ヘボやんの独り言
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2016/10/13 [Thu] 12:23:28 » E d i t
 小説とはいえ、前出は遺族の思いを実によく描いていると言える。殺人事件の刑事裁判で、参考人として出廷した遺族が「極刑にしてほしい」と訴えることは報道でよく見るが、それはまさに脚色なしの心底からの叫びに違いない。死刑制度廃止は、遺族のその思いにどう向き合うのかを問われていることを軽視してはならない。

 この問題の解決にあたって、私は二つの方法を考えている。

 一つは、時間はかかるが「宣言」も触れている「教育や福祉を含めた社会全体の重大な課題」という部分である。なかでも教育は重要である。「目には目を、歯には歯を」という言葉があるが、この考え方は死刑容認の下地になっているように思う。

 そこで、殺人という行為に関して、この言葉を発動しなくても済む教育が行き届けば、考え方はかなり違ってくるはずだ。それでは具体的にどういう教育内容にするのか、に言及しなければ無責任になる。結論的には「いのちを大切にする」教育である。

 人の「いのち」の大切さを徹底して教育すれば、戦争の愚かさが理解できるし、ましてや殺人の問題についても自ずと分かるはずだ。その延長線上に、殺人を犯した人の「いのち」についても考えが及ぶようになるだろう。同時にこの「いのち教育」は、殺人の大きな抑止力となることも期待される。

 二つ目の方法は、やや暴論気味になるが死刑制度廃止を即刻行うことである。そうなれば、国民感情はどう動くだろうか。反対論は出てくることは間違いない。しかし、「死刑」がなくなる訳だから、「死刑にしてほしい」という考え方は出来なくなる。つまり、死刑制度廃止によって「いのち」の大切さを逆説的に教育する、ということにもつながる可能性を持つことになる。

 いわば、反面教師だ。遺族の加害者への許しがたい気持ちは死刑制度がなくなった場合、被害者の「いのち」の対抗軸として加害者の「いのち」を置くことによって、判断基準を変えることが出来るようになるのではなかろうか。これまた教育の世界であり、見方によっては宗教の世界に入り込む。

 日弁連の「宣言」採択にあたっての議決は、賛成=546人、反対=96人、棄権=144人だったという。賛成は69.5%と思ったより少ない。棄権に144人もいたことは、弁護士のみなさんの悩みが伺える。確かに重い課題である。

 そこで私個人の結論だが、死刑制度は廃止すべきであると思う。しかし、そのための条件整備は前出の教育も含めて、急いでやるべきだ。それは「いのちの大切さ」について考える、あの人たちの好きな〝グローバル化〟に近づく道でもある。

 「宣言」は、強制労働を伴う懲役刑を廃止し、禁固刑に統一することや、罪を犯した人を社会から排除しないこと、仮釈放制度改革などを提言している。これらの問題は紙数の関係で、次の機会に譲ることにしてこのテーマを終えたい。

★脈絡のないきょうの一行
安倍首相、「南スーダンは永田町より危険」。いま、世界で一番危険なのは永田町。それより危険な南スーダンには行くべきではない。

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2016/10/12 [Wed] 10:57:30 » E d i t
 死刑の場合はすべてが殺人事件であり、ここでは被害者の遺族を対象に考えてみる。「宣言」は遺族の思いについての記述が意外なほど少ない。いくつか拾ってみよう。「犯罪により命が奪われた場合,失われた命は二度と戻ってこない。このような犯罪は決して許されるものではなく,遺族が厳罰を望むことは,ごく自然なことである。」

 「また,犯罪により命が奪われた場合,被害者の失われた命はかけがえのないものであり,これを取り戻すことはできない。このような犯罪は許されるものではなく,遺族が厳罰を望むことは自然なことで十分理解し得るものである。私たちは,犯罪被害者・遺族の支援に取り組むとともに,遺族の被害感情にも常に配慮する必要がある。そして,犯罪により命が奪われるようなことを未然に防ぐことは刑事司法だけではなく,教育や福祉を含めた社会全体の重大な課題である。」

 「人権を尊重する民主主義社会であろうとする我々の社会においては,犯罪被害者・遺族に対する十分な支援を行うとともに,死刑制度を含む刑罰制度全体を見直す必要があるのである。」

 「宣言」はこれらを前提としながら、犯罪被害者の救援関連の法律を引用したうえで「犯罪被害者等に対する支援は,犯罪被害者等を取り巻く状況を踏まえ,福祉の協力を得て,精神的な支援を含めた総合的な支援が必要である。さらに,犯罪被害者等給付金については,支給対象者の範囲の拡大及び給付金の増額を期すべきである。」と述べている。

 弁護士は心理学者ではないから「心の領域」にまで踏み込むことはできないのだろう。そのせいだと思われるが、「遺族が厳罰を望むことはごく自然なこと」、「精神的な支援を含めた総合的な支援が必要」と述べながらも、その遺族の気持ちにどう向き合うべきかの記述がない。具体的に提起しているのは給付金の増額についてのみである。この部分は残念ながら不十分と言わざるを得ない。

 この「宣言」に目を通しながら、以前読んだことのある東野圭吾さんの「さまよう刃」という小説を思い出した。妻に先立たれ高校生の娘と二人暮らしだった男性が、その娘を殺した相手に復讐していくという物語だ。加害者たちは未成年のため死刑はありえず、自分が手を下すしかないという、慟哭の世界を描いたものである。

 東野氏は加害者が特定され、その一人を殺害した父親が警察に出した手紙の中でこう言わせている。「彼を殺したことを、私は少しも後悔しておりません。それで恨みが晴れたのかと問われますと、晴れるわけがないとしか申せませんが、もし何もなければ、もっと悔いることになっただろうと思います。」と。

 さらに裁判になった場合に触れ、「未成年者の更生を優先すべきだ、というような、被害者側の人間の気持ちを全く無視した意見が交わされることも目に見えています。事件の前ならば、私もそうした理想主義者たちの意見に同意したかもしれません。でも今の考えは違います。」とも。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
小池都知事の給与、半減が決定。不言実行、ビシビシやってほしいものだ。

2016/10/11 [Tue] 02:34:54 » E d i t
 この福岡事件の石井健治郎被告は1989年12月、仮釈放を認められ熊本刑務所を出所。石井氏はこの時72歳。拘禁期間は42年となっていた。その後、支援者らとともに死刑になった西武雄さんも含めて再審運動を続けたが、2008年11月に91歳で死没している。

 福岡事件の概要について紙数を費やしたが、再審請求が認められることなく死刑執行によって〝殺された〟事例として紹介したかったからだ。死刑判決を受けて、えん罪であると主張しても刑が執行されれば、その人の人生は権力によって強制的に閉ざされる。今後、誤判が起きないという保障はなく、同様のことが繰り返される恐れは否定できない。

 昨年10月、「名張毒ぶどう酒事件」の被告・奥西勝(おくにしまさる)さんは無実を訴えながらも獄死した。再審の審理はつづいているが、こういう悲劇を繰り返してはならない。1966年に静岡県清水市で発生した、袴田事件の被告・袴田巌さんは、2013年3月に再審が決定され死刑台から帰ってきたが、刑が執行されていたら……。言わずもがなである。

 日弁連の「宣言」は「死刑制度を存続させれば,死刑判決を下すか否かを人が判断する以上,えん罪による処刑を避けることができない。さらに,我が国の刑事司法制度は,長期の身体拘束・取調べや証拠開示等に致命的欠陥を抱え,えん罪の危険性は重大である。えん罪で死刑となり,執行されてしまえば,二度と取り返しがつかない。」と警鐘を鳴らす。

 そのうえで「宣言」は「死刑を廃止するに際して,死刑が科されてきたような凶悪犯罪に対する代替刑を検討すること。代替刑としては,刑の言渡し時には『仮釈放の可能性がない終身刑制度』,あるいは,現行の無期刑が仮釈放の開始時期を10年としている要件を加重し,仮釈放の開始期間を20年,25年等に延ばす『重無期刑制度』の導入を検討すること。ただし,終身刑を導入する場合も,時間の経過によって本人の更生が進んだときには,裁判所等の新たな判断による『無期刑への減刑』や恩赦等の適用による『刑の変更』を可能とする制度設計が検討されるべきであること。」と対案を提起している。

 確かに日本の刑罰には、恩赦を受けることのない「終身刑」はない。重犯による刑期の加算、たとえば「懲役250年」のような制度もない。死刑制度を廃止するとすれば、そういう考え方の導入も必要ではないのかという提起でもある。

 それでは、被害者・遺族の立場に立った場合、どう考えればいいのだろうか。肉親を殺された人たちの思いはいかほどか。その悲しみや実行犯に対する怒りはどこに持って行けばいいのか。「犯人を極刑(死刑)にしてほしい」という気持ちをどう受け止めればいいのだろうか。次にその問題を考えてみたい。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
キューバの隣国ハイチ、ハリケーン被害で死者1000人超(ロイター通信)。コレラも発生し深刻に。世界からの支援を。

2016/10/10 [Mon] 12:09:28 » E d i t
 「宣言」は国際社会の死刑制度に関する動きを紹介している。死刑を廃止あるいは事実上の廃止国は、140か国。2014年の死刑執行国は25か国。OECD(経済協力開発機構)加盟34か国のうち死刑を定めているのは日本、米国、韓国の3か国だけ。

 しかもそのうちの韓国は刑の執行を18年以上停止しており、事実上の死刑廃止国となっている。アメリカでは50州のうち18州が死刑制度を廃止し、3州の知事が死刑執行停止を宣言、死刑執行は15年で6州のみ。国連でも14年12月の69回総会において、「死刑の廃止を視野に入れた死刑執行の停止」決議が117か国の賛成によって採決されている。これに日本は反対を表明した。

 これら一連の流れは、死刑制度の廃止が世界の流れであることを証明しているという。その理由として①死刑判決にも誤判の恐れがあり②刑罰としての死刑にその目的である重大犯罪を抑止する効果が乏しくなった――などを挙げている。

 誤判による刑の執行があったとしたら、取り返しのつかないことになる。「福岡事件」というのをご存知だろうか。

 1947年5月、福岡市で中国人と日本人の2人の闇ブローカーが殺害された事件。警察は西武雄さん、石井健治郎さんら復員軍人8人を逮捕。この事件では西さんと石井さんの死刑が確定した。

 石井さんは射殺したことは認めたがあくまで正当防衛を主張していた。石井さんは殺された2人と喧嘩の現場に行き合わせ、相手がピストルを出そうとしたので、身の危険を感じて撃ったと主張。

 西さんの方は闇取引の内金10万のうち2万円の取引手数料を残し、残金の8万円を持って帰ったことは認めたが、殺人現場には訪れておらず、7人で謀議したこともないと主張しつづけた。

 裁判では、1948年2月に福岡地裁は石井・西両氏の主張を認めず死刑判決。他の仲間は1人が無罪となったが、4人には懲役3年6ヶ月から15年が言い渡された。控訴審は1951年4月に棄却。4人は下獄、西さんと石井さんのみが上告した。1956年4月、最高裁は上告を棄却、死刑が確定した。

 二人は5回にわたって再審請求をおこなったものの、すべて棄却。この再審請求の特殊性は、他に犯人がいるのではなく石井被告自身が射殺を認めたものの、正当防衛であったことを主張した点にある。

 1969年7月、当時の西郷吉之助法相は廃案となった再審特例法に代わるものとして、「恩赦を積極的に運用する」との見解を出した。これに基づいて1975年6月、「他の共犯者に比べ刑が重すぎ、しかも改悛の情が明らか」として石井さんは個別恩赦決定、無期懲役とされた。

 が、不思議なことに同じ日、西さんの死刑が執行されたのである。西さんには「改悛の情がない」とされたのである。西さんは朝に執行を知らされると、取り乱すことなく「そうでしたか」と言い、煙草をうまそうに1本吸って刑場に向かったという。この事件はもしかしたら、無実の人が死刑台に送られた可能性がある。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
米大統領選挙の討論会、政策が吹っ飛んでスキャンダル暴露合戦。おいおい、アメリカ大丈夫か?

2016/10/08 [Sat] 20:36:28 » E d i t
 7日、日弁連(日本弁護士連合会)が死刑制度廃止を求める決議を採択した。実に重い課題だが、この問題について考えてみたい。

 「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」(以下「宣言」という)がそれである。「犯罪が起こったとき,我々は,これにどう向き合うべきなのか。そして,どうすれば,人は罪を悔いて,再び罪を犯さないことができるのだろうか。」という一文から始まるこの宣言は、提案理由を含めると、実にA4版で23ページに及んでいる。

 この報を聞いた時、私は死刑制度に限ったそれであろうと思っていた。ところが刑罰全般の在り方にも言及したものだったのだ。メディアの報道の仕方は、「死刑廃止」を突出したものとなっていた。メディアに苦言を呈したいところだが、それはさて置いて本題に入ろう。

 変な言い方であるが、ヒトが人を殺していいのは、3つの場合に限られるという。①戦争②正当防衛③法的措置――がそれである。

 敢えて断っておくが、前記三つの条件であれば「殺人が許される」と私は考えている訳ではない。どんな事態であっても、人が人を殺すことがあってはならないし、回避措置をはかるべきだ、と、私は常々考えている。以下はそれを前提にしたものであることを、予めご承知おきいただきたい。

 ここで言う死刑制度廃止は前述の一つ、法的措置によるものであることは言を俟たない。

 そもそも刑罰とは何か。分かりやすく言えば「悪さをした者」に対する社会的な制裁、と言うことができよう。社会的制裁の対として、私的制裁がある。江戸時代における「仇討ち」がその典型であるし、赤穂浪士の討ち入りもその一つとして考えられたのであろう。ただし、当時は個人的な仇討ちは公的に認められていたが、赤穂浪士のような〝集団的仇討ち〟は認められていなかった。いや、むしろ禁止されていた。したがって、彼らは切腹に甘んじたのである。

 横道にそれるが、私は赤穂浪士の吉良邸への討ち入りはテロだと考えている。つまり法律に基づかない集団的殺戮行為(自爆テロも含めて)だからだ。その意味において、赤穂浪士の行為が美化されることに懸念を禁じ得ない。相手の吉良上野介は、愛知県知多半島において「いい殿様」だったというではないか。

 殺人も含めて反社会的行為を働いた者に対する刑罰制度は、現代社会における大きな知恵だと思う。これがなければ、社会は大混乱に陥るし、夜もおちおち寝ていられなくなる。この点について「宣言」は、刑罰について『犯罪への応報』と記している。実に的を射た表現である。その応報の在り方の一つが「死刑」であり、それを廃止すべきだというのが「宣言」の趣旨の一つである。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
36年ぶりに阿蘇山が大噴火。日本列島のマグマに異変が起きていないか。情報を隠していないか。不安。

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