてみると頑固なまでのねばり強さは、農民のそれだったのかもしれません。

 その村上さんは、獄中においてもたたかいました。新聞を読むことを認めさせ、食事の改善をさせ、網走刑務所が開設以来、冬でもつづいていた「裸検査」を中止させることに成功しています。それらをつづった日記があります。『網走獄中記』がそれですが、村上さんが仮釈放のときに「菊栽培日記」と一緒に持ち出したもので、2冊の本になっています。この中に詳細が書いてありますが、刑務所長あてにていねいな要求書を出しています。それゆえでしょう、所内の囚人たちからかなり慕われていたようです。

 一方、村上さんは詩人でもありました。たくさんの詩を残しています。決して気取らない、語りかけるような詩風は読む人をなごませ、少なくないファンをつくりました。粘り強さといい、詩を書く姿勢いい、きっと農民としての血がそうさせたのかもしれませんね。

 村上さんのそういう思いと裏腹に、再審の途は残念ながら閉ざされました。75年5月、最高裁は再審の訴えを退けたのです。しかし、最高裁にも少しだけ血が通っていたのでしょうか、再審にも「疑わしきは被告人の利益に」という考え方を判決の中に盛り込んだのです。いわゆる『白鳥決定』の誕生ですが、これはその後、再審に大きな道が開かれることになるのです。(次回につづく)
2008/07/25 [Fri] 10:20:03 » E d i t
 再審事件のいくつかについてのちほど触れますが、その前に、ここまで無罪を主張してたたかい抜いた村上国治さんという人はどんな人だったのでしょうか。その力の源(みなもと)はどこにあったのでしょうか。村上さんの年表的な部分を見てみましょう。

 ・1923年1月5日/北海道比布町にて出生
 ・1952年1月20日/札幌市内で道警・白鳥一雄警部が射殺され「白鳥事件」発生
 ・1952年10月1日/逮捕(69年11月の仮釈放まで獄中生活17年1ヶ月/逮捕時29歳、寄しくも小林多喜二と同じ年齢)
 ・1957年5月7日/札幌地裁、無期懲役判決
 ・1960年5月30日/札幌高裁、懲役20年の判決
 ・1963年10月17日/最高裁、上告を棄却、ただし未決拘留日数のうち700日を刑に算入
 ・1965年10月21日/札幌高裁に再審申し立て
 ・1969年6月13日/同高裁、再審請求を棄却、異議申し立て
 ・1969年11月14日/仮釈放
・1971年7月16日/同高裁、異議申し立てを棄却、最高裁へ特別抗告
・1975年5月20日/最高裁、特別抗告申し立てを棄却、ただし「再審制度においても『疑わしいときは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用される」という判断を下した(通称「白鳥決定」)
 ・1994年11月/自宅の火災で死亡

 村上国治さんを語るときに忘れてはならない人がいます。金川三郎という人です。白鳥事件が発生した当時、金川さんは村上さんと一緒に共産党の活動をしていました。金川さんは後に、「全国白鳥事件対策協議会」(中央白対協)の事務局長を務め、村上国治さんを救出する運動に全力を注がれました。その金川さんに「村上さんは何故あそこまでねばり強くたたかえたのか」という質問をぶつけたことがあります。興味深い、今日でいうサプライズの答えが返ってきました。(次回につづく)
2008/07/23 [Wed] 13:09:49 » E d i t
 村上国治さんは、最高裁判決の1ヶ月あとの1963年11月に網走刑務所に送られました。ここで、69年11月に仮釈放されるまでの6年間を暮らすことになりました。村上さんは最高裁判決と同時に再審の準備を開始しました。

 一方、金属学者の長崎誠三さんは、中国の科学者の協力を得て、吉林省の美幌峠と同じような環境の場所で弾丸の実験を行ったのです(日本ではピストルの弾丸が手に入らないことからも、中国の協力を要請)。その実験結果も、腐食は起きるというものでした。科学者の真理へのあくなき追求を見た思いでした。

 科学者はすべからくこうあるべきだと、長崎さんから教わりました。事実と真実に対しては一歩も引かないという立場は、科学者にとって当たり前といえばそのとおりです。長崎さんはまさにそのことを実践した人でありました。

 長崎誠三さんは1999年に亡くなられましたが、ご家族が残された資料をもとに『作られた証言――白鳥事件』という本が03年に上梓されました。この本づくりに、長崎さんの甥にあたる長崎和夫さんもかかわられました。ここにあるこの本は、その和夫さんから「白鳥事件にかかわった者」として個人的にプレゼントしてもらったものです。その長崎和夫さんは、現在、毎日新聞社の専務として活躍中の人でもあります。

 科学者たちの国際的な協力がありましたが、白鳥事件の再審は実現しませんでした。しかし最高裁は、1975年5月20日、特別抗告申立への決定にあたって「再審にも疑わしきは被告人の利益に」といういわゆる『白鳥決定』を出したのです。以降、再審に門戸が広げられ死刑判決事件も含めて、再審が開始され無罪の判決が下されていきました。(次回につづく)
2008/07/22 [Tue] 10:29:46 » E d i t
 村上国治さんは、「共同共謀」の主犯として逮捕されました。つまり、村上さんは射殺された白鳥警部に一切ふれていませんが、その殺害を共謀し実行を指図した張本人だ、ということで起訴されたのです。

 この事件は逮捕された関係者の証言で作られたもので、物証は3個の弾丸だけしかありませんでした。1個は射殺された白鳥警部の体内から出てきたもの、あとの2個は、19ヶ月目と27ヶ月目に、関係者の自供どおり、ピストルの発射練習をしたという札幌郊外の幌美峠(ほろみとうげ)の土中から出てきたものです。この3個の弾丸が同じピストルから発射されたものであれば、証言が事実であることが証明されることになるのです。

 同じピストルから発射されたものであるならば、ピストルの銃身の内側についている線条痕(せんじょうこん・旋条痕とも書く)が一致すること、そして19ヶ月ないし27ヶ月土中にあった弾丸のさび具合つまり腐食がどうなるかという2点の科学的根拠が求められたのです。

 一審では3個の弾丸の線条痕は一致するという鑑定が採用され、有罪の決め手になりました。しかしこれは後にアメリカ軍が調べたものを、日本人が鑑定したように見せかけたものであることが判明しました。裁判所は同時に、金属学者にこの鑑定を依頼したのです。受けたのは、東北大学助教授(当時)の長崎誠三さんという人でした。長崎さんは、長期間土中にあったにしては弾丸の腐食具合は進行していない、という鑑定を出しました。が、裁判所はこれを無視、無期懲役の判決を下したのです。

 二審では検察側も別の学者に鑑定依頼を行い、長崎鑑定と真っ向から反するものとなりましたが、裁判所は一審の有罪を維持し村上国治さんを無期懲役から懲役20年に〝減刑〟する判決を下しました。最高裁も1963年10月これを維持し上告を棄却しました。(次回につづく)
2008/07/18 [Fri] 13:38:31 » E d i t
 1950年5月に共産党の国会議員を公職追放し、企業内の共産党員(らしき人も含めて)を排除するレッドパージが行われました。これは2年間続きました。そして翌月、朝鮮戦争が勃発しました。51年9月には日米安保条約が締結され、52年6月23日に同条約が発効しました。きょうは、安保条約が発効されてちょうど56年目にあたる「記念日」です。

 このような動きの最中の52年1月に白鳥事件は起きたのです。

 歴史家の犬丸義一さんはフレームアップ(でっちあげ)を行うにあたって、三つの「条件」をあげています。①支配層が政策を大きく転換させる必要が生じたとき②労働組合をはじめ、革新勢力が弱体化したとき③国民の中にフレームアップの経験がないとき--がそれです。この三つを白鳥事件に当てはめてみると、みごとに一致するではありませんか。

 政策転換は、日米安保体制の確立がありました。戦後、アメリカとの単独講和か、連合国との全面講和かの論議がありましたが、日本はサンフランシスコ条約とともに日米安保条約を結び、アメリカとの関係を強めていったのです。そして、二つ目の革新勢力の力では、共産党が追放されたことにより極端に弱まりました。三つ目は言うに及ばず、国民にフレームアップの経験はなかったのです。

 その意味では、犬丸義一さんの指摘は的を射ています。白鳥事件の犯人として逮捕された村上国治さんは、朝鮮戦争反対を唱え、食料よこせの運動に取り組んでいました。列車転覆事件などを利用して、時の権力はでっち上げを行ったのです。このとき、新聞は事件の報道はしましたが、問題をえぐるにいたらず下山事件で「自殺か他殺か」という論争を繰り返すにとどまっていました。(次回につづく)
2008/07/16 [Wed] 09:55:07 » E d i t
 きょうの講義のもう一つのテーマ、「白鳥事件」に移ります。白鳥事件とは、1952年1月20日夜、北海道札幌市の路上で当時北海道警察の白鳥一雄警部がピストルで射殺されたことに端を発しています。その後警察は「共産党のしわざ」として同党札幌委員会の村上国治(むらかみくにじ)委員長をはじめ、労働者や北大生を逮捕・起訴したのです。この事件は、物証は3個の弾丸だけで、あとは自供によって固められた特異な事件でした。

 私は労働運動のかたわらこの事件に携わりました。まず、例によってこの事件が起きた時代背景からみていきたいと思います。ら列します。

 ・1949年7月5日(下山事件)、7月15日(三鷹事件)、年8月17日(松川事件)
 ・1950年5月3日(GHQ共産党の非合法化を示唆、レッドパージはじまる)
 ・1950年6月25日-1953年7月27日(朝鮮戦争)
 ・1951年9月8日(サンフランシスコ条約とともに、日米安保条約を締結)
 ・1952年1月20日(白鳥事件発生)
 ・1952年4月28日(サンフランシスコ条約発効)
 ・1952年5月1日(血のメーデー事件)
 ・1952年6月23日(日米安保条約発効)

 下山事件、松川事件、三鷹事件は国鉄三大ミステリー事件と呼ばれました。下山事件は国鉄総裁下山定則さんが轢死体となって発見されたもの。自殺か他殺かで大論争が起きました。松川事件は東北本線松川駅近くで、列車が転覆。機関士ら3人が死亡。東芝松川工場、国労の組合と共産党の謀議で行ったものとして、20人が逮捕され、1、2審は有罪(1審で死刑5人)となったものの、検察側の『諏訪メモ』が見つかり全員が最高裁で無罪になりました。

 三鷹事件は三鷹駅構内で電車が暴走。利用客6人が電車の下敷きとなり死亡。10人が逮捕され、竹内景助さんが高裁で死刑判決、他は無罪に。竹内さんは無罪を主張しましたが67年に脳腫瘍のため獄死し、事件は真相を得ないまま終わっています。

 ちなみに、下山事件で「自殺説」を唱えたのは毎日新聞だけでした。そして、松川事件の全員無罪の証拠となる『諏訪メモ』を発掘したのも毎日新聞でした。これらはそのうち機会があれば、触れたいと思います。(次回につづく)
2008/07/14 [Mon] 11:42:18 » E d i t
 雇用の弾力化と流動化を名目にして、日経連の提言は労働者を3つのグループに分けました。そのグループごとに雇用形態や賃金のあり方などを定めています。全部を紹介する時間がありませんので、「雇用柔軟型グループ」をどういうふうに扱っているかを紹介します。

 まず、雇用形態ですが「有期雇用」としています。いつでも企業の都合に合わせて解雇することが可能な道を残したのです。「賃金」は時間給を基本に昇給はなし、としています。昇給がないということは何年働いても同じ賃金だということです。これではワーキングプアが増えるはずです。退職金は「なし」と書いています。このように「新時代の『日本的経営』」という日経連の提言が低賃金政策すなわち、賃金破壊の震源地となっているのです。

 これらの提言を実現するには、法的整備が必要となります。そこでさきほども言いましたように、この国の政府は労働者派遣法を成立させ労働法制を変えることで、この方針をバックアップしたのです。それでは、そのおおもととなっている新自由主義はどうなっていくのでしょうか。IMF(国際通貨基金)は、2005年に「理論的にも実践的にも新自由主義的な経済政策の推進は誤りだった」と発表しています。これは見識といえます。「格差社会」の温床でもあるからです。

 新自由主義は、すでに限界点に来ているし、破綻していると思います。それは労働分野だけにとどまらず、農業の分野でも起きています。政府・与党内部から「減反政策の見直し」が出てきているのはその一例です。新自由主義によって作られた社会の閉塞状態の打開策はそれを打ち破るしかありません。同時にそれは格差社会を是正し、ワーキングプアをなくす道に直結していると思います。それをぜひ若い皆さん方にやってほしいし、まだ間に合う、ということを申し上げたいと思います。(次回につづく)
2008/07/11 [Fri] 09:58:38 » E d i t
 日本の規制緩和は、新自由主義が言われだしたときと同じ1980年代から始まっています。いくつから列してみましょう。日本電信電話公社民営化(1985年4月)、国鉄分割・民営化(1987年4月)、金融自由化(金融ビックバン)、電力自由化(1995年)、酒類販売業免許の付与基準の緩和 (地ビールなどの最低醸造量の緩和)、港湾運送事業への新規参入、電気通信事業の開放、最近行われたばかりの郵便事業の民営化、そして、雇用破壊を生んだ労働者派遣事業です。この施策によって、まち中の酒屋さんがコンビニ化し、その多くがつぶれていったのはご承知のとおりです。

 労働者派遣事業は1986年7月に「労働者派遣法」として施行されたわけですが、当時は限られた業種のみでした。ところが次々とこれが「緩和」されました。1999年12月改正(派遣業種の拡大)、2004年3月改正(物の製造業務の派遣解禁、紹介予定派遣の法制化など)、2006年3月改正(派遣受入期間の延長、派遣労働者の衛生や労働保険等への配慮)と矢継ぎ早に広げたのです。最近、「これではダメだ、規制を強化すべきだ」という声が強まっているのは当然のことです。

 もう一歩突っ込んで、なぜこのようなことが行われるようになったのかを考えてみたいと思います。1995年5月、日経連が「新時代の『日本的経営』」という提言を行いました。これが文字通り大きなエポックとなっているのです。この提言は21世紀をにらんで「グローバル化に対応する」ことを目的にしていました。その内容は雇用の弾力化と流動化を図ることを中心としており、労働者を①長期蓄積能力活用型グループ②高度専門能力活用型グループ③雇用柔軟型グループの3つに分けています。

 この提案が出されたとき、私たちは「労働者は流動化する液体ではない」などと言って反対しました。しかし、行政は財界の意を汲んで推進役に回ったのです。国会でも多勢に無勢で、まともな議論もなく法律として成立していったのです。

 日経連の提言は労働者を前述の3つのグループに分けましたが、この中の三番目の「雇用柔軟型グループ」が今日のワーキングプアを生む土壌になっているのです。(次回につづく)
2008/07/09 [Wed] 10:38:06 » E d i t
 年収200万円以下のワーキングプアは年々増える傾向にあります。働いても、働いても生活保護基準以下で、食べていくのがやっとというこの事態は深刻です。昨年9月に国税庁が発表した2006年の民間給与実態統計調査があります。これによりますと、通年で勤務した給与所得者のうち、年収が200万円以下の人は1022万7000人と前年から4.2%増えて、4.4人に1人の割合となっています。ついにワーキングプアが1000万人を突破しました。

 この傾向は続いており、新しいデータが出るたびに増えることでしょう。その一方で、年収1000万円以上の人は224万2000人で同4.4%増となっています。この事実は、改めていうまでもなく格差が広がっていることの表れです。「格差社会」の進行をこのデータから読み取ることができます。

 それでは、それはどこに原因がある(あった)のでしょうか。結論を言えば、新自由主義(ネオリベラリズム)にあります。これは、1980年代から始まりました。市場原理主義を根幹として、規制緩和による競争促進、労働者保護法の撤廃、福祉、公共サービスの縮小、公営企業の民営化、経済の対外開放、情報公開などをパッケージとした経済政策の体系を推進する考え方のことを指しています。この考え方は極端な言い方をすれば「勝ち組と負け組みを選別する」思想ということになります。勝ち組は少数ですから、大量の負け組みを作る考え方といってもいいでしょう。ここに「格差社会」の根源があるのです。

 注意してほしいのは、この中に「情報公開」という項目がありますが、これは行政が情報公開するという考え方ではなく、投資の対象として企業の財務状況の公開をねらったものです。市民運動で「情報公開法をつくれ」という意味のそれとは違いますのでご注意を。

 この新自由主義の考え方にもとづいて、「規制緩和」政策が推し進められたのです。(次回につづく)
2008/07/07 [Mon] 09:53:33 » E d i t
 きょうは、七夕。天気はイマイチですが、いい出会いがありますように。前回からの続きです。
 
 さてそこで、現代と蟹工船時代との類似点についてです。一つは、世界恐慌の始まり的状況にあるといっても過言ではないという点です。アメリカのサブプライムローン問題は世界経済に深刻なカゲを投げかけています。原油への投機もとどまるところをしりません。私の友人に昭和シェル石油に勤めている人がいますが、彼に言わせると原油価格は1バレル・50ドルが相場だといいます。

 ところが6月6日には139ドルと高値を更新し、先週1週間では平均135.65ドルを記録しています。これは異常事態です。食糧危機も深化しています。環境の悪化で「水」も投機の対象になりそうな勢いです。「水戦争」が起きるのではないかという人もいるくらい、この問題も目を離せません。

 類似点の二つ目は、失業者の増大、格差の広がりです。これはのちに詳しく触れたいと思います。三つ目は市民、労働者への権力の介入が強まっていることです。治安維持法まではいきませんが、警察の取り締まりは目に余るものがあります。6月13日付けの「週刊金曜日」がその特集をしていますが、これは軽視してはなりません。ビラを配っただけで、罰せられる状態や、映画『靖国』の言論抑圧問題も、きな臭さを感じます。

 そして四つ目に改憲問題です。この国はいつかきた道にもどろうとしているのではないか、そんな懸念をもちます。改憲前に自衛隊をいつでも自由に海外に派遣できるようにするための動きも強まっています。これらは蟹工船時代の再来を予見させるもので、放置してはいけないと思います。

 このコーナーで「宿題」を一つ。小説・蟹工船のなかの、ある一行が小林多喜二の虐殺の原因ではないか、すなわちそれが特高警察の逆鱗に触れたのではないかと言われます。それはどこなのか、調べてみてください。(次回につづく)
2008/07/04 [Fri] 12:25:16 » E d i t
 そして1929年10月24日のウォール街の株価大暴落から始まった、世界恐慌を迎えます。日本では1930年からはじまりました。同年3月に株式・商品市場が暴落、生糸、鉄鋼、農産物等の物価は急激に低下しました。その影響で中小企業の倒産が相次ぎ、失業者が街にあふれました。当時は大学・専門学校卒業生のうちの3分の1に職がない状態で、このとき「大学は出たけれど」という言葉が流行しました。この恐慌が日中戦争に対して国民が共感する土壌となったといわれています。

 1932年5月15日、「5.15事件」(犬養毅総理大臣ら暗殺)が起きます。このあたりから軍部の影響力が強まりだしました。エピソードですが、この事件の前日に「独裁者」「モダンタイムス」などで知られるチャーリー・チャップリンが来日しています。チャップリンは犬養総理大臣との会談を予定していましたが、中止し難を逃れたといわれています。 1936年の「2.26事件」、37年7月の「盧溝橋事件」を経て、日本は戦争に突入し、1941年12月8日の真珠湾攻撃で、太平洋戦争へと突入していったたわけです。

 ご承知かと思いますが、真珠湾攻撃の暗号は「ニイタカヤマノボレ1208」でした。当時、日本で一番高い山は、富士山ではなく新高山(にいたかやま)だったのです。これは当時日本が占領していた台湾にあり、現在は玉山(ぎょくさん・3952m)と呼ばれていますが、それを暗号に使ったのです。暗号にも占領支配があったのですね。

 戦争に突入と同時に、戦費を調達するために国民からお金を巻き上げました。これから回します『戦時国債』がそれです。現物を私の叔母が残してくれたものですが、こういう形で国民からお金を調達して、戦争に突き進んで行ったのです。現代でも同じように、国債が発行されています。「個人向け」と称して売り出されるものもあります。この残高が834兆円あります。これは日本国の借金であり、由々しき事態といえます。(次回へつづく)
2008/07/02 [Wed] 10:17:58 » E d i t
 山梨学院大学の講義のつづきにもどります。「蟹工船」が書かれた時代の前後に起きた事件の復習からです。

 個別の事件を見てみたいと思います。まず、関東大震災です。つい先日、6月14日に宮城県と岩手県の県境を震源地とする『岩手・宮城内陸地震』は、未だに不明者が見つからず大変ですが、関東大震災は、多くのところで語られているとおり、被害は甚大でした。死者・行方不明者/14万2800人、負傷者/10万3733人、避難人数/190万人以上、住家全壊/12万8266戸、住家半壊/12万6233戸、住家焼失/44万7128戸(全半壊後の焼失を含む)――と言われています(死者の数はもっと少なく、10万5000人だったともいわれています)。

 なぜ関東大震災をここに持ち出したかといいますと、二つ理由があります。一つはこの大震災のとき「朝鮮人による暴動が起きる」といううわさが流され、それを未然に防ぐという名目で治安維持法が作られたこと。そしてもう一つは、震災によって日本は経済的に大きな打撃を受け、「震災手形」をめぐって金融恐慌が起きたからです。震災手形とは、関東大震災のため支払いができなくなった手形を、政府が一部肩代わりをして被災企業の援助をしたものです。そのなかには混乱に乗じて不良債権化したものも紛れ込みました。

 1927年の金融恐慌のきっかけは、当時の片岡大蔵大臣が国会で「東京渡辺銀行が破綻した」という発言したことでした。これで取り付け騒ぎがおきて、他の銀行にも波及し倒産する銀行が出ました。東京渡辺銀行という名前を聞くと、最近問題になっている「新銀行東京」とオーバーラップします。この銀行は別名『東京石原銀行』とも揶揄されていますが、400億円の税金をつぎ込みました。破綻しなければいいのですが……。

 金融恐慌のもう一つの原因となった「震災手形」では、その筆頭格の鈴木商店(兵庫県の鈴木岩治郎が1874年に開業)が倒産したことが社会問題となりました。鈴木商店というのは、今でいえば商社みたいなもので、第一次世界大戦で成金になり1919年、1920年の全盛期にはGNPの1割を占めていたといいます。台湾銀行(占領下の台湾に日本政府が後押ししてつくった銀行)が鈴木商店のメーンバンクでしたが、震災手形を支えきれなくなり鈴木商店との取引を中止し、同社は倒産を余儀なくされたわけです。鈴木商店がかかえていた震災手形は、現在のカネに換算すると、438億円になるといいます。

 GNPの1割を抱えた企業の倒産は経済に大打撃を与え、金融恐慌を引き起こしたのです。この鈴木商店の流れを汲むいくつかの企業が、今でも活躍しています。神戸製鋼、帝人、サッポロビール、IHI、昭和シェル石油、富士フィルム、日本製粉などです。こうしてみると、鈴木商店は一大コンツェルンだったのですね。(次回につづく)
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