もしかしたら船が動いているかもしれないという期待を込めて、再度、網走港へ。結果は前日と同じように空振りだった。それでは、もう一つの流氷観光の拠点になっている「紋別港」はどうだろうかということで、問い合わせてみた。こちらは網走とは逆で、流氷は遠く沖まで移動しており、時間的にそこまでたどり着くことはできないという。こちらもアウトであった。
こういう事態になった場合どうするかは、前夜相談してあった。なんと、北見に行こうというのである。平昌五輪でカーリングの選手が食べていた、あの「赤いサイロ」を買い求めようというのだ。女満別空港にも、網走港にも売り切れで存在しなかったためだ。販売元の北見に行けばあるだろうと、勝手に考えた次第である。
その前に、濤沸湖(とうふつこ)を訪ねることにした。ここは別名「白鳥湖」ともいわれるほどたくさんの白鳥が飛来してくる場所だ。ところが残念ながら白鳥は数えるほどしかいなかった。バス3台を連ねた、中国語の客が大勢いた。
【濤沸湖にて】

【濤沸湖の白鳥】

濤沸湖をあとにして、北見に向かう。とりあえずナビを北見駅にセットして走る。1時間半ほどで北見駅に到着。早速、女性陣は駅に走ったがそこにもあの「赤いサイロ」はなかった。これで諦めるメンバーではない、本店の場所を聞き出してそこへ直行した。が、ここにもなかった。店の説明によると、全国から注文が殺到し、それに追われて地元で売る分がないという。テレビの効果は抜群である。
北見駅前で昼食をとり、この日は敗北感を味わいながら、すごすごと退却。網走にもどる途中、雪が舞い始めた。東京では趣があるが、北海道のそれは鬱陶しかった。
【JR北見駅】

3日目。
北海道とはお別れの日である。午前中、時間があったため「流氷館」を訪ねることにした。流氷館は天都山の山頂にある。前日降った雪は止んで、やや薄曇りだが眼下に網走港が広がっていた。
【流氷館屋上の展望台から網走港方面】

【流氷館入口】

流氷館内には、流氷そのものが保存してある。濡れたタオルを貸してもらって、その場で回すとカチカチに凍ってしまう。寒さ具合を知るにはちょうどいい。クリオネが展示してあった。まさに天使である。写真を撮ったが水槽の中にいて、失敗した(ゴメンなさい)。
流氷館をあとにして、女満別空港へ直行。帰りはこの項の冒頭に述べたとおり、3時間25分遅れとなり、〝忍耐力〟を試された。
★脈絡のないきょうの一行
「うちの妻が言っているから間違いない」……。この人、恐妻家か? それとも単なるアホか。
福岡市・大濠公園を皮切りに、主要都市を歩いた。今でいう「キャラバン」だ。行進の模様をはがきにしたためて毎日、獄中の村上国治さんに送った。そのときの様子は、村上さんが仮釈放後に出版した「網走獄中記」に見ることができる。札幌で大規模報告集会を開き、網走まで村上さんを激励に行くことになった。
札幌から網走までの電車は長かった。4月上旬の北海道は雪化粧したままだった。その寒空でたたかう村上国治さんのことを思うと、胸が締め付けられる思いだった。網走駅から外へ出ると、そこは凍結の世界だった。
刑務所の門をくぐり、2分ほど歩いた場所に設置してある面会所に入った。村上さんはニコニコと笑顔で迎えてくれ「長い間お疲れ様でした」とねぎらってくれた。もちろん、村上さんと会ったのはこれが初めてだった。人懐っこいその目に、「この人に殺人はできない」そう確信した。
この年の6月に札幌高裁は再審請求を棄却した。その報告を兼ねて2度目の面会をしたが、そのあと11月に村上さんは仮釈放され再会の場面は東京となった。以来、村上さんとの交友は続いたが、94年11月に自宅の火事に遭いそれに巻き込まれて帰らぬ人となった。71歳だった。
村上国治さんの再審は実現できなかったものの、「再審においても疑わしきは被告人の利益に」という最高裁のいわゆる〝白鳥決定〟が確定した。これにより死刑台から生還した人が生まれたのはご承知のとおりである。
そんな思いのある網走刑務所は、以前見たときと同じように荒涼としていた。
【網走刑務所の門。昔、金網の先に面会所があった】

泊まったホテルは天都山の中腹にあった。部屋の窓から網走湖が眼下に見える。ちょうど日没の時間となり、その変化を楽しんだ。湖は全面凍結しており、ワカサギ釣りのテントが張り巡らされていた。カニがついた夕食に舌鼓を打ち、早めの就寝とした。(次回につづく)
【ホテルから網走湖の日没風景】

★脈絡のないきょうの一行
森友疑惑に「かかわっていたら議員も辞める」というあの言葉、改めて確認したいものだ。
旅行はスタートから遅延となった。初日に流氷を見る予定にしていたため、気を揉んだがセーフであった。帰りはご覧のように大幅遅延。航空会社はお詫びとして一人2000円の「お食事券」を支給してくれた。それを活用し、ビールやジンギスカンとなって腹に納まったことはいうまでもない。
【行きは30分遅れ】

【帰りは3時間25分遅れ】

女満別空港でレンタカーをゲット。雪道運転は久しぶりだったが、10分もすれば慣れた。一路、網走港へ。行くまでの間、同行者のケイタイで流氷船の運航状況を聞いてもらった。「流氷が接岸し、船が沖に出ることができず、網走港内をぐるぐると周るだけ」という回答を得た。明日はどうなるか、という質問には「分からない」。とにかく、網走港まで行ってみようということになり港を目指した。
流氷船・おーろら号の乗り場は、道の駅と同居している。その道の駅に車を止めて、改めて様子を聞く。やはり、同じ。どういう状態になるのか、実際に見てみようということになり港沿いを車で走り様子を見る。
【停泊中のおーろら号、乗客はいっぱい】

【走る船を背景に記念写真】

上記写真よりさらに右側に進んだ所で船の様子をうかがったが、説明通り、港内を周るだけだった。シャレではないが「ぐるぐる周るだけと言っていたから、2周するのかな」と笑いながらみていたら、3周目に入った。周る様子を見ているだけでは面白くないとその場を撤退、この日の乗船をあきらめてホテルへの道についた。
【流氷の海に浮かぶ水鳥。元気に潜っていた】

【港内の流氷を割いて悠然とすすむ船】

ホテルに向かう途中、「網走刑務所」という看板を見つけた。時間的余裕あるということで、ここに立ち寄ってみることにした。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
文書改ざん究明のため、辞任しないと麻生財務大臣。刑事被告と検察官が同一人物に見えるのは私だけかなー。
まず、電車。運賃は韓国も日本と同じように前払いだが、切符はなく目的地まではタッチ式のカードを買うことになる。このカードを使わなくなったら、カード代金だけ返してくれるという。もちろんチャージは自由だ。1万ウォンのチャージで実質的に2日間、乗降できた。安い。タクシー代も安かった。
電車に乗ったら立っている人がいるにもかかわらず、空いている席がある。妊婦専用の席だ。当事者以外は誰も座らない。加えて日本でいう優先席もある。白髪の私に若者が席を譲ってくれた。日本ではあまり目にしない光景だ。ナヌムの家のハルモニたちもそうだったが、年寄りが大事にされている。上海でも同じように、若者は必ず席を譲ってくれるというが、儒教の教えが徹底されているのか、習慣の違いか。
車内でスマホや携帯電話を使っている人の様子を観察した。日本では8割くらいが、必ずそれらをいじっている。ソウルは逆だ。使っているのはせいぜい2割程度。普及率は韓国も日本も同じくらいだという報道を読んだ記憶があるが、マナーとしては韓国が上だ。
地下鉄にガスマスクが置いてあるのには驚いた。どうも「北」対策らしい。絵図入りでマスクの使い方が説明してあったが、やや不気味。マスクの数は地下鉄利用者の量からすれば、とても賄えるものではないが、置いておくことで安心感が保てるのであろう。このマスクを使うことがないように祈りたいものだ。
【地下鉄に備えられたガスマスク】

物価は円に換算しても日本よりやや低いか、と感じた。コンビニの「セブンイレブン」がやたら目立った。ここで円からウォンへの交換をしてくれる所もある。ホテル近くのそこは、手数料を取らないと書いてあり、得した感じを受けたものだ。
泊まったホテルの位置する明洞は繁華街だ。歩いていると流ちょうな日本語で「偽物のバッグを売ってるよ。全部偽物だよ。買って行かないか」と声をかけられた。偽物を売りにしていることについ笑ってしまったが、われわれが日本人だということが、どうやって分かっのか不思議だった。この繁華街、夜になると屋台が出る。日本でいえば、新宿の歌舞伎町の通りに屋台が並ぶようなものだ。面白い。
食べ物は相対的に甘くできている。焼き肉のタレも、麺類の汁も、コーヒーも。ナヌムの家で所長から話を聞く間にコーヒーが出されたが、すでにミルクと砂糖が入っており甘かった。強めの〝甘さ〟は韓国人の習慣なのかもしれない。そういえば、焼酎のアルコール度数は日本酒並みだった。
【市役所前の右翼のテント】

【セウォル号犠牲者の抗議行動を続けるテントの中の写真】

ソウル市役所前の広場は、右翼がテントを張っていた。抗議行動をやっているらしい。100万人集会が開かれた大通りには、転覆したセウォル号の遺族が抗議のテントを張っていた。高校生だろうか、子どもたちの集合写真が貼ってある。経産相前のテントを撤去させた日本と違って、おおらかである。占領時代の日本へのそれを含む〝抵抗運動〟への寛容さなのかもしれない。私はいつの間にか、韓国贔屓になっていた。
★脈絡のない今日の一行
政府、名護市辺野古移設の埋め立てに関係する護岸工事に着手。またしても暴挙だ。
【聯合通信社前】

日本大使館前から東門市場へ移動。前日は明洞(ミョンドン)の繁華街で夕食となったが、今度は市場の屋台に行くことに。もちろん、植村さんの案内だ。市場の通路には屋台がずらりと並んでいる。韓国にも「ハナ金」があるのか、人通りも多く賑やかだ。
目的地に着いて、まずはビールで乾杯。屋台のおばさんは、日本語もできる。ギョウザが美味しかった。むこうのそれは、日本でいえば「水餃子」だ。韓国の家庭の味を頂いた。この日一緒に歩いてくれた姜さんとの会話になった。上智大を卒業した彼は、今度は早稲田大学の大学院のテストを受けたという。発表は4月下旬だという。彼の来日が待ち遠しい。
【屋台のおばさんと】

3日目、帰国の日だ。植村さんとは前日にお別れをしておいた。あとはお土産を買うことにして、とりあえずホテルに荷物を預けて南門市場へ。朝から人通りも多い。立派な崇礼門を見て、同行の皆さんが必ず立ち寄るという店へ。そこの主人は日本語が達者で、おいしいお茶をごちそうになった。
【南大門市場を歩く】

日本からの独立運動のレリーフが設置してある公園などを案内してもらいながら、ソウル市内を散歩。明洞の食堂で昼食を済ませて、荷物をホテルから引き上げタクシーで金浦空港に向かった。
◇
3日の旅だったが、考えさせられることは少なくなかった。従軍慰安婦問題を考えるとき、日本が朝鮮半島におこなった「併合」と言う名の植民地化を忘れてはならない。1910年(明治43年)8月29日から1945年(昭和20年)9月9日まで、35年間にわたって朝鮮半島は日本によって占領・統治されていた。その間、韓国人に主権はなかった。
その苦しみは推して余りある。主権が奪われた中で、女性たちへの従軍慰安婦としての強制連行が進められたのである。それを「性奴隷」と言わずして何と言おう。女性を「性のはけ口」としてしか考えず、有無を言わせず服従させる。人間の尊厳を根底から奪ったのである。
この問題を「戦争だったから」と済ませることは許されない。その戦争を許したのはほかでもない、日本国民だったからだ。戦争が根底にあったとすれば、その根底をつくったものの責任は免れないと思う。
初めての韓国訪問は、慰安婦問題だけでなく、韓国と日本の歴史を考えさせられ、一番近い隣国とどうつきあうべきか。人間の尊厳とは何か。戦争の持つ悲惨さ――など新たな課題を突き付けられるような思いだった。が、何よりも大事なことは「記憶されない歴史は繰り返される」という教訓をしっかり学ぶことであろう。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
海水温上昇で日本国内のサンゴが2070年代に消滅の危機(読売新聞ウェブ)。そのまま進めば、人類も危ないのでは?