案内人が6人、参加者が3人という〝豪華〟な旅となった。都城市の降灰の状態、その灰を廃棄し山となった灰の堆積場、被害の大きかった牧場、噴石によって天井に穴のあいた倉庫などを案内してもらった。人的被害はなかったが、こちらもまた甚大であった。
新燃岳は2010年3月ころから活動し始め、翌年2011年(平成23年)1月19日に小規模噴火の後、同26日に大きな噴火に変わった。1月27日頃から溶岩の出現も確認され、約300年ぶりのマグマ噴火となったものである。
ここ2、3日この新燃岳の噴火が起き、火口から溶岩が流れだしたことが確認され、テレビ画面にも映し出されている。11年のときは新燃岳大噴火から約2か月後に、東日本大震災が起きた。予兆ではあるまいが、新燃岳の噴火が大震災の前触れでないことを祈りたい。
東日本大震災は「あれさえなければ、復興はできたのに」ということが言われた。そう、「あれ」とは東電福島第一原発の事故である。原発の放射線で汚染された地域の復興は遅々として進んでいない。あの事故は、原発の持っているリスクの大きさを世界の人々に教えた。しかし、安倍内閣は原発推進をやめようとしない。あの、小泉元首相でさえ、原発はなくすべきだと言っているにもかかわらず、である。
私も、原発はなくすべきだという一人である。その被害状態を知るために、福島第一原発近くを走る国道6号線沿いの線量を調べてきた。2014年の9月に第1回目を行い、昨年4月まで毎年行い4回を数えている。今年も行くつもりだが、改めて17年4月のものを報告したい(下図は17年4月30日の小ブログで紹介したものの再録)。
【4回目の線量調査】

私は「その国の政治の良し悪しは、弱者にどれだけ手厚い政治が行われるかによる」といい続けている。一つは、子供。もう一つはお年寄り。そして3つ目は、災害被災者。私自身、災害被災者への支援活動は25年を超えた。たくさんの現場も見てきた。そのたびに〝貧困家庭ほど被害が大きい〟ことを知らされた。
その考えは今もって変わらない。国有地を森友学園に8億円もの値引きをするのであれば、被災者支援に回せ。オスプレイを買うお金があるのなら、被災者支援に回せ――そういう思いは、ごまめの歯ぎしりなのだろうか。
★脈絡のないきょうの一行
「森友文書改ざん 複数の職員関与」の報。問題はそれを誰が指示したかだ。
【有楽町の晴海通りのガードで止まった新幹線】

この時間帯になると、ケイタイもつながりネットを見ることも出来るようになった。それを見せてもらうと津波が押し寄せてきたと伝えている。それを確認しあわてて、近くのビル壁面に設置されたテレビを見に行った。空から撮影した映像が流れていたが、津波がすさまじい勢いで押し寄せてくる様子が映し出されていた。
その瞬間、私は「大量の犠牲者が出るぞ」と叫んでいた。その予想は悲しいことに的中した。宣伝行動は5時からの予定だったが、これも予想どおり「中止になりました」と争議団の仲間が伝えにきてくれた。
交通は全面的に止まっているらしい、ということで「動き出すまでの間」ということで時間つぶしを兼ねて近くの居酒屋に入った。ビールを飲みながらこの日の行動の総括をやり電車が動きだすのを待つことにしたのだ。しかし、動いた、という情報はない。
結局、夜9時過ぎまで居酒屋で過ごし、神保町にある事務所まで歩こうということになった。3時間は飲んだことになる。それなりに酔ったことは言うまでもない。有楽町から神保町まで、地下道を歩いた。大手町駅周辺には帰宅できない人たちが座り込んでおり、声をかけたら「電車が動くのを待っている」と答えた。
そう、帰宅難民だ。壁際は寄り掛かった人でいっぱいになり、スペースがない状態になっていた。幸いにエレベーターが動いていた事務所にもどり、近くのコンビニをのぞいてみた。おにぎりなどの食料品の棚はからっぽになっていた。頷ける光景だった。
【からっぽになったコンビニの食料品棚】

事務所の窓から外を見ると、普段の昼間でも考えられない数の人たちが、歩いていた。車は渋滞し、それこそ1ミリも動いていなかった。テレビを見ながら電車が動く時間を待った。しかしその気配がない。ところが都営地下鉄が動き出したという情報が流れた。
練馬に住んでいる私はそれアテにすることにして、仲間たちに別れを告げて神保町から飯田橋まで歩き、大江戸線ホームで待った。電車は来ない。なかなか来ない。ホームは人で溢れている。やっと到着したそれに乗って都庁前で乗り換え。が、またしても苦難が。ホーム一杯に人がいて、電車が来ても乗れないのである。
そこで一計を案じた。姑息だが「一駅戻ろう」がそれだ。行き先は終点。したがって一駅、「新宿」まで戻り乗り換えた。結果は成功だった。終点・光が丘に到着して迎えに来てくれるよう自宅に電話したのは、午前2時を回っていた。神保町を出て、3時間である。そして翌朝、私は新燃岳の被災地調査のため、羽田から宮崎に向かう飛行機の客となっていた。
★脈絡のないきょうの一行
佐川前国税庁長官、籠池森友学園前理事長と同じ道を辿りそう。逮捕はいつかな? よもや死ぬことはなかろうが。
ケイタイ電話(私は持っていない)を持っている人に、誰かに聞くことはできないかと、相談してみるが、電話がつながらないという。日比谷公園に向かう途中、誰からともなく「震源地は宮城沖らしい」という声が流れてきた。
この時間帯には明乳争議に関する要請で、みずほ銀行に行った仲間たちはすでに話し合いに入っていた。そのとき、揺れのひどさに双方は「改めてやり直しましょう」ということで切り上げたという。要請は地下会議室で行っていたが、このままビルが倒壊したらどうなるんだ、と不安になったという。そのあと外に出るとき揺れが襲い、入り口のガラス窓が弓なり状態に曲ったという。これは恐怖である。
日比谷公園は人であふれていた。防災用のヘルメットをかぶっている人もいた。それも色とりどりで「ヘルメットは黄色や白だけでなく、いろいろな色があるんだ」とヘンに感心したものである。
【日比谷公園、噴水付近】

【日比谷公園、地下鉄日比谷線入り口あたり】

つづいてこのあとどうするか――。とりあえず、家族との連絡を取ろうということになったが、ケイタイが繋がらない。一番近い地下鉄「日比谷駅」に入れば公衆電話があるだろう、ということになりそちらへ移動。確かにあった。が、そこは列ができていた。
仕方がないので、われわれもそこに並ぶ。すると、私の2人前の女性が困った。硬貨はあるがそこの電話機はカード専用のものだったのだ。こういうときは、ケイタイを持っていない私は有利だ。いつもテレカを持ちそれで自宅と連絡を取り合っているからだ。困ったときはお互い様だ。その女性にカードを貸してあげた。喜んでもらえた。
その場にいた仲間たちは何とか家族と連絡がとれて、この日の最後の行動予定であった有楽町のマリオン前に向かった。ここでJAL争議の支援を訴える宣伝行動を行うことになっていたからだ。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
森友疑惑、ここまでくれば昭惠夫人の国会喚問しかない。日本の民主主義のカナエの軽重が問われる。
あの日、自分はどうしていたか、何を考えていたか、都内の状況はどうだったか、もう一度振り返ってみたい。
2011年3月11日は、春闘勝利をめざす「3.11千代田総行動」を展開していた。早朝から7つの駅でビラ配布、終わったあとは争議解決をめざす要請行動。昼休みは区内・錦華公園から九段下まで昼デモ、午後も年金問題などの要請行動を予定していた。
昼デモは100人を超える参加があり、盛り上がった。いつもの錦華公園から九段下までのコースである。神保町の書店街にシュプレヒコールを響かせた。
【昼休みデモ】

【昼休みデモ・神保町交差点】

昼食をはさんで午後の要請行動に移り、私は麹町税務署に民商の人たちと集団申告を行い、消費税増税反対を訴えた。もう一つの組は、賃金差別とたたかう明治乳業争議団支援で、明乳の筆頭株主であるみずほ銀行に、株主として争議解決を図ってほしいという申し入れをすることになっていた。
麹町税務署を出て、私は年金問題で要請する次の厚労省に向かう途中、午後2時47分過ぎ、あの地震がやってきた。厚労省に入る直前だった。歩いていると足元がグラグラしてきて、一瞬、脳梗塞でも起こしたかと錯覚した。その瞬間、近くの電柱にしがみついた。一緒に歩いていた人も同じことを考えたという。
そして間を置かず、地面が大きく揺れた。「地震だ」とそのときやっと理解した。厚労省が入っているビルを見上げると揺れる様子がはっきり分かった。「これが倒れてきたらどうなるんだ」という恐怖感がよぎった。そのときはあそこに逃げ込むしかない、と、ブロックで囲まれたビルの植え込みの下を考えていた。危機管理能力としては、低い点数である。
【地震直後の厚労省前】

館内放送も聞こえてくる。「外へ避難してください。避難場所は日比谷公園となっています」という声も流れてくる。ビルからは次々に出てきて、日比谷公園方面に歩いていく。その間も、何回か地面が揺れた。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
森友疑惑、佐川国税庁長官の「トカゲのしっぽ切り」で終わらせるな。
今回は3台の線量計を使った。より正確な数値を出すためだ。例によって、同じ地点を調査した。相対的には初回より線量は減っている。が、世界基準からみるとほとんどがオーバーしており、通行も帰還もできるような状態ではなかった。
【今回使った線量計】

改めて、放射線量の被ばく許容量をみてみよう。
●世界基準は、年間1m㏜(ミリシーベルト)となっている。したがって、
●1m㏜は1000μ㏜(マイクロシーベルト)だから、
●1000μ㏜÷365日=2.74μ㏜(1日の許容線量)
●2.74μ㏜÷24時間=0.114μ㏜(1時間の許容線量)
ということになる。したがって(線量計は通常1時間あたりの線量を表示しているが)許容量は1時間あたり0.114μ㏜ということになる。
【観測地点の数値】

今回は、常磐道が全線開通したことから浪江インターで降りて東進、JR常磐線の跨線橋を越えて6号線に入った。少し高くなっている跨線橋から、浪江町の様子を見ながら走ったが、駐車場に止まっている車は見えず、人の気配はなかった。いつになったらこの街は復活するのだろうか……。国道6号線の調査区間は、許容数値をはるかに上回っていた。別図は1回目と比較している。全体として初回より数値は下がっているが、①の浪江町以外は全てアウトであった。
【第一原発が見える地点から】

写真は、第一原発に近いところだ。作業用のクレーンが見える。線量はこの辺りが無茶苦茶に高かった。許容量の50倍となっている。ところが、国道から左右に分かれる主要県道に、車の侵入を防ぐ警備員が立っていたこ。一応マスクはつけていたが、被ばくしているのは間違いない。この人たちの健康は大丈夫なのか、心配になった。国道6号線のこの部分、健康問題を考えるならば封鎖すべきだと、改めて感じた。
★脈絡のないきょうの一行
失敗した北朝鮮のミサイル発射。電車を止めたり、射撃訓練の執拗な報道は、戦争を想定した国民の〝教育〟ではないのか。