えん罪問題は、民主主義の問題です。労働運動は民主主義が保障されなければ成り立ちません。そういう意味から、冤罪をなくし、えん罪被害者を救出する運動と労働運動は、根っこのところでつながっています。
とりわけ、労働組合は組織力を持っているわけですから、その力をこの問題で発揮することは重要だろうと思っています。白鳥事件は、私が労働運動をすすめるなかでたまたまめぐりあったものでした。自分たち労働者の権利や生活だけでなく、無実の罪で獄中におかれている人を救うことは、労働者として、いや、労働組合として取り組まなければならない大事な課題だと自分自身で位置づけてきました。
最近では、「痴漢えん罪事件」の取り組みもやっています。やってもいないのに『犯人』として扱われることは、耐えられないことだと思います。その人のプライド・人権にかかわる問題です。先日、「町田痴漢えん罪事件」の〝被告〟家族と会いましたが、悲惨です。どういう角度から見ても無実だと思うのですが、裁判長にはそう見えないようです。裁判所の襟を正させるためにも、この種の運動は大切だと思います。
同様に、平和を守り、戦争に反対する運動も労働組合にとって大事な課題だと思います。なぜなら、いったん戦争が起これば、歴史が証明しているように労働運動そのものが否定されてしまうからです。そんな思いを持ちながら、私は労働運動をつづけています。(この項、おわり)
この事件のどこが特異かといいますと、死刑が確定した西さんと石井さんのうち、西さんは死刑が執行され、石井さんは恩赦で無期懲役に減刑されたという点です。しかもそれが同じ日だったという謎が残っているのです。石井さん(現在91歳)は89年に仮釈放となり、死刑執行された西さんの遺族らとともに、05年5月に再審請求をしました。
西さんは一貫して無罪を主張。石井さんは殺害を認めたうえで「勘違いから発砲した」として強盗目的を否定し、残る5人も無罪を主張していましたが、前出のように最高裁までいき、刑が確定したものです。死刑執行前に西さんは3回、石井さんは5回にわたって再審請求をしましたが、棄却されています。
それでも改めて再審請求を行いました。死刑が執行されてからの再審請求は初めてのことです。しかも、この事件は旧刑事訴訟法によって捜査、裁判が行われており物証もなく拷問と自白で作られたものである、として弁護団は支援を訴えています。それに応えるように、九州大学、西南学院大学、久留米大学の法学部の学生らが、判決文をデジタル化するなど、協力しています。
まさに特異なこの事件ですが、ぜひ皆さん方にも取り組んでいただきたいと思うのです。私(たち)には残された時間はあまりありません。若い皆さん方だったら、きっとできる、そう思うからです。小林多喜二が虐殺された小説「蟹工船」のなかの一行はどこか、ということと、この福岡事件にぜひ取り組んでいただきたいということを〝宿題〟とさせていただいて、話しを終わらせていただきます。ありがとうございました。(質問があり、次回につづく)
しかし、このカベも厚いものがありました。この判決が出るまでに、一度は再審開始を得たものの検察側の即時抗告で取り消され、実に第6次請求で再審が開始されたのです。この事件もそうですが、自白偏重による判断が人の一生を狂わせてしまったのです。もし仮に、死刑が執行されていたら、取り返しのつかないことになっていました。
以降、香川県財田川村で起きたヤミ米ブローカーの殺人犯として死刑判決を受けた、財田川事件の谷口繁義さん。静岡県三島市で6歳の女の子が殺され、三島事件の犯人として死刑判決を受けた赤堀政夫さん。そして、宮城県松山町で一家4人が殺害され、松山事件の犯人として死刑判決を受けた、斎藤幸夫さんらは、再審によって無罪を勝ち取ったのです。
死刑判決だけでなく、刑期終了後も再審請求を行い、無罪をかちとった例も少なくありません。殺人事件の共犯者として無期懲役を言い渡され、再審で無罪となった加藤老事件は62年という長きにわたりました。徳島ラジオ商殺し事件では、家族が遺志を継ぎ本人が亡くなってから無罪を実現しています。そいうなかで、再審請求の現在進行中のもので一つだけ特異な事件があります。「福岡事件」がそれです。(次回につづく)
その村上さんは、獄中においてもたたかいました。新聞を読むことを認めさせ、食事の改善をさせ、網走刑務所が開設以来、冬でもつづいていた「裸検査」を中止させることに成功しています。それらをつづった日記があります。『網走獄中記』がそれですが、村上さんが仮釈放のときに「菊栽培日記」と一緒に持ち出したもので、2冊の本になっています。この中に詳細が書いてありますが、刑務所長あてにていねいな要求書を出しています。それゆえでしょう、所内の囚人たちからかなり慕われていたようです。
一方、村上さんは詩人でもありました。たくさんの詩を残しています。決して気取らない、語りかけるような詩風は読む人をなごませ、少なくないファンをつくりました。粘り強さといい、詩を書く姿勢いい、きっと農民としての血がそうさせたのかもしれませんね。
村上さんのそういう思いと裏腹に、再審の途は残念ながら閉ざされました。75年5月、最高裁は再審の訴えを退けたのです。しかし、最高裁にも少しだけ血が通っていたのでしょうか、再審にも「疑わしきは被告人の利益に」という考え方を判決の中に盛り込んだのです。いわゆる『白鳥決定』の誕生ですが、これはその後、再審に大きな道が開かれることになるのです。(次回につづく)
・1923年1月5日/北海道比布町にて出生
・1952年1月20日/札幌市内で道警・白鳥一雄警部が射殺され「白鳥事件」発生
・1952年10月1日/逮捕(69年11月の仮釈放まで獄中生活17年1ヶ月/逮捕時29歳、寄しくも小林多喜二と同じ年齢)
・1957年5月7日/札幌地裁、無期懲役判決
・1960年5月30日/札幌高裁、懲役20年の判決
・1963年10月17日/最高裁、上告を棄却、ただし未決拘留日数のうち700日を刑に算入
・1965年10月21日/札幌高裁に再審申し立て
・1969年6月13日/同高裁、再審請求を棄却、異議申し立て
・1969年11月14日/仮釈放
・1971年7月16日/同高裁、異議申し立てを棄却、最高裁へ特別抗告
・1975年5月20日/最高裁、特別抗告申し立てを棄却、ただし「再審制度においても『疑わしいときは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用される」という判断を下した(通称「白鳥決定」)
・1994年11月/自宅の火災で死亡
村上国治さんを語るときに忘れてはならない人がいます。金川三郎という人です。白鳥事件が発生した当時、金川さんは村上さんと一緒に共産党の活動をしていました。金川さんは後に、「全国白鳥事件対策協議会」(中央白対協)の事務局長を務め、村上国治さんを救出する運動に全力を注がれました。その金川さんに「村上さんは何故あそこまでねばり強くたたかえたのか」という質問をぶつけたことがあります。興味深い、今日でいうサプライズの答えが返ってきました。(次回につづく)