前回のつづきです。「雲仙普賢岳の被災を考え、支援するネットワーク」は、雲仙岳に限らず防災や被災者支援問題全般を視野に置こう、という論議がすすみ「防災問題を考える首都圏懇談会」(略称・防災首都圏懇)に衣替えしていました。当然のことに阪神・淡路大震災の被災者支援に取り組みました。その一環として、私は10日後に被災地に入ったのです(1月17日からの小ブログ参照)。
阪神・淡路大震災被災者支援活動の過程で、「恒常的な被災者支援の組織が必要ではないか」という意見が出されました。それは神戸をはじめとする被災地でも期待が高まりました。かつて、中央民災対をつくりその中心を担った大屋さんは新たな組織づくりに取り組みました。全労連、民医連、新婦人、全商連、自治労連、母親大会連絡会など、私は大屋さんと二人でこれらの団体を要請に回りました。そしてついに阪神・淡路大震災から4年後に「災害被災者支援と災害対策改善を求める全国連絡会」(略称・全国災対連)が1999年10月に結成されたのです。
全国災対連は、関係団体が集まってはいるものの全労連が中心となりました。全労連内部には「新しい共闘組織はつくらない」という〝合意〟はあったものの、大屋さんの熱意に押されるように、災害被災者支援の運動と組織の必要性から結成にこぎつけたものです。いうまでもなく大屋さんはここでも、その中軸にいました。
災対連が結成されて以降、災害被災者支援の取り組みはかつてなく広がりました。地震による被害だけでなく、豪雨や台風による被害者支援にも取り組みました。そして、この災対連づくりの運動過程の1998年5月に「被災者生活再建支援法」が制定されました。これは議員立法ではありますが、それまで行政がかたくなに取ってきた「災害被災者個人には補償しない」という方針を転換させたのです。災対連はこの法律の充実をめざして国会行動や署名活動に力を注いでいます。
「災害は、弱者ほど被害が大きい」「被災者支援は人間性を取りもどすたたかいだ」――。大屋さんの口癖でした。その大屋さんは昨年3月、鬼籍に入りました。その大屋さんを偲ぶ会が1月22日に開かれました。親しい仲間たちが集まりましたが、「彼を越える人物はもう出てこないのではないか」というのが一致した意見となりました。
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93年の「ドーハの悲劇」が一転、「ドーハの歓喜」に。がんばったネ、サッカー日本代表。
この中央民災対は、総評を中心に災害問題に関連する全建労、全気象、全日農、民医連などの労働組合・団体で構成され、社会党、共産党の政党も入っています。以降、総評に務めていた奥さんの和恵さんがこの中央民災対の事務局員になり、大屋さん自身も国民救援会を辞め、この運動の専任となっていきました。さらに、62年には災害問題の研究者の組織化として『国土問題研究会』が結成され、その運動の中軸となっていきます。
これらの運動の推進役となった大屋鍾吾さんは、日本における災害被災者支援運動と防災研究活動のさきがけでもあったのです。被災者支援だけではなく、ダム建設反対の運動にも取り組んでいます。そして、革新都政の防災対策への協力、防災都市づくりの研究や都市計画にもかかわっていきました。しかし、奥さんの和恵さんが76年に死去し、中央民災対の活動が事実上ストップ、中央民災対は自然消滅の道を歩みました。
それでも大屋さんは災害被災者支援の取り組みを止めませんでした。そして、1991年6月3日に雲仙普賢岳は大火砕流を起こし、43名の死者・行方不明者を出す大惨事が起きました。この事件は私にとっても他人事ではありませんでした。犠牲者のなかに当時勤めていた毎日新聞労働組合の組合員がいたからです。そして私自身が長崎県の出身であることから、被災者支援の運動にかかわりはじめ、大屋さんと出会ったのです。
このとき、大屋さんは68歳、私は44歳で言ってみれば父親みたいなものです。大屋さんの口から出てくる防災関連の専門用語に戸惑いながら必死にくらいついたものです。雲仙普賢岳被災者を支援しようと、東京に住む長崎県ゆかりの人たちに声をかけ、大屋さんらの専門家の協力を得て「雲仙普賢岳の被災を考え、支援するネットワーク」を立ち上げたのです。その代表に大屋さんに座っていただきました。
この運動は急速に広がり、有楽町・マリオン前の宣伝行動や、島原の特産品を売って支援しようと「わかめ」の販売などに取り組みました。わかめは、千代田争議団の協力を得てなんと2トンも販売するという快挙となりました。さらに、翌年には「現地に行こう」ということでバス1台分の仲間を集めて、現地調査も行いました。それらの活動の中心に、大屋さんは必ずいました。
そして、95年1月17日に阪神・淡路大震災が起きたのです。(次回につづく)
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「公約変更なら総選挙」(公明党)。正論である。
大屋さんは1923年11月に京都市で生まれました。戦中は海軍予備生徒として訓練を受け、1945年に少尉として千葉県木更津基地に赴任。しかし戦地に赴くことなく戦争は終わりました。戦後、旧制第三高等学校(現・京都大学)に入学し、ここで社会運動に目覚めたといいます。
1956年に国民救援会中央本部の事務局長に就任し、後述する「60年安保闘争」で樺美智子さんが亡くなったとき、検死に民主運動側の医者を立ち合せることも実現しています。一方で、1959年に起きた伊勢湾台風の被災者支援にも取り組み、災害問題のいわば専門家になってきました。私が大屋さんとお会いしたのは、1991年6月の雲仙普賢岳の火砕流による被災者支援の運動でした。以来、おつき合いをさせていただきました。その大屋さんが「自分史」のなかで、樺美智子さんのことを以下のように記述しています。
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翌日慶応病院で検死が行われ、樺夫妻も来られた。検死は慶応病院中舘教授、中山博士の司法解剖、立会いは医博の坂本昭参議院議員と医博中田友也代々木病院外科部長であった。(略)検死の結果の公表は窒息死で扼殺の疑いが強いとされたが、その原因については曖昧であった。
(略)この寺に来て驚いたことに、其処に掛けられていた故人の遺影が私の以前から知っている顔であった。それは数年前目黒区駒場の東大教養学部から勤評闘争などのお手伝いに来ていた女子学生の顔であったのだ。彼女は以前、私たちには竹田と名乗っており、私達と同じ目黒区内で真面目に地道な活動をしていた。私の妻は女子学生の後輩として特に目をつけ可愛がって、その学生もしばしば私の家で食事なども共にしていたのであった。そして、彼女が本郷の東大に行ってからもメーデーで会ったこともあった。その竹田が樺美智子であったことで、その死は私達夫婦にとってはより一層忘れがたいものとなった。
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家族ぐるみで食事をしていた女の子が、安保闘争の犠牲者であったことに大屋さんには大きな驚きだったようです。その子が「竹田」と名乗っていたことは、彼女がいわゆる活動家であったことを物語っています。そして、大屋さんの奥さん・和恵さん(故人)は当時、総評の書記をやっていました。(次回につづく)
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鳥インフル蔓延のきざし。文字通り天からの落し物。人間の力ではどうにもならないのか。
ところで、みなさんはピュリッツアー(1847年-1911年)という人をご存知でしょうか。それとも「ピュリッツアー賞」と言えばお分かりでしょうか。アメリカで「新聞王」といわれ、権力との徹底したたたかいは定評があります。その功績をたたえてつくられたのが前出の「賞」です。そのピュリッツアーが残した言葉があります。旧仮名づかい調で読みにくいかもしれませんが、ジャーナリズムの真髄をついています。
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常に進歩と改革のために戦い、不正あるいは腐敗は黙視せず、いかなる一党にも組みすることなく、常にあらゆる党派の扇動家と戦い、貧しき者への同情をいささかも忘れることなく、常に特権階級および公共の略奪者に反対し、常に公共の福利に貢献し、単にニュースの供給に満足せず、常に厳正なる独立を守り、貪欲なる金権政治によると、あるいは貪欲なる貧困によるとを問わず、およそ不正を攻撃するにいささかも恐れることなし。
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1994年のピュリッツアー賞は、南アフリカ共和国のケビン・カーターという青年カメラマンの写真が受賞しました。「ハゲワシと少女」と題したその写真は、スーダンの飢餓状況を写したものでした。餓死寸前の少女に近寄るハゲワシを捉えたもので、世界を仰天させました。しかし「写真を撮る前になぜ助けないのか」という批判の声がわき起こり、その批判に耐え切れなくなったカーターは自殺するという悲惨な結末となりました。
しかしこの写真は、行動をともにしていた同僚の写真家の証言によると、たまたま母親が子どもをそこにおいて用をたしているときにハゲワシがきたもので、カメラのシャッターを押した直後、母親は子どもを抱きかかえて去ったというのです。カーター自身はうつ病で通院していたとはいいますが、外国人を締め出したスーダン政府に抗して、飢餓状態を写真にして実態を訴えようとした33歳の若者の死は、砂を噛むような気分です。
いまのジャーナリズムはどうなっているのでしょうか。最近の批判の集約点の一つとして、読売新聞の渡邉恒雄代表取締役主筆が、自民、民主の大連合を裏で画策したことがあげられています。この事件(事件というのもおぞましいのですが)は思い上がりの極致、という印象を持ちました。そこには稲葉先生から学んだ「反権力」のカケラさえなく、むしろ権力内部に自ら擦り寄っていく姿しか見受けられなかったからです。
風上に置けない、という言葉がありますがこの『渡邉恒雄大連合画策事件』は、そのものといえます。とはいえ、メディアが持っている影響は小さくありません。イージス艦が漁船を破壊・沈没させた事件で、防衛大臣がヘリを使って関係者を呼び寄せていたり、艦は12分前に漁船を発見していたなどは、報道機関の地道な取材によるものでした。それらは、「反権力」という立場に立脚したものです。その意味において、この事件の一連の報道は評価に値します。
しかし、と、ここで切り返さなければならないところに悲しいものがあります。一例だけあげましょう。「後期高齢者医療制度」問題でどれだけ、新聞や放送がその問題点を報道しているでしょうか。皆無に近いではありませんか。野党がこの廃止法案を国会に提出しましたが、何故廃止なのかなど、この制度の持っている問題点をえぐるに到っていません。気になるのは私だけでしょうか。(次回につづく)