ヘボやんの独り言
07« 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30. 31.»09
スポンサーサイト 
--/--/-- [--] --:--:-- » E d i t
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 *  TB: --  *  CM: --  * top △ 
10787 蟹工船 
2012/09/05 [Wed] 11:58:31 » E d i t
 土曜日に上映中の「あなたへ」につづいて、昨日は東京芸術座の芝居・蟹工船を鑑賞しました。説明するまでもなく、小林多喜二の原作によるものです。この芝居、〝多喜二ブーム〟が起きた2年前にも上演され、そのときも観ました。

 東京芸術座は、村山知義(むらやま ともよし、1901年-1977年)が中心となって、1959年に設立されたものですが、村山のプロレタリア作家としての考えが今に受け継がれ、活躍しています。この村山知義という人、波瀾万丈の生き方をしています。機会があればこの小ブログで紹介したいと思いますが、1930年5月に治安維持法違反で検挙され12月保釈。その翌年5月に日本共産党に入党するという、反骨精神旺盛な人だったようです。

 この芝居の初演は、1968年ですがそのときの演出は村山知義がつとめています。村山は、小林多喜二とも親交があり一緒に逮捕されたこともあります。そのときの模様を初演のパンフレットに書いています。少しだけ紹介しましょう。

                         ◇=◇=◇
 1931年の春か秋だったろう、左翼劇場の芝居を前橋、高崎地方に持っていくことになり、朝、一同上野駅から立った。芝居の幕開き前に講演するはずの多喜二と中野重治も同行した。ところが上野を出て暫くすると、ある駅から主催者の農民組合の人が乗り込んで来て、前橋の駅には警官が出ていて全員逮捕する手筈になっているから、途中でおりてくれ、という。

途中の或る駅でおりて、組合員の可成り大きな農家に行き、仕方がないからそこで芝居をやる、ということになり、組合員を招集し初めたところへ、早くも察知した警官隊が襲ってきて、全員つかまえられてしまい、劇団員はそのまま上野へ追い返されたが、小林、中野と私は前橋につれていかれ、警察の留置場へほうり込まれた。コンクリートの地下室に、丸太で囲んだ、猿の檻のような所だ。既に夕方である。多喜二は一刻も黙っていない。

 「署長を出せ! 何で俺たちをこんな所に入れた?」「署長はもう官舎へ帰った」と巡査が言う。「それなら官舎へ行って連れて来い。そんな無責任なことがあるか?」と多喜二は丸太を叩き、床を踏み鳴らし、あばれる。

 中野と私もやるが、到底多喜二には及ばない。とうとう、1時間あまりで、巡査も持てあまして署長に相談して、私たちを釈放してしまった。(※原文のまま、改行は筆者)
                         ◇=◇=◇

 小林多喜二の元気さの一面がわかるようです。

 この芝居、「船の中」という限られた空間で展開していくわけですから、変化をつけるのはなかなか難しい。しかし、海のうねりや水しぶきを効果的に作り出し、船の揺れ具合を役者さんたちの動きで表現していくところは、よくできていました。なんだか船酔いをした気分になったものです。

 最後の場面で、自分たちの味方だと思っていた海軍が会社側の手先であったことに気づいた労働者たちの悔しい思いは、客席にずっしりと伝わってきました。「労働者の味方は、労働者だけだ」という叫びは、現代もそのままです。団結の象徴としての『ソーラン節』の歌は、格別の重さを感じました。

★脈絡のないきょうの一行
青森県が核廃棄物拒否の検討を開始。筋論だが背景にプルサーマル推進の考えがあることに要注意。

スポンサーサイト
2012/02/20 [Mon] 11:37:48 » E d i t
 祝・700回掲載!! と勝手に自分を褒めています。このブログを始めて今月でちょうど4年となりますが、月平均14.58回のUPはそれなりに頑張ったのかな、と思っています。引き続いて応援、よろしくお願いします。

 きょうは、小林多喜二の79回目の命日です。小ブログで『拍手』が一番多いのは、多喜二のことを書いた08年2月20日のものです。きっと引用が生々しいからでしょう。命日に因んで、08年と同じですが遺体に立ち会った江口渙(1887年-1975年)が残したものの抜粋を再録させていただきます。

                         ◇=◇=◇
 すごいほど青ざめた顔は、はげしい苦しみの跡をきざんで筋肉のでこぼこがひどい。頬がげっそりとこけて眼球がおちくぼみ、ふだんの小林よりも十歳ぐらいもふけて見える。左のコメカミにはこんにちの十円硬貨ほどの大きさの打撲傷を中心に五六ヵ所も傷がある。それがどれも赤黒く皮下出血をにじませている。おそらくはバットかなにかでなぐられた跡であろうか。

 首にはひとまきぐるりと細引きの跡がある。よほどの力でしめたらしく、くっきりと深い溝になっている。そこにも皮下出血が赤黒く細い線を引いている。両方の手首にもやはり縄の跡がふかくくいこみ赤黒く血がにじんでいる。

 だが、こんなものはからだのほかの部分にくらべるとたいしたものではなかった。帯をとき着物をひろげてズボン下をぬがせたとき、小林多喜二にとってどの傷よりもいちばんものすごい死の「原因」を発見したわれわれは、思わずわっと声を出していっせいに顔をそむける。

 毛糸の腹巻になかば隠されている下腹部から両脚の膝がしらにかけて、下っ腹といわず、ももといわず、尻といわずどこもかしこも、まるで墨とべにがらとをいっしょにまぜてねりつぶしたような、なんともいえないほどのものすごい色で一面染まっている。そのうえ、よほど大量の内出血があるとみえももの皮がぱっちりと、いまにも破れそうにふくれあがっている。そのふとさは普通の人間の二倍くらいもある。さらに赤黒い内出血は、陰茎から睾丸にまで流れこんだとみえて、このふたつの物がびっくりするほど異常に大きくふくれあがっている。
                         ◇=◇=◇

 読み返すたびに、怒りがこみ上げてきます。

★脈絡のないきょうの一行
選挙制度問題佳境へ。民意を反映しない小選挙区制にこそメスを入れるべき。比例削減など論外だ。
2009/07/10 [Fri] 10:32:17 » E d i t

 最新作の映画「蟹工船」を観てきました。ご承知のように小林多喜二原作のこの映画、なかなか見応えのあるものに仕上がっていました。内容からして、どうしても船の中のシーンが多くなります。それゆえに、大きなスクリーンで芝居を観ているような錯覚に陥りましたが、飽きることはありませんでした。「剣岳――点の記」でも活躍した松田龍平がいい演技をしていました。先々、活躍する役者になるのではないでしょうか。

 生きる、ことをテーマ据えたこの映画、考えさせられるものがありました。「生きるためには環境に馴染まず、それを変える必要がある。環境を変えるためには自分たちが変わらなければならない」――。つい最近、アメリカ大統領選挙で聞いた「チェンジ」の精神そのものですが、これはオーバーにいえば人類の永遠のテーマなのかもしれません。

 今でも労働組合などに飾ってあるところがありますが、白鳥事件で無実の罪をきせられ、18年間獄中でたたかった村上国治さん(故人)の色紙に、「たたかわずして 何で自由といえようか」と記したものがあります。この一言は獄中にあってもたたかい続けた、村上国治さんだからこそ重みのあるものです。この言葉をこの映画風に読み替えるなら「たたかってこそ変えられるし、自由が生まれる」ということになりましょう。

 この映画はSABU脚本・監督によるものですが、1953年に山村聡さんが作った同名の映画「蟹工船」と、内容においても重厚さにおいても遜色ない、と思いました。間違いなく、小林多喜二の思いが伝わって来ると断言できます。一つだけ違うのは、山村映画は漁師たちが海軍兵士に銃撃されるシーンで終わりますが、SABU映画は、これからたたかいが始まるところでエンディングとなります。映画がつくられた時代背景の違いだと思いますが、あなたはどちら好みでしょうか。

 さあ、いよいよあさって都議選投票日。それにつづく総選挙で、都民はいまを「変えられる」のでしょうか。多喜二の思いに応えられるのでしょうか。

★脈絡のないきょうの一行
サミットでも核なき世界で議論。核廃絶にスピード違反はない。もっと早めてほしい。
10012小林多喜二③ 
2008/02/22 [Fri] 11:11:46 » E d i t
 治安維持法時代(1925年4月-1945年10月)に活動し、獄中で過ごした経験を持った人と私が話しをしたことがあるのは二人だけです。一人は「母べえ」のところで紹介した連れ合いの父親、宣平(のぶへい)。そしてもう一人は、小林多喜二とも一緒に活動したことのあるプロレタリア作家の山田清三郎(1896年-1987年)さんです。

 山田さんはご承知の方もいるかと思いますが、白鳥事件(1952年1月、札幌で起きた警官射殺事件。これを共産党の仕業として北海道警は、村上国治らを逮捕し最高裁まで争ったものの有罪判決を受ける)の研究をされた一人です。私自身、かつてこの事件の村上国治さんを救出する運動にかかわり、そのとき山田さんとは知り合いました。

 「夢なりき/夢にてありき/今はなき/小林多喜二の/あの眉/あの鼻――」
 「今はなき/小林多喜二と/――じゃまた……/と握手交わして/醒めし夢かな」
 山田清三郎さんが残した短歌です(「わが生きがいの原点」白石書店)。小林多喜二への思いがこもっています。山田さん自身も2度、下獄しています。小柄で温厚でその人のどこにエネルギーがあったのか不思議でなりませんでした。ただ、言葉の端々に出てくる権力への飽くなき怒りは、手に取るほど伝わってきました。

 その山田清三郎さんが語った「小林多喜二は蔵原惟人の推せんで共産党に入党し、私は小林多喜二の推せんで入党した」という一節が、今でも私の記憶装置にこびりついています。三人とも亡くなっておられ確認しようがなく、山田さんの書いたものの中にその記述がないか、探してみましたが見つかりませんでした。どなたかお分かりでしたら、教えてください。そういえば、小林多喜二の遺体を囲んだ写真が残っていますが、そのなかに(特定はできないのですが)山田清三郎さん、蔵原惟人さん、江口渙さんも入っているそうですがいかがでしょうか。そして、映画「母べえ」で父べえが遺体で帰ってきたときのシーンに、この写真とオーバーラップしたのは私だけでしょうか。

 2月20日は、小林多喜二が殺された「治安維持法時代」を忘れない、繰り返させない、そんな誓いの日にしたいものです。この日は同法が発効する4年前の、1921年に生まれた私の母の誕生日でもあります。87歳になった母は、認知症が出てきていますが元気です。
10011小林多喜二② 
2008/02/21 [Thu] 07:44:16 » E d i t
 前回紹介のメモを書いた江口渙は、小林多喜二の葬儀委員長をやったということで、検挙されています。多喜二の殺し方の異常さと、江口の逮捕も含めて、こういうことが国の〝お墨付き〟で行われていたことを忘れてはなりません。

 暗黒社会を形作った治安維持法。その12年間は『治安維持法時代』と言えるのではないでしょうか。戦国時代も、江戸時代も、明治維新も大正デモクラシーのときも、生命の危険にさらされる厳しいものはありました。しかし、この治安維持法時代ほどモノを言っただけで、書いただけで、国家が堂々と国民を弾圧し人殺しを行った時代は稀有なのではないでしょうか。

 そういう時代にあって、権力を批判し続けた小林多喜二をはじめ宮本顕治ら、プロレタリア作家に改めて頭が下がる思いです。真実を貫くために生命を賭ける、どこからその不屈の精神が発揮されたのでしょうか。そのすさまじいばかりの、真っ直ぐに未来を見つめた姿は、私たちを感動させてくれます。

 同時に、あの時代の再現・回帰を許さない、しっかりしたスクラムの必要性も痛感しています。時あたかも、メディアも含めて総スカンをくい廃案になったはずの「人権擁護法」制定の動きが出始めました。人権擁護を名目に、メディアにモノ言わせない法律は、断じて成立させてはなりません。(つづく)

 以下、友人から「面白いから読んでみたら?」と届いたブログです。言論の自由の範疇として、紹介を許してください。私の未熟な表現力の不十分さをはるかに上回って、そのことを書いています。

http://teagon.seesaa.net/article/82465449.html
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。