同行は男2人、女3人の5人。04年7月13日午後、羽田をフライト。新千歳空港でレンタカーを手に入れ、札幌泊り。直接、東京から稚内まで行けるのですが、千歳のほうが料金的に安くなり、それを活用しました。夜は、毎日新聞の仲間たちと旧交を温めに、初めて札幌ビール園で乾杯しました。翌日は、ひたすら日本海側を走り、稚内港からフェリーで利尻・鴛泊(おしどまり)港へ。これも安上がりの方法です。島が近づくにつれてフェリーから見る利尻富士は大きくなっていきます。港から宿泊場所の民宿へ直行です。
15日、利尻山アタックです。午前4時に起きておにぎりを受け取り、民宿のおじさんに登山口まで車で送ってもらいました。登山口はキャンプ場になっており、すでに人々は動き出していました。まず、6合目を第一の目標として、樹林帯の中をのんびり歩きます。風もなく穏やかで「この状態では暑くなるぞ」と心配しましたが、それは杞憂でした。山頂近くは潮風の影響で強風だったからです。
6合目から、遠くにうっすらと礼文島が見え、眼下には昨日着岸した鴛泊港があり、その手前にポン山と姫沼がバランスよく並び、昨日泊った民宿の赤い屋根が輝いていました。目を海岸線に沿って左に移すと、空港があり鴛泊港と対角の位置に沓形港でしょうか、港があります。その景色には、日本の北の果てという想いとオーバーラップし、何ものにも代えがたい思いが交差しました。
小休憩のあとさらに前進、次の節目である長官山で長休憩をとりました。目の前に利尻山頂が「おいでおいで」しています。このあたりは8合目になり、山頂まであと一息です。空は雲一つなく稜線はくっきりと見えています。避難小屋の前をとおり9合目に到着。ここにもトイレ用のブースが設置してありました。
利尻山はし尿汚染を防ぐために、登山者には携帯トイレを持参してもらい、必要な人はブース(4ヶ所)で用をたしてもらう仕組みになっているのです。使い終わったそれは、登山口の所定の箱に入れることになっており、この方式はなかなかいいことだと思いました。富士山のし尿問題は登山者の多さもあり、まさに環境破壊であり対策が求められていますが、この方式を学んでいいのかもしれません。登山者のマナー向上にも役に立つことでしょう。(次回へつづく)
力まず無理せず、をモットーに歩いてきましたら、いつの間にか深田久弥の「日本百名山」と47都道府県の最高峰を踏破していました。その記録をまとめた小冊子は2冊になりました。登った山の数(ピークを踏んだ数)は、重複を除いて260座ほどになります。「継続は力」という言葉がありますが、そのとおりなのかもしれません。
「月に1回は山に登ろう」ということを、自分の目標にしたきっかけは、山のまとめの1冊目の冒頭に以下のように書いています。「あの日、秩父の武川岳に登った。久々の山登りだったこともあり、率直に言ってバテた。40代半ばにしてその体力の落ち込み方に『これはまずい』と深く反省、一念発起した」と。つまり、体力回復をねらったものでした。それが、回数を重ねることによって「趣味化」してしまいました。
友人から、山の記録もブログに載せてみたらどうだ、という提言がありました。山の記録はたくさんあります。仲間たちとワイワイガヤガヤ登ったもの、一人で黙々と歩いたもの、雨との格闘、雪との戦いなどたくさんあります。それらの中から、とりあえず月に2回ほど「百名山」を載せたいと思います。行程時間なども入っており、参考にしていただければさいわいです。
この女性の気持ちは分かります。容疑者は坊主狩りにして、分かりにくかったといいますが理由になりません。危険人物が周辺に潜んでいるかもしれない状況下で、変装も想定した捜査をすることは常套手法であり、もしそういうことを考えていなかったとしたら、それは明らかに警察の怠慢です。
地下鉄サリン事件も、はっきり言って警察の怠慢が引き起こした事件でした。サリン事件が起きる6年前、89年11月4日、横浜市在住の坂本堤弁護士一家の拉致事件が発生しました。奥さんと子どもを含む3人が、何者かによって拉致され行方不明になったのです。しかも現場には、オウム真理教のバッヂさえ落ちていたのです。坂本弁護士は国労組合員の誤認逮捕の弁護や、共産党幹部宅盗聴事件に関連する弁護をしており、神奈川県警とは対立関係にありました。それが背景にあり、県警は「坂本弁護士一家は夜逃げした」などと言い放ち、まともな捜査をしませんでした。
もしあの坂本弁護士一家拉致事件で、警察がきちんとした捜査をしておれば、地下鉄サリン事件も未然に防げたはずです。警察の怠慢というのはそういう意味においてです。自分たちの都合の悪い者の「不幸」にフタをする、その体質を看過してはなりません。
話しが少し外れましたが、地下鉄サリン事件のPTSD被害者となったわが子の13年間を思うと、こころが痛んでなりません。そして13年前のあのときそれが分かっておれば、二十歳なったばかりの娘でしたが、一晩中、抱きしめてあげることが出来たかもしれない、そんな悔恨を捨てきれない、私はそんな父親でもあります。
この一言は、さすがに鈍感な父親でも気がつきました。そうか、そうだったのか! わたしは心の中で大声を上げていました。なんという長い道のりだったことでしょう。私の頭の中は、5年余の歳月が一瞬のうちに走り抜けました。そして娘に対して、申し訳なさで一杯になりました。気がつかなくてゴメンネ、と。
会社を辞めた彼女の生活はすさみました。はっきり言って、それを書くことはかなりの勇気を必要とします。そのうち時期が来れば書きたいと思いますが、ここでは詳細は省かせていただきます。おそらく、その生活状態について娘はほとんど覚えていないのではないでしょうか。夢の中の一時期だったと思われます。そういう状況のなかで今回、このブログに私がそのことを書こうと思ったのは、3月20日を前にして「13年前の私に会いに行ってみたい」と彼女が言い出したことがきっかけでした。
娘は当日、仕事の合間に雨をついて地下鉄丸の内線に乗りました。丸の内線はおそらく、13年ぶりでしょう。そのことについて20日の彼女のブログには、以下のように記してありました。
◇=◇=◇
13年前の地下鉄サリン事件の、一番被害の大きかった霞ヶ関駅へ行って来ました。電車に乗るのがこわくなった原因となった事件と、13年間向き合わず、逃げ続けてきましたが、今日現場に行き、未だにたたかっている遺族の方、後遺症で苦しんでいる被害者の方から、言葉じゃ表現出来ない、様々なモノをいただいてきました。今日の経験をどの様に活かすかは、わたし次第。頑張らねばだな。適度に…ね。途中、OLさんしていた頃に毎朝利用していた淡路町ドトールへ。相変わらずの機械的な接客だったけど、なんだか癒されました。変わるモノ、変わらないモノ、忘れてはならないコト、前に進むコト…。難しいな。難しいけど、多分大丈夫。ファイトだ愛さん。
◇=◇=◇
原文のままですが、この短い文章に、父親である私はどれだけ救われたことでしょう。(次回へつづく)
私の娘は、この年に短大を卒業し千代田区・淡路町の中堅の企業に入社が決まりました。〝氷河〟を乗り越え、まさに新成人として希望に燃えてあたらしい生活をおくるはずでした。ところが何と、2ヶ月と続かなかったのです。朝、「行ってきまーす」と言いながら玄関まで行くのですが、そこから動けないのです。足がすくんで、顔色も悪く「どうしたんだ」という問いかけにも答えられない状態が続きました。登校拒否ならぬ、出勤拒否でした。
私はいわゆる5月病かなとも思い、叱咤激励したものです。理由を問いただしても、要領を得ません。食欲も落ちて痩せていきました。本人は何とかしなければ、としきりにがんばったようですが、結局、断を下したのは父親でした。「無理をせず、会社を辞めていいぞ」と。
会社の同期は、「折角入った会社なのにもったいない。なんとかがんばれないか」と激励したそうです。しかし、彼女はそれを受け入れる状況になく、2ヶ月の「OL生活」に終止符を打ったのです。以降、娘には苦しいたたかいが始まりました。その原因が「地下鉄サリン事件」にあったことは、5年後くらいにやっと明らかになったのです。
本人にも理解できない、出勤するときの精神状態は『恐怖』だったのです。自分の出勤経路である地下鉄丸の内線は、あの事件で多くの負傷者を出しました。そのことが、実に私たち家族の想像を絶する重みとなって、娘のこころを蝕んでいたのです。(以下、次回につづく)
その前に事件のおさらいを少ししましょう。1995年3月20日・月曜日、午前7時半頃から8時半頃にかけて、東京の地下鉄千代田線、丸の内線、日比谷線の車両内でサリンが散布され12人が死亡、5,510人(後日増加)が重軽傷を負ったというものです。大都市で一般市民を狙って科学「兵器」を使ったテロ事件として、世界的にも衝撃を与えました。犯人は、オウム真理教の集団であったことはご承知のとおりです。
この日、コンチネンタル銀行争議団の仲間たちは、霞ヶ関で宣伝行動を予定し8時前には現地に入っていました。「待っても、待っても、誰も出てこん。周辺はパトカーのサイレンが鳴り響き、何が起きたか分からなかった」と、2、3日後でしたか、MさんとYさんから話を聞きました。そして、「地下に入り駅構内を見に行った」というのです。
好奇心の強いお二人、なかでもMさんのそれは旺盛で、さもあらんと思ったものです。構内で二人が見かけたものは、タンカに乗せられて運ばれる負傷者たちでした。それから2ヵ月後の5月17日、Mさんはすい臓がんを患い、帰らぬ人となりました。4月中旬には奥さんとハワイ旅行を楽しむほどの元気があった、にもかかわらずです。「サヨナラ」も言わずに逝ったMさんのしのぶ会には、多くの仲間たちが集まりました。
争議は98年に解決しましたが、もう一人のYさんはすっかり体調を崩し、歩行困難となりふるさとに引越し自宅をバリアフリーにして病院通いをしました。一時、生命の危険があるとさえ言われ途方にくれたそうです。病状は好転せず、99年の暮れ「もしかしたら」という思いにかられ、現在住んでいる兵庫県明石市から、東京中央区の聖路加病院の門をたたいたのです。そして、その日、Yさんは「地下鉄サリン事件の被害者の一人」として認定されました。
元気印の典型のようだったMさんの突然の死、Yさんの症状といいこれは明らかにサリンによるものと考えられます。Mさんの死と地下鉄サリン事件とのかかわりを、当時は全く考えませんでした。今では立証のしようがないのですが、その影響によるすい臓がんだったことは容易に想像できます。Mさんのカラオケのオハコ、「冗談じゃねえ」の歌は忘れられません。Yさんは今でも治療を続けています。
私の身近に被害者が、もう一人います。私の娘です。(次回につづく)
ところで、みなさんはピュリッツアー(1847年-1911年)という人をご存知でしょうか。それとも「ピュリッツアー賞」と言えばお分かりでしょうか。アメリカで「新聞王」といわれ、権力との徹底したたたかいは定評があります。その功績をたたえてつくられたのが前出の「賞」です。そのピュリッツアーが残した言葉があります。旧仮名づかい調で読みにくいかもしれませんが、ジャーナリズムの真髄をついています。
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常に進歩と改革のために戦い、不正あるいは腐敗は黙視せず、いかなる一党にも組みすることなく、常にあらゆる党派の扇動家と戦い、貧しき者への同情をいささかも忘れることなく、常に特権階級および公共の略奪者に反対し、常に公共の福利に貢献し、単にニュースの供給に満足せず、常に厳正なる独立を守り、貪欲なる金権政治によると、あるいは貪欲なる貧困によるとを問わず、およそ不正を攻撃するにいささかも恐れることなし。
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1994年のピュリッツアー賞は、南アフリカ共和国のケビン・カーターという青年カメラマンの写真が受賞しました。「ハゲワシと少女」と題したその写真は、スーダンの飢餓状況を写したものでした。餓死寸前の少女に近寄るハゲワシを捉えたもので、世界を仰天させました。しかし「写真を撮る前になぜ助けないのか」という批判の声がわき起こり、その批判に耐え切れなくなったカーターは自殺するという悲惨な結末となりました。
しかしこの写真は、行動をともにしていた同僚の写真家の証言によると、たまたま母親が子どもをそこにおいて用をたしているときにハゲワシがきたもので、カメラのシャッターを押した直後、母親は子どもを抱きかかえて去ったというのです。カーター自身はうつ病で通院していたとはいいますが、外国人を締め出したスーダン政府に抗して、飢餓状態を写真にして実態を訴えようとした33歳の若者の死は、砂を噛むような気分です。
いまのジャーナリズムはどうなっているのでしょうか。最近の批判の集約点の一つとして、読売新聞の渡邉恒雄代表取締役主筆が、自民、民主の大連合を裏で画策したことがあげられています。この事件(事件というのもおぞましいのですが)は思い上がりの極致、という印象を持ちました。そこには稲葉先生から学んだ「反権力」のカケラさえなく、むしろ権力内部に自ら擦り寄っていく姿しか見受けられなかったからです。
風上に置けない、という言葉がありますがこの『渡邉恒雄大連合画策事件』は、そのものといえます。とはいえ、メディアが持っている影響は小さくありません。イージス艦が漁船を破壊・沈没させた事件で、防衛大臣がヘリを使って関係者を呼び寄せていたり、艦は12分前に漁船を発見していたなどは、報道機関の地道な取材によるものでした。それらは、「反権力」という立場に立脚したものです。その意味において、この事件の一連の報道は評価に値します。
しかし、と、ここで切り返さなければならないところに悲しいものがあります。一例だけあげましょう。「後期高齢者医療制度」問題でどれだけ、新聞や放送がその問題点を報道しているでしょうか。皆無に近いではありませんか。野党がこの廃止法案を国会に提出しましたが、何故廃止なのかなど、この制度の持っている問題点をえぐるに到っていません。気になるのは私だけでしょうか。(次回につづく)
その稲葉先生から学んだのは、ジャーナリズムのあり方、ジャーナリズム本来の姿についてでした。毎日新聞労組の書記として、ジャーナリズム問題は運動的にも重要な課題であると自ら位置づけ、取り組みました。70年代なかば、「アクセス権」という権利があることを聞いたのは稲葉先生からでした。アクセス(接近)という言葉は今でこそ日常会話に出てきますが、当時は目新しい表現で驚きをもって受け止めました。
「ジャーナリズムの原点は反権力。あらゆる権力に反対する論陣を張ることがジャーナリズムの仕事だ」――。反権力の論陣こそが、報道の使命であるというのが稲葉先生のスタンスでした。それは学者・研究者として行き着いたものではなく、ごく当たり前のことを主張されたに過ぎませんでしたが、ずしりとした重みがありました。
いま、そのジャーナリズムはどうなっているでしょうか。「半」権力、と揶揄する向きがないわけではありません。実は私、告白しますが30年近い「日本ジャーナリスト会議」の会員です。毎日新聞編集記者の先輩に「ペン、カメラ、マイクを持つ人は誰でも会員になれる。君もカメラとペンで仕事をしているではないか」と、〝騙されて〟入会、不良会員ですが続いています。その立場はそれとして、いまのジャーナリズムを少しだけ検証してみたい、と思います。(次回へつづく)
要求こそが運動のカナメだ、ということとともに加藤親至さんには、運動の進め方についても教わりました。いくつかある中で一つだけ紹介しましょう。
争議支援の運動についてです。私もかなりいろいろなところとかかわってきました。支援共闘会議をつくったり、そこまでいかなくとも対策会議を立ち上げたり、労働相談では単身で相手方に乗り込んだこともあります。加藤さんから学んだことは、争議支援にあたって「共闘会議や対策会議が、引き回すな」ということでした。
これも実は『要求』を機軸にした運動をつくっていく、ということから出発しています。私(たち)は、かかわった争議が早く解決すればいいと思い、助言をします。しかしその助言がときとして、運動を引き回してしまう結果になることがあります。当事者にしてみれば、助言や支援行動はありがたく、それらを受け入れることを「拒否」することはなかなかできません。
そこで配慮しなければならないのは、要求なのです。争議支援のあり方と、当事者の要求とがマッチしてこそ運動は前進します。そこをきちんと抑えた運動をつくりなさい、というのが加藤さんの教えでした。それは今でも堅持しているつもりですが、外れることがあります。その節はぜひ、遠慮なくご批判ください。
闘争が終わったときの総括の視点も、加藤さんに学びました。①そのたたかいで要求がどれだけ前進したか②そのたたかいで組織(組合)の団結がどれだけ強まったか③そのたたかいで労働者がどれだけ成長したか――を点検せよ、というものでした。(次回へつづく)
※13日・木曜日は「千代田総行動」です。重税反対闘争とリンクして、いのち、くらし、憲法の課題をかかげて一日行動となります。昼休みは、お茶の水の錦華公園からデモを行います。ぜひご参加を。
その加藤さんから学んだのは、『要求』とは何か、『要求でたたかう』ということの重要性でした。「〝要求〟と〝欲求〟は違う。要求は周りの人にも支持されるものでなければならない」、「要求は握ってはなさない、その覚悟が必要だ」、「要求のないところに運動はないし、運動は必要ない」、「要求にもとづかない、戦略・戦術は無意味だ」――何やら判じ物になりましたが、労働運動を進めていく上での真髄だと思いました。
私はかなり多くの争議とつきあってきました。その議論の中で「要求は何か」ということを必ず聞きました。「しつこいヤツだ」と思われたかもしれませんが、コトを進める上での基本だと思うからです。要求を実現するために運動をつくるのです。運動のための運動になってはいけません。これからも要求にこだわる、そのことを断固維持していきたいと思っています。
そういえば加藤さんの奥さん・陸子(みちこ)さんのことを、今でも「みっちゃん」と呼んでいます。が、師匠の奥さんですから「おかみさん」といわなければならないのか、などと最近、気がつきました。ま……、いいか。ね、みっちゃん。(次回へつづく)
※3月5日の国鉄闘争支援集会は170人の参加で盛り上がりました。神田香織さんの講談に大きな拍手が渦巻きました。ありがとうございました。
もしも憲法がその字句どおりに守られ、実践されていたら私たち国民のくらしはもっと違った形になっていたであろうことは、容易に想像できます。憲法25条は、国民に健康で文化的な最低限度の生活を保障しています。しかも国はそのために努力しなければならない、と義務づけているのです。現実はどうでしょうか。生活保護が打ち切られ、餓死者が出ているではありませんか。
19条の思想・良心の自由はどうでしょうか。先日このブログに書きましたが、公務員には違う法律(国家公務員法)で規制をかけています。自分の支持する政党のビラを、しかも自分の休みの日に配布しただけで逮捕されるという、常識では考えられないようなことが行われています。憲法より「規定」が優先される国がほかにあるのでしょうか。国公法そのものが憲法違反であり、それをタテに逮捕、処分など二重の違反行為といえます。
イージス艦が「そこのけ」と漁船に体当たりした事件も、沖縄で少女が暴行された事件も憲法違反が背景にあるのではないでしょうか。不当解雇や賃金差別も、国鉄の仲間1047名がJRから放り出された事件も、憲法が遵守されていればあり得ない(なかった)ことなのではないでしょうか。「憲法は古くなった」どころか、まだまだ「憲法は活かされていない」のが現実だと思います。
小島成一先生が亡くなられたとき、私は山の記録に「労働運動の恩師であり、平和と民主主義を守る運動では同志であった」と書きました。いまでもその遺志は引き継いでいるつもりです。(次回へつづく)
私にも労働運動を進めるに当たって、師匠がいました。しかも三人も。しかし、三人とも大先輩で、すでにお亡くなりになりました。この師匠たちに何を学んだのかをここ2週間ほど、書きたいと思います。これは、私が労働運動を進めるにあたっての、基本的スタンスであり、一種のバイブルでもあります。退屈でしょうが、しばらくのおつきあいをお願いいたします。
三人の師匠の名は、小島成一さん、加藤親至さん、そして稲葉三千男さんです。
小島成一さんは、弁護士で自由法曹団の団長も務められました。小島先生と最初にお会いしたのは、私が20歳前後の頃でした。解雇された私(たち)を励ましてくださり、元気をたくさんいただきました。毎日新聞労組の書記になったとき、同労組の顧問弁護士として活躍しておられ、「よろしくお願いしますね」と穏やかな声をかけられたことが昨日のことのようです。
小島先生に教わった最大のものは「研ぎ澄まされた憲法感覚を持て」ということでした。くらしのことはもとより、平和や民主主義も含めてあらゆる出来事を憲法と対比して考えてみろ、ということです。これは目からウロコでした。(以下、次回)
※3月5日、午後6時半から東京市ヶ谷のエデュカス東京7Fホールで「国鉄闘争支援集会」が開かれます。講談師の神田香織さんが、『ぽっぽや義士伝』を呻ります。参加費500円、ぜひ周りにも声をかけてご参加を。