ヘボやんの独り言
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2008/03/26 [Wed] 13:28:25 » E d i t
 3月23日の白昼、JR常磐線・荒川沖駅において殺人容疑で指名手配されていた男が包丁を振り回し、8人を殺傷するという事件が起きました。亡くなったのは、たまたま通りかかった27歳の青年でした。こんな理不尽なことが許されていいのでしょうか。翌24日のNHK正午のニュースで、亡くなった若者の友人だという女性が、涙ぐみながら「警察は何をやっていたんだ。大量の捜査員を出しておきながら、どうしてこういうことが起きるんだ」と怒りを爆発させていました。

 この女性の気持ちは分かります。容疑者は坊主狩りにして、分かりにくかったといいますが理由になりません。危険人物が周辺に潜んでいるかもしれない状況下で、変装も想定した捜査をすることは常套手法であり、もしそういうことを考えていなかったとしたら、それは明らかに警察の怠慢です。

 地下鉄サリン事件も、はっきり言って警察の怠慢が引き起こした事件でした。サリン事件が起きる6年前、89年11月4日、横浜市在住の坂本堤弁護士一家の拉致事件が発生しました。奥さんと子どもを含む3人が、何者かによって拉致され行方不明になったのです。しかも現場には、オウム真理教のバッヂさえ落ちていたのです。坂本弁護士は国労組合員の誤認逮捕の弁護や、共産党幹部宅盗聴事件に関連する弁護をしており、神奈川県警とは対立関係にありました。それが背景にあり、県警は「坂本弁護士一家は夜逃げした」などと言い放ち、まともな捜査をしませんでした。

 もしあの坂本弁護士一家拉致事件で、警察がきちんとした捜査をしておれば、地下鉄サリン事件も未然に防げたはずです。警察の怠慢というのはそういう意味においてです。自分たちの都合の悪い者の「不幸」にフタをする、その体質を看過してはなりません。

 話しが少し外れましたが、地下鉄サリン事件のPTSD被害者となったわが子の13年間を思うと、こころが痛んでなりません。そして13年前のあのときそれが分かっておれば、二十歳なったばかりの娘でしたが、一晩中、抱きしめてあげることが出来たかもしれない、そんな悔恨を捨てきれない、私はそんな父親でもあります。
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2008/03/24 [Mon] 10:10:54 » E d i t
 娘の精神状態が不安定になった原因は、地下鉄サリン事件にあったこと、すなわちPTSD(心的外傷後ストレス障害)だったのです。申し訳ないことに、このことは家族も含めて私には全く分かりませんでした。もちろん、本人にも分かっていなかったと思われます。きっかけは何だったか覚えていないのですが、ある日、なんとはなしに「あの事件以来、電車に乗るのが怖くなったんだ」と彼女がつぶやいたのです。

 この一言は、さすがに鈍感な父親でも気がつきました。そうか、そうだったのか! わたしは心の中で大声を上げていました。なんという長い道のりだったことでしょう。私の頭の中は、5年余の歳月が一瞬のうちに走り抜けました。そして娘に対して、申し訳なさで一杯になりました。気がつかなくてゴメンネ、と。

 会社を辞めた彼女の生活はすさみました。はっきり言って、それを書くことはかなりの勇気を必要とします。そのうち時期が来れば書きたいと思いますが、ここでは詳細は省かせていただきます。おそらく、その生活状態について娘はほとんど覚えていないのではないでしょうか。夢の中の一時期だったと思われます。そういう状況のなかで今回、このブログに私がそのことを書こうと思ったのは、3月20日を前にして「13年前の私に会いに行ってみたい」と彼女が言い出したことがきっかけでした。

 娘は当日、仕事の合間に雨をついて地下鉄丸の内線に乗りました。丸の内線はおそらく、13年ぶりでしょう。そのことについて20日の彼女のブログには、以下のように記してありました。

                          ◇=◇=◇
 13年前の地下鉄サリン事件の、一番被害の大きかった霞ヶ関駅へ行って来ました。電車に乗るのがこわくなった原因となった事件と、13年間向き合わず、逃げ続けてきましたが、今日現場に行き、未だにたたかっている遺族の方、後遺症で苦しんでいる被害者の方から、言葉じゃ表現出来ない、様々なモノをいただいてきました。今日の経験をどの様に活かすかは、わたし次第。頑張らねばだな。適度に…ね。途中、OLさんしていた頃に毎朝利用していた淡路町ドトールへ。相変わらずの機械的な接客だったけど、なんだか癒されました。変わるモノ、変わらないモノ、忘れてはならないコト、前に進むコト…。難しいな。難しいけど、多分大丈夫。ファイトだ愛さん。
                          ◇=◇=◇

 原文のままですが、この短い文章に、父親である私はどれだけ救われたことでしょう。(次回へつづく)
2008/03/21 [Fri] 10:08:45 » E d i t
 地下鉄サリン事件が起きた95年頃は、「就職氷河期」といわれ、学生たちは厳しい状況に置かれていました。この年代(現在30歳から35歳くらい)の人たちは、今でもその影響が尾を引き苦しい状況が続いています。現在、一部企業では救済の意味も含めて、彼らを敢えて雇用しようという動きがあるくらいです。

 私の娘は、この年に短大を卒業し千代田区・淡路町の中堅の企業に入社が決まりました。〝氷河〟を乗り越え、まさに新成人として希望に燃えてあたらしい生活をおくるはずでした。ところが何と、2ヶ月と続かなかったのです。朝、「行ってきまーす」と言いながら玄関まで行くのですが、そこから動けないのです。足がすくんで、顔色も悪く「どうしたんだ」という問いかけにも答えられない状態が続きました。登校拒否ならぬ、出勤拒否でした。

 私はいわゆる5月病かなとも思い、叱咤激励したものです。理由を問いただしても、要領を得ません。食欲も落ちて痩せていきました。本人は何とかしなければ、としきりにがんばったようですが、結局、断を下したのは父親でした。「無理をせず、会社を辞めていいぞ」と。

 会社の同期は、「折角入った会社なのにもったいない。なんとかがんばれないか」と激励したそうです。しかし、彼女はそれを受け入れる状況になく、2ヶ月の「OL生活」に終止符を打ったのです。以降、娘には苦しいたたかいが始まりました。その原因が「地下鉄サリン事件」にあったことは、5年後くらいにやっと明らかになったのです。

 本人にも理解できない、出勤するときの精神状態は『恐怖』だったのです。自分の出勤経路である地下鉄丸の内線は、あの事件で多くの負傷者を出しました。そのことが、実に私たち家族の想像を絶する重みとなって、娘のこころを蝕んでいたのです。(以下、次回につづく)
2008/03/19 [Wed] 10:52:48 » E d i t
 あの忌まわしい「地下鉄サリン事件」から明日で13年となります。私の身近に、あの事件の被害者がいます。そのことに触れながら、この問題を考えてみたいと思います。

 その前に事件のおさらいを少ししましょう。1995年3月20日・月曜日、午前7時半頃から8時半頃にかけて、東京の地下鉄千代田線、丸の内線、日比谷線の車両内でサリンが散布され12人が死亡、5,510人(後日増加)が重軽傷を負ったというものです。大都市で一般市民を狙って科学「兵器」を使ったテロ事件として、世界的にも衝撃を与えました。犯人は、オウム真理教の集団であったことはご承知のとおりです。

 この日、コンチネンタル銀行争議団の仲間たちは、霞ヶ関で宣伝行動を予定し8時前には現地に入っていました。「待っても、待っても、誰も出てこん。周辺はパトカーのサイレンが鳴り響き、何が起きたか分からなかった」と、2、3日後でしたか、MさんとYさんから話を聞きました。そして、「地下に入り駅構内を見に行った」というのです。

 好奇心の強いお二人、なかでもMさんのそれは旺盛で、さもあらんと思ったものです。構内で二人が見かけたものは、タンカに乗せられて運ばれる負傷者たちでした。それから2ヵ月後の5月17日、Mさんはすい臓がんを患い、帰らぬ人となりました。4月中旬には奥さんとハワイ旅行を楽しむほどの元気があった、にもかかわらずです。「サヨナラ」も言わずに逝ったMさんのしのぶ会には、多くの仲間たちが集まりました。

 争議は98年に解決しましたが、もう一人のYさんはすっかり体調を崩し、歩行困難となりふるさとに引越し自宅をバリアフリーにして病院通いをしました。一時、生命の危険があるとさえ言われ途方にくれたそうです。病状は好転せず、99年の暮れ「もしかしたら」という思いにかられ、現在住んでいる兵庫県明石市から、東京中央区の聖路加病院の門をたたいたのです。そして、その日、Yさんは「地下鉄サリン事件の被害者の一人」として認定されました。

 元気印の典型のようだったMさんの突然の死、Yさんの症状といいこれは明らかにサリンによるものと考えられます。Mさんの死と地下鉄サリン事件とのかかわりを、当時は全く考えませんでした。今では立証のしようがないのですが、その影響によるすい臓がんだったことは容易に想像できます。Mさんのカラオケのオハコ、「冗談じゃねえ」の歌は忘れられません。Yさんは今でも治療を続けています。

 私の身近に被害者が、もう一人います。私の娘です。(次回につづく)