ヘボやんの独り言
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2017/05/06 [Sat] 15:13:26 » E d i t
 当時、中卒者は「金の卵」ともてはやされていた。高度成長期にあって、重要な働き手だったからだ。子どもたちは〝金〟を生んだのである。ちなみに、現在すすんでいるNHKの朝ドラ(ひよっこ)は東北地方出身の子どもたちが多いが、九州、四国からの集団就職は大阪、愛知に配属されていた。

 東京に出てきたのは良かったが、仕事を探すのに苦労した。みつかったのは新聞配達だった。集金はなく朝夕の配達だけで宿舎や社会保険も完備しているという。有楽町にあるその新聞販売店に飛び込んだ。前述したように、同じような勤労学生ばかりだった。店は全ての新聞を扱っている「合売店」だった。

 配達先は企業だったため、一般家庭のように早起きは必要ない。販売店が借り上げたアパートから電車通勤で十分間に合った。企業相手の配達は、かなりの量になった。自転車に積むと、自分の背丈ほどになった。当時はまだ路面電車が走っており、雪が降った日はその線路に自転車のタイヤがはまり、新聞ごと倒してしまい〝泣き〟が入ったものである。

 その新聞販売店が、私が労働運動を始めるスタートになったのである。1964年に上京し翌65年に初めてメーデーに参加。ということは、組合活動に参加したのは17歳だったことになる。(自分で言うのも変だが)実にませた高校生だったといえる。

 私がそうなった背景はあった。父の影響である。父の具体的な活動の中身は覚えていないが、一生懸命に労働組合活動をやっていた。当時、炭鉱労働者の組合は「炭労」と呼ばれ総評の中ではいわゆる闘う労働組合だった。父の思想的背景には、九州大学教授の向坂逸郎教授がいた。

 私が炭住街で暮らしていたころ、エネルギーが石炭から石油に変わっていった。そのため炭鉱は次々と閉鎖され、そこで働いていた労働者は職を失っていった。その最大の闘いが「三井・三池闘争」だった。この闘争を指導したのが向坂逸郎氏だと言われている。当時の社会党内にあった、いわゆる協会派である。

 私の父はこれに影響を受けていたのではなかろうか。中学生のころ、「向坂先生」という言葉を幾度となく耳にしたことがある。中身は覚えていない。が、父は向坂理論を糧にして活動していたと思われる。その意味において組合活動は徹底してやっていたし、レッドパージの対象者にもなったのだろう。

 その父の影響が、私の中にあったことは事実だと思う。新聞販売店の待遇改善は当然だと思ったし、組合に入るのに抵抗はなかった。以上、やや長くなったが、私がメーデーに参加するようになったきっかけを述べてきた。その労働運動が今でもつづいていることに、誇りをもっていいだろう、そう考えている。

★脈絡のないきょうの一行
7日・フランス、9日・韓国で大統領選挙。目が離せないぞ。

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2017/05/03 [Wed] 08:56:20 » E d i t
 私のルーツは、五島列島にある。だからと言って、五島で暮らしたことはない。聞いたところによると、父の家族が詐欺に遭い田畑すべてを失くし〝労働者化〟して、島を離れて手っ取り早い炭鉱夫になったという。私が生まれたときに祖父はすでに他界していたが、父もその兄弟も長崎県、佐賀県、福岡県の炭鉱街で炭鉱夫として働いていた。

 私が生まれたのは、父が戦地・中国から帰ってきた1947年。団塊の世代だ。佐賀県伊万里市の炭住街だったがすでに二人の姉がいた。私が生まれた直後、福岡県直方市に移っている。父は労働組合の活動をやっていたらしく、レットパージを受けている。そのため、炭鉱を転々としている。もちろん、子どもである私も一緒に動いた。

 小学校2校、中学校は3校を経験している。その度に教科書が違い、苦労したことを覚えている。考えてみれば、当時は学校ごとに教科書を決めていたようだ。教師が選んでいたと思われるが、国の検定を受けたものではなく、それが本来の姿ではなかろうか。

 話が横道に外れた。私の下に妹と弟3人が生まれた。「貧乏の子沢山」の典型で、両親は7人の子どもを育てることになったのである。手元に写真家・土門拳の「筑豊のこどもたち」という写真集がある。

 1960年の作品であるが、この中に学校に弁当を持って行けない子供の写真がある。昼食時間に本を読んでいる。私はその子と同じだった。私の場合は学校の図書館に籠った。子どもに弁当を持たせてやれない母の気持ちはいかほどであったか、それを思うと今でも心が痛む。

 そういう生活のなかで、私は小学生の頃から定時制高校に通う、ことを決めていた。したがって中学卒業とともに、集団就職列車に揺られ愛知県刈谷市の鉄工所に勤めた。ふるさとを離れるとき母が見送りにきてくれた。15歳の少年の旅立ちだった。母はずっと手を振っていた。その姿を見て、小林多喜二の言葉を借りれば「泣かさって、泣かさって」仕方がなかった。

 ちょうど今、NHKの朝ドラが集団就職で上京して仕事をする子供たちの姿を描いている。あれとオーバーラップする。私は仕事が終わって、刈谷から(今では)JR東海道線で6駅離れた岡崎の工業高校の定時制に通った。もちろん電車通学は初めてだった。

 ところが、大学に行きたいと考えていた私はショッキングな話を聞かされた。大学に行くには、工業高校は不利だというのだ。悩んだ挙句、普通高校に乗り換えるため当時東京に住んでいた姉を頼って上京した。東京オリンピックが開かれた1964年であった。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
祝・憲法制定70年。平和主義はいつまでも元気であってほしい。

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2017/05/02 [Tue] 22:30:13 » E d i t
 きのう、代々木公園で「メーデー」が開催された。連合は4月29日に行っており、本来の5月1日はこのメーデーが〝本家〟である。メディアは、「全労連系」という表現をするが、これは間違い。全労連に参加していない組合も含めて、実行委員会を構成し代々木公園に結集するからだ。当然、千代田区労協もここに参加する。

 私は、今年でメーデーには連続53回目の参加となった。〝初メーデー〟は1965年。まだ高校生だった。定時制高校に通っていた私は、職場の労働環境があまりにもひどく、個人加盟の労働組合に加入していた。職場は新聞販売店だった。

 なぜこの職場を選んだか。定時制高校生にとっては絶好の環境だったからだ。朝刊の配達が終わって夕刊の配達までの間、勉強できたし昼間の大学に通学している仲間にとっては夕刊までに戻ればいいわけで、好都合だった。その新聞販売店には90人近くが従事していた。そのほとんどが、私のような高校生だったり、大学生だったり、大学受験生だった。何故か司法試験の受験生もいた。

 配達地域は千代田区内の大企業が密集する丸の内・大手町界隈、さらに霞ヶ関の官庁街もエリアだった。首相官邸、宮内庁にも配達していた。総理大臣や天皇は私たちが配達する新聞を読んでいた。今でもこの販売店は同じエリアを配達している。

 ここで待遇改善のたたかいが始まった。要求はシンプルだった。今でも残っている所もあるが、新聞販売店は朝刊の配達が終わると朝食が出た。この朝食に「おかずを出せ」というのが要求になったのだ。そのころの朝食は、ご飯と味噌汁、そして漬物だけだった。いわば、〝おかず闘争〟だ。

 そしてもう一つは、通勤手当をよこせ、だった。学生だから、ということで仕事のための交通費は支給されていなかったのだ。二つのシンプルな要求は共感を呼び、非公然だったが労働組合を十数人で結成した。この組合を軸に「従業員自治会」なるものをつくり、ここが要求交渉に当たった。結果は、なんと100%の要求実現をみたのである。

 ところが、その後販売店は1967年の春から夏にかけて、私も含めて6人を解雇したのである。恐らく組合結成の首謀者と見られたのであろう。6人の内訳は、大学生4人、予備校生1人、そして私は高校生だった。なんと、高校生争議団の〝誕生〟だったのである。初めてメーデーに参加したのが1965年。その2年後にクビを切られたのである。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
北朝鮮の核実験に、噴火の恐れ(CNN)。アメリカや、イギリス、中国の時にはその懸念はなかった? ヘン。
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2017/04/16 [Sun] 15:06:20 » E d i t
 きょうは私の誕生日。70歳・古希である。馬齢を重ねている訳だが、私は自分の「年齢の節目」を考えてきた。

 最初に年齢のことを思い立ったのは、息子が生まれたときだ。私はちょうど30歳だった。この子が自分の年齢に達したとき世の中はどうなっているだろうかと考えた。息子が30のとき私は60歳・還暦になっているはずだ。これは、楽にクリアした。

 次の目標は67歳にした。オヤジが鬼籍に入った年齢だ。とりあえず父親の年齢を超えようと考えた。今だから言えるが、実は少し緊張した。〝大丈夫だろうか〟という得も知れぬ不安感と、期待感が入り混じった。誕生日を迎えたとき、なぜかほっとした。

 その次は古希である。昔は古稀と書いたそうだが「稀」という字は常用漢字にないことから、「希」を使うようになったという。由来は「唐の詩人杜甫の詩・曲江(きょっこう)『酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり』(酒代のつけは私が普通行く所には、どこにでもある。(しかし)七十年生きる人は古くから稀である)」(Wikipedia)だという。飲み屋のツケと年齢を重ねたところが実におもしろい。

 何か古希の記念になるものはないかと考えた。あった。山に登ることだ。思い立ったら吉日だ。きのう、誕生日には1日早かったが奥多摩三山(大岳山、御前山、三頭山)の一つ、御前山(ごぜんやま 1,405M)にチャレンジした。この山はカタクリの花が群生することで有名だ。5月中旬過ぎにはハイカーが列を作る。

 山頂で記念写真を撮った。仕上がりを見てみるとおもしろい写真になっていた。黄色だけがカラーで、あとはモノクロなのだ(写真)。どうも、自動シャッターを操作するとき、ほかのどこかを触ったらしい。紹介したい。

【御前山山頂にて】
170415御前山2

 古希の次の目標は76歳だ。理由がある。私が賭けた厚生年金の積立額(本人、使用者、国の総額)は76歳までいけば、全額回収することができるからだ。76でチャラ。ここまでは意地でも生きたいものだと考えている。

 欲張りだと言われそうだが、その次は89歳である。母が逝った年齢だ。これは遠い。一歩一歩、一日一日がそこに近づく道だ。気楽にいきたい。

★脈絡のないきょうの一行
アメリカによる北朝鮮への〝一撃〟は杞憂ではない。武力攻撃だけは何としても止めなければ。

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2017/03/03 [Fri] 05:25:23 » E d i t
 先月26日、高校時代の恩師が逝った。76歳とまだ若かった。昨年11月に脳梗塞を起こし治療してきたが、併発した肺炎が収まらずそれが原因だったという。栃木県の塩谷町に住んでいた。ご承知の方も多いと思うが、3.11大震災の放射能汚染の残土(産業廃棄物)の仮処分場としてこの町が浮上し、今もくすぶっている。

 恩師は体育の教師で、投網を得意としていた。塩谷町でクラス会を開いたことがある。そのとき、投網で獲れた落ち合アユをごちそうになった。実に美味しかった。そのはずだ、清流で育ったものなのだから。産廃仮処分場について、恩師は反対し続けていた。環境破壊によって貴重な名水が汚れるからだ。

 私は「うちの組合に街宣車があります。いつでも車をもって応援に行きますよ」という手紙を書いたことがある。恩師は笑って、喜んでくれた。が、その宣伝カーを出すことはもうできそうにない。

 その通夜にクラスメート3人と一緒に出かけた。久しぶりに会う仲間たちだ。もちろん、みんな東京近郊に住んでいる。現状を報告しあううちに、私を除く3人の共通点に気づいた。3人ともいわゆる〝死に目〟に遭遇していたことだ。1人は透析をつづけている。あとの2人は心筋梗塞を起こし、救急車で病院に運ばれたことがあるという。

 透析をつづけている彼と、心筋梗塞を発症した1人はペースメーカーを埋め込んでおり、障害者・1級の認定を受けているという。もう1人は、血液をさらさらにする薬が手放せず、服用をつづけ1ヶ月に1回程度の通院を余儀なくされているという。

 ふと、思い当たった。恩師の訃報にこの3人は即座に反応して、遠く塩谷町まで通夜に同行してくれた。それは死に対して、一番身近に感じていたからではなかろうか。恩師の死が、自らの健康状態とオーバーラップして、他人(ひと)事とは思えなかったからではなかろうか。だからと言って、そのほかのクラスメートが〝冷たい〟というつもりはさらさらない。

 3人は生きていることの凄さと大切さを(本人たちは気づいていないかもしれないが)、無意識のなかに宿しているのではないかと感じた。その発露であろうか、「水久保クン、健康だけは大事にして。無理しちゃダメだよ」と何回も何回も言われた。クンづけで話してくれるのは、彼女らだけである。恩師の死を通じて、生きている事の何かを改めて考えさせられた一コマであった。

 来年、高校卒業50周年を迎える。節目の年である。すでに物故者となったクラスメートも何人かいる。そうだ、来年は50年のイベントをやろう、帰りの車の中でそんなことを考えていた。

★脈絡のないきょうの一行
北朝鮮、「金正男は心臓麻痺」。おっとと、どこかの首相の国会答弁に似てるなー(笑)。ポスト真実かい?

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